Ⅲ.マダムは管理栄養士
数秒間、記憶と思考が巡って恐怖と嫌悪に襲われ、俺は犬歯で唇を噛んだ。
「何か訳ありみたいじゃの。ま、嵐の中ハンググライダーとやらで飛行して森の茂みに転落すること自体、普通じゃ考えられんしの」
俺の沈黙をどう解釈したのか、瘉治Dr.は頻りに頷いて得心している。
「〝人は身体の中に百人の名医を持っている。その名医とは自然治癒力〟古代ギリシアの杏林、ヒポクラテスは唱えたものじゃ。――看田君に聞いたと思うが、此処はサナトリウムのような館での。外科病棟と違って手術も最新治療もやっておらんが、消耗した心身の滋養・療養を図ることを目的としておる。体力を回復させたり病を緩和させ、自然治癒力を高めるための手助けをすることが儂らの使命じゃよ」
怪我が治るまで暫く静養していけば良い、と付け加えた。
「チーフ。石医さんは」
「弓野君の病室に夕食を届けに行っておる。ついでに萩子君の様子でも見に行っておるんじゃろうて。娜々村君のことは儂から彼女に話しておこう。二階に一つ空き部屋があったのぅ」
瘉治Dr.が白衣の裾を捲ると、でっぷりと肥えて迫りだした腹回りが顕わになる。腰に巻きつけた鎖のホルダーから、知恵の輪を解くように鍵を一つ取り外すと、
「看田君、案内してあげなさい」
『二〇一』とプレートが付いた鍵を看田好恵に手渡した。
豪放磊落な医伯に頭を下げ、ナースと伴に診察室を退去する。
バスルームと一○三号室の間に階段があった。
「こっちです」
看田氏に導かれ、階悌を昇りかけた時、廊下のほうから声がした。
「おお、日佐夜さん。ちょうど良かった。実は今しがた――」
瘉治Dr.の声がして、俺の事情と経緯を説明してくれているらしい。
此処からだと死角になる。
看田氏と頷きあって階段を降りていくと、日佐夜と呼ばれた白衣の女が顔を出した。ややふっくらと丸びを帯びた小太り体型で、ボブカットヘアの中年女性だ。
「随分と悪運が強いのね、この島に舞い降りてくる負傷者なんて」
嫌みなのか他意はないのか、値踏みするように俺の頭から爪先まで視線を上下させると、
「看田ちゃんは人柄、能力ともに申し分のない人です。貴方も見習ってください」
はっ? 俺は医療従事者じゃないぞ? 病んでいる側の人間だ。何を見習えと言うのだ、意味解らねえ。
ピシャリと放たれた熟女の言葉に、俺は唖然として絶句した。そして腹が立った。何なんだ、このオバタリアン。
「私は石医日佐夜、管理栄養士。養生するなら此処はこれ以上ないほどおあつらえ向きです。しっかり治しなさい」
挨拶もできずに固まっていると、石医氏は看田好恵を呼び止め、
「そうだ。看田ちゃん。萩子君と弓野さんのことなんだけど――」
「はい」
若きナースは迅速に石医氏の元へ駆け寄り、何やら指示を仰いでいる。
「気にすることないわ、石医さんの言うことなんて」
暗がりの階段から声が降ってきた。
見上げれば先刻のカラス女――黒衣の魔女が立っていた。変わらず不気味なオーラを纏っている。
「二言めには〝看田ちゃん看田ちゃん〟バカの一つ覚えみたいよね。まぁこの家の連中は皆そうよ。どいつもこいつも看田好恵の信者ばかり。あんな小娘が何程のモンだって言うのかしらね」
クランベリーの香りを漂わせらながら、階梯をゆっくりと降りてくる。
「私は生薬原在異。薬剤師よ。尤もこの館では信用されてないから、専ら家政婦扱いだけどね」
生薬原は黒い唇を歪めて自虐的に笑んだ。看田氏ほどではないが、小顔で美肌。捉えようによっては美女と言えなくもないが、いかんせん狐目がキツい印象を与えている。実際、性格キツいしよ。
「石医さんと瘉治先生は元夫婦なの。ああ見えて彼、婿養子でね。後継ぎの子宝に恵まれなくて籍は抜いたようだけど」
生薬原は、廊下の角で看田氏と打ち合わせ中の石医氏を見下ろしながら言った。
なるほど。瘉治Dr.の部屋がダブルベッドになっていたことに合点がいく。一○三号室は元妻・石医氏との閨だったというわけだ。
『石医瘉治』確かに此方のほうがドクター然りとしていて、しっくりくるような。
「結局二人とも独身のまま、今も一緒にいる。尻に敷かれているかと思いきや案外、巧くやってるんだから解らないものよね」
生薬原は鼻先で笑うと、肩をすくめてみせる。
一通りの申し送りが終わったのか、石医氏が白衣の天使を解放すると。去り際、
「生薬原さん? 内緒話はもっと賢くやることね。全部聞こえているからね?」
背を向けたまま、ぼそりと呟いた。
俺は固まった。天耳通かよ。
「それと看田ちゃんは貴女とは格が違うの。わきまえなさい」
生薬原は隻眼の如く右目だけをキッと歪め、唇を噛んだ。石医氏の地獄耳も然ること乍ら、その鬼の形相たるや俺のほうがゾッとした。