Ⅲ.墜落死
東西南北は判らない。背中にハンググライダーが馴染んでくる。腹ごしらえと束の間のリフレッシュで充電した俺は、とにかく羽を広げて風圧を調整しながら風任せに翔び続けた。
途中、何度か休憩を挟みながら。
羽と風が一体化し、グライダーと一心同体になってゆく感覚。覚束なかった着陸と離陸の要領も徐々に身体が覚えてきた。習うより慣れろだな。
時には住宅街を、時には川や緑を超えて。雀が電線に止まり、屋根の上で黒猫が寝そべっている。公園で園児を遊ばせるママ友たち。葱の突きだした買い物袋を下げて、家に向かう主婦。世界ってこんなにも平和だったのか。俺は今、そこかしこに隠れている小さな幸福を一気に見下ろしているのだ。
次第に辺りは暗くなってきた。まだ夕暮れには早すぎるが、やおら雲が不穏な群青色に変色し、遠くで雷が光っている。
くそっ、六月の天候は崩れやすい。さっきまであんなに晴れていたのに。どこかで羽を休めなければ。
吹き荒ぶ風と、ゴロゴロ唸りだす空にイラつきながら俺は着陸する場所を探した。
ってか、見下ろせば地面がなかった。いつの間にか下、海じゃねーか! 先程から、どうも塩の香りが鼻をくすぐるとは思っていたのだ。
俺が暮らしていた北関東の外れに海はない。そうとう遠くまで来たらしい。
まずい。今、落ちたら溺れ死ぬぞ。
一心に陸を目指した。遥か遠くに小島が見えた。森に囲まれ、洋館らしき建造物がぽつんと佇んでいる。
しめた! 何とか彼処まで辿り着ければ。
いつしか豪雨に変わって視界が霞み、背中の羽が重くのし掛かる。降水が浸透し、次第に歪んでくる感触。追い風を味方につけ、鳥の如く帆翔したいところが、雨風のせいで進行方向が定まらない。
海上が時化て、大海原は凄まじい勢いで黒い飛沫を上げている。ここで墜落するわけにはいかない。荒波に呑まれたら一貫の終わりだ。
とにかくあの孤島に入れれば何とかなる。鬱蒼とした樹木が風雨に揺れ、俺を試すかのように待ち構えている。
どこまで試練続きなんだよ、俺の人生は。意地でも助かってやるわ、バカ野郎!
そもそも、ここまでハンググライダーにこだわる必要はあったのか。貯金は下ろしたのだから、タクシーを拾って手頃な宿に送り届けてもらえば良かったじゃないか。冒険は嫌いじゃないが、危険な目に遭うのは懲り懲りだ。自ら苦難の道を選んでいるようで、己の愚直さに腹が立つ。俺のバカ野郎。学ばないヤツめ。
くそっ、もう少しだ。
幸い、風向きはおおむね島の方角に流れている。嵐に打たれながら天命に身を任せ、最後の力を尽くして戦った。
やがてようやく孤島が近づいた時、鋭い稲妻が迸った。
ゴンガラッ ガッシャーン
悲鳴をあげる間もなかった。アルミ合金の骨が折れて羽がひしゃげ、重力はガクンと急転直下する。転瞬、俺は森の茂みへ真っ逆さまに突き落とされた。