Ⅵ.天変前夜
ギシッ、ズリッ、
足を引きずっているのか。摩擦音に混ざって、興奮したような荒い息遣いが聞こえてくる。
俺は気配を殺して、ダイニングの半開きになった扉から左目を覗かせた。
髪の毛を移植した件のプランターのそばに、何者かが立っている。マントルピースに掴まりながらゆっくりと腰を屈めていくその人物の素顔を、猶予う洋灯が照らした。
瞳をカッと見開き、弓張り月のように口角を上げ、般若の如く顔を歪ませた吉村癒治の姿だった。
杖をついている。いつもの車椅子はない。たっぷりと贅肉を蓄えた豊満な身体を揺らし、プルプルと中腰で近づくと震えた手をプランターに伸ばした。
「はぁ、はぁ、儂の、儂の髪の毛っ、髪の毛ちゃん……っ」
凡そ似つかわしくない、老いた杏林の狂喜を孕んだ喘ぎだった。
二〇一号室に戻った俺は、深い呼吸を繰り返す。
癒治Dr.は歩けたのだ。健常者と等しい歩行は困難だとしても、これで彼も二階に昇ることは可能となった。石医氏と共謀しなくとも、笠原殺しに単独犯の可能性が浮上する。元妻は知っているのだろうか。
北側に設置された窓を開け、夜空を仰いだ。星がギラギラ照りつけているが、やはり月は見えない。晴か彼方に、ひときわ煌めく紅い星があった。あれが火星か。星たちの性別は判らないが、嫌らしい星座に囲まれた、まさに紅一点。
ふいに樹木の隙間から人影が現れた。かず理だ。物思いに耽った顔で館に向かってくる。また性懲りもなく、放浪の旅をしていたのか。
無惨に砕け散ったハンググライダー。風に舞い散った白い羽のゆくえを思った。
だがふと考える。本当の天使の羽は、俺の背中にあるのではなかろうか。
窓のクレセント錠に手をかけた時、僅かな違和感が甦った。待てよ、おかしいぞ。あの人物は何故あの時、あんなことを言ったのだ……? それに、今日のあの行動。
次いで初日の夜の場面が再生される。笠原氏は扉の前でデイバックを叩きつけ、床に中身をぶちまけていた。あの時、金属の割れるような音が――。
一陣の夜風が吹き抜けて、ヒラヒラと舞い落ちたものを拾いあげる。到着した翌朝に俺が書いたメモだった。そうだ、この部屋割り――!
地下室で襲われた記憶が巻き戻され、映像化されて甦る。長ぁーい髪の毛が首に巻きついてきた感触。五感が研ぎ澄まされ、色彩が明瞭になって、グリム童話のエフェクトが加わる。
ドクン。心臓が跳ね上がり、鼓動が高まった。恐るべき真相に近づきつつある警告音。各人の行動、場面、不可解な痕跡。散らばっていたカードが、数珠繋ぎの如く一本の線に集結していく感触。
くすねてきたチョコレートの銀紙を破って齧りつくと、俺はベッドに胡座を掻いてナイトテーブルに向かった。ペンを取って羊紙を広げ、チョコを咥えたまま思いつく限りの謎を書きだしていく。瞼の奥で見え隠れする真実、錯綜する謎を整理したかった。レトリックが効くほうじゃないので、面白味はないが箇条書きに纏める。
Q.ワインセラーからワインが定期的に減っていた理由
Q.地下室で俺を襲ったのは誰か
Q.笠原氏が床に叩きつけて壊したモノは何だったか
Q.何故、鍵穴に髪の毛の束が突き刺さっていたのか
Q.空調が壊れていた笠原氏の部屋で、蒸し暑い夜に窓が閉めきられていたのは何故か
Q.笠原氏の手が窓を掴んでいた本当の意味
Q.ある人物のおかしな行動
Q.二人の人物が口にした言葉の矛盾
Q.なぜ『火星』が光っていたか
最後の問いは遊んでみた。松本清張のファンではない。
身体中にカカオが染み渡る。チョコレート効果だ。晩餐がろくに喉を通らなかったせいか、糖分が効率良くエネルギーに変換され、ほどよい空腹と相まって脳みそが急速に巡りはじめた。
本当は何が正しいの? 間違っているの?
箇条書きにした項目にアンサーを書き足し、氷解した順から斜線を入れて消していく。
ひとまず別解は残るが、あの方法を使えば弓野殺しの容疑者は二人にまで絞り込むことができる。どちらかが彼女を殺した。
先刻のほうれん草とベーコンのカルボナーラが回想される。食材同士の化学反応と同じかもしれない。一定の条件が揃う時、発ガン性物質を生じるように。一種の連鎖反応とも云うべき因果関係。弓野直子が息絶えた夜、時を同じくして笠原岳士が襲われたのは偶然ではない。
バラバラだった謎の欠片が一つの解を示していく。二つの密室殺人に共通するのは『ラプンツェル』だったんだ……。然すれば髪の毛が鍵穴に捩じ込まれていた理由も、不可思議な密室も、すべて辻褄が合う。
スマートフォンからアラームが鳴った。出鱈目に時刻を設定していたものだ。白衣の天使として働く傍ら、シンガー・ソングライターの仕事もこなす、ナースアイドルの歌が俺は大好きだった。曲名は『Question at 愛迷me』――
チョコレートを食べきった俺は独り言ちた。
繋がった。
「すべての謎は、今――」




