Ⅱ.リスタート
これは賭けだった。墜落したら死ぬだろう。
しかし俺の身体は既に糸が切れ、オイル切れの人形同然なのだ。終わっている。自力で歩く体力はもう残されていない。
立ち上がって、羽を背負うようにハンググライダーを装着する。一瞬、身体が重くなったが助走をつけて滑走し、砂利道を蹴った。風を切って羽が広がる。クラクラと離陸をはじめ、地面が緩やかに遠くなると重力が抜けていく。
翔んだ。
風の赴くままに身を任せ、空に近づく。家々も木々も小さくなって、総じて町が玩具箱みたいだ。
『珍ゃう珍ゃう軒』と屋根に書かれたラーメン屋の煙突から、牛骨スープの煮える匂いがした。
次に甘い匂いに誘われ、赤煉瓦の店からコック帽をかぶった男が出てきて、看板をセッティングしていた。
今さらながら腹が減った。死にそうだ。
おあつらえ向きにATMの出張所を見つけた。俺は風の向きを調節し、手動で羽を縮めてどうにか着陸した。
『MITSUHO』の青い建物に入る。ポケットにあったキャッシュカードを取りだすと、震える指先で指紋認証システムに触れた。
ピピッ
指先が反応し、パネルが切り替わると『預金残高』ボタンを押す。
《¥1110000》
表示された画面に俺は全身の力が抜けて、へなへなと座り込んだ。良かった、ちゃんと振り込まれていたんだ。なにしろ身を粉にして治験バイトに臨んだのだ。さすがの九許斐も詐欺ではなかったようだ。元からあった貯金と合わせ、約三ヶ月半、命を捧げて献身した報酬金を俺は全財産引き出した。
雑貨屋でパースとウエストポーチを購入すると、札束を仕舞った。気分的にプチ銀行強盗みたいだな(なんでやねん)。
先程見つけた赤いレンガ造りの店。『パンの樹*モック』とロココ調で描かれた木の扉を開ければ、小気味良いドアベルが鳴って、バターと砂糖の馥郁たる匂いが俺を包んだ。
急激な空腹感に襲われ、三度倒れそうになる。
覚束ない足取りで、しかしトングとトレーはしっかり握って俺はパンを購入した。コック帽の店主が一瞬、怪訝そうな目つきで俺を見たが、どうでも良かった。
手頃な雑木林に入ると、俺は買ってきたパンを広げ、まずはオニオンブレッドにかぶりついた。山形の食パンをマヨコーンソースでコーティングし、パセリのトッピング、中身はハムと玉葱、チーズが練り込まれている。
旨い。旨すぎる。さながら埼玉銘菓・十万国饅頭だ。パンだけどな。
次いでボトック、卵サンド、よもぎ餡ぱん、ウインナーロールに南瓜パイ。菓子パン、惣菜パンの順に、甘い系としょっぱい系を交互に平らげていく。まだまだ、何のこれしき。
ピロシキ、ホイップメロンパン、鴨葱のモンテ・クリストと抹茶餡巻きを獣のように貪った。
大量にあったパンが瞬く間に腹に納まり、自動販売機でメロンソーダを買って一気飲みすると、俺は葉っぱの絨毯に寝転んだ。
袋に入っていたパン屋のレシートを摘まみ、何気なく見てみると『北越ヶ山 南大沢』と書かれていた。北越ヶ山って何処だろうな、少なくとも牛肥村からは離れられたようだ。
天然の風が心地好い。森林浴だ。木洩れ日を浴びて、俺は暫し微睡みながら考えた。
どうするんだ、これから。百万と少しじゃすぐに底をつく。入院前、既にアパートは引き払っていた。新たに物件の契約をしても敷金、礼金に毎月の家賃。衣食が嵩めば三ヶ月も持たないだろう。働き口を見つけられるのか。必然、現実的な問題がのし掛かってくる。やはり生保の申請をしなければ。ホームレス決定だ。
まずは心身の回復が優先である。とりあえずカプセルホテルか格安の旅館を梯子して、当面は保養に努めるのが賢明だろう。旅籠は素泊まりで良い、料理がつくと高くなる。飯はその都度、購入すれば良し。
方位磁石も地図もない。スマフォのアプリを起動させたって、いかんせん俺にはチンプンカンプンだ。日が延びてきているとはいえ、探すなら明るいうちがベストである。
財布とキャッシュカード、スマートフォンを仕舞ったウエストポーチを今一度しっかり腰に巻きつけると、俺はハンググライダーを装着した。
いざ行き当たりばったり作戦、決行。善は急げ。