Ⅱ.黒衣の魔女と太った医伯
華奢な肩に掴まって、白衣の天使に導かれて森を抜け、蒼い煉瓦造りの洋館まで辿り着くと、門の前に女が立っていた。
「アラ好恵。その子は誰?」
カラスのように黒衣を纏った意地悪そうな女は、門に背を預けて腕組みし、面白そうに俺を見つめてきた。黒髪を後ろで束ねて一本のみつあみにし、黒いベールをかぶっている。黒いルージュを塗っているのか、唇まで黒く、さながら魔女である。
「嵐でハンググライダーが壊れて、森の中で負傷されたお客様です。家で手当てしたら暫く休んでもらおうと思うの」
「ふっ、ついに浮浪者まで拾ってくるようになるなんて。やるわね。さすが好恵ちゃん」
「そんな言い方しないで。在異ぴょん」
看田氏は柳眉を歪めて首を振ると、黒ずくめの門番は冷笑して立ち去った。
いつしか雨は止んでいた。
敷地内に案内され、石畳を昇る。玄関の扉に魔女を象ったドアノッカーが嵌まっていた。獅子じゃないのか。
看田氏が鍵穴に鍵を差し込み、開いたドアに俺を通した。
「此処で待っていてくださいね、すぐに戻ります」
看田氏は三和土に俺を残して、パタパタと家の中に入っていった。
玄関口からは真っ直ぐに廊下が伸びていて、右側に部屋のドアが三つ並んでいた。手前から順に『一〇一』、『一〇二』と金属のプレートが埋まっている。
看田氏が向かったのは一番奥のドア。プレートまでは見えないが、一〇三号室だろう。
「チーフ、いらっしゃいますか」
立ち止まってノックする看田氏の声が聞こえた。
カチャと内開きにドアが開き、部屋の主が応じたようだ。
「実は――」
此処からでは姿は見えないし声も聞こえないが、『チーフ』とやらに俺の事情と経緯を伝えてくれているのだろう。
二、三のやりとりが交わされ、ドア先で一礼した白衣の天使がバスタオルを手に、俺の元に駆けてきた。
「医師から了承をいただきました。介抱してくれるそうです」
ありがたや。ホッとしたような看田氏の表情に、俺も胸を撫で下ろす。
手渡されたバスタオルに礼を言って受け取り、ずぶ濡れの頭髪と衣服から水滴を拭った。
しかし何故、医師がチーフと呼ばれているのだ? チーフとはシェフ長のことではないのか。
素朴な疑問は置いておいて、看田氏に連れられて敷居を跨げば、一〇三号室から白衣に身を包み、車椅子に乗った初老の男が現れた。
「君かね。娜々村惚稀君とは」
嗄れた野太い声に、思わず背筋が伸びる。
「は、はい。俺が――」
ん? 恰幅の良い老君は一瞬、片眉をあげて怪訝そうに俺を見上げたが、
「儂は当洋館の主であり、院長の吉村癒治じゃ。如何にもタコにも医師である」
黒淵眼鏡の目尻に皺を寄せ、ボス猿のように毛深く太い腕を差しだしてくる。
俺が戸惑っていると。
「震えておるな。悪寒がするのじゃろ。冷えは万病の元じゃ。まずは着替えて暖をとり、診察が済んだら入浴しなさい」
瘉治Dr.は車椅子を回転させ、くるりと背を向けた。
気さくなのか一癖あるのか、良く解らない老人だ。
一階の突き当たり、一〇三号室の隣がバスルームになっていた。脱衣所を更衣室代わりにし、看田氏に手伝ってもらって、彼女の用意してくれた服へ着替える。俺のキャラクターを損なわないよう配慮してくれたのか、ジーパンとTシャツだった。袖を通せばぴったりフィットして、パンツの履き心地も良い。看田氏と俺の体型はそんなに違わないらしい。彼女もこんなラフな私服を持っているのか。
「軽い打撲じゃな。幸い捻挫や骨折もしておらんようじゃし、言うまでもないが命に別状はない。これしきの軽傷で済んだのは奇跡じゃわい」
着替えた俺は、一〇三号室のベッドで診察してもらった。
「雷に撃たれて感電した形跡もないしのぅ」
レントゲンを撮られ、一通り俺の身体を診てくれた医伯は、ふぉっ、ふぉっ、ふぉと軽快に笑う。
診察室 兼 寝室なのか、ダブルベッドになっている。神聖で汚らわしい内殿に俺が踏み込んで良かったのだろうか。ダブルベッドの片側に身を預けながら思った。
机上にヒポクラテスの首から上だけの石像が置かれ、小さな本棚にカルテと医学書が数冊、収納されている。
四隅が黄ばんで変色した壁紙が貼られ、『ヒポクラテスの誓い』と書かれていた。
「全治一週間じゃろうて」
癒治Dr.に指示された看田氏は、ナイチンゲール宜しく俺の腕に包帯を巻いてくれた。
「しかし――」
聴診器を耳から外した瘉治Dr.は首を傾げ、
「君は今まで一体、どんな生活をしておった。事故での負傷を差し引いても身体がボロボロじゃぞ」
難しそうな表情で俺の顔を覗き込む。
さすがは医師だ。
九許斐のことを吐いてしまいたかった。危険な治験バイトを持ちかけられ、得体の知れない新薬を投与され、解剖や臓器移植まで施されるところだったこと。監禁され、人体実験の餌食にされ、牛肥村病院を逃亡したこと。すべて打ち明けてしまえたら。
だが、そんなことをしたらどうなる。追い出されるかもしれない。
それだけならまだ良いが、医学界はどこで繋がっているか解らない。万が一、瘉治Dr.が九許斐と通じていた場合、彼女に告げられてしまうかもしれない。九許斐は今頃、躍起になって俺のゆくえを探し廻っているはずだ。陸の孤島であろうと、俺を連れ戻すためならヘリコプターで翔んでくるだろう。あの女に俺の居場所を知られることだけは――!