ⅩⅠ.十二人目のミイラ
「話しておきたいことがあります」
俺を呼び止めたのは菊地文華だった。神妙な顔をして立っている。
立ち話も何なので、俺の部屋へ通す。躊躇していた菊地氏だが、覚悟を決めたように付いてきた。
ソファがないのでベッドを薦めれば、菊地氏は遠慮がちに腰かけた。
「話とは」
「かず理さんのことです。さっき、森の薬草を煎じてスープを作ろうと提案していたでしょう」
ああ、そんなことを言っていたような。生薬原と石医氏の軋轢で、すっかり有耶無耶になっていたが。
俺が横に座ると、菊地氏は天井を見つめてから声をひそめた。俺の部屋の真上に当たるのがかず理の部屋だ。自室に戻っているだろう彼女を憚ってか。
「気をつけて。かず理さんは過去に、人を殺していますから」
いきなりの爆弾発言に俺は泡を食う。
「山で採取してきた山菜を食材に、間違えて毒きのこを料理してしまったことがあるのです。それを食べた患者さんが――」
膝の上でぎゅっと白衣を握りしめる看護助手。
俺はサッと血の気が引いた。
「それじゃあ生薬原氏が、朝食の席で言いかけていたことは事実だったのか」
「ええ。他にも河豚の捌き方を間違えて、テトロドトキシンが充分に摘出処理されていないままの刺身を提供し、患者さんを死に至らしめたこともあります」
嘘だろう。
「調理師免許は剥奪にならなかったのか」
俺は目を瞠って息巻いた。
あり得ない。何故そんなヤツが未だに調理師を続けていられるのだ。免許剥奪どころで済ませられることではない、下手をすれば。
「当時、同じ院内の厨房に勤めていた癒治先生と、ご存命だった癒治先生のお父様――唯晴先生が裏で手を回して揉み消してしまったのです」
なんということだ。かず理は昨晩、この館の住人は普通ではないと警告した。自分を棚上げして。或いは己の罪を含めての戒めと喚起だったのかもしれない。
世の医療ミスがあとを絶たない今日日、こうして悪事は狡猾な人間の手によって隠蔽されてゆくのだ。本来、裁かれるべき輩がのうのうと日の下で暮らしている。これが現実、か。
九許斐の面が脳裏を過って、俺は気分が悪くなった。
「生薬原氏が患者を殺しかけたというのは」
俺はさらに問いかけた。
「あれも本当です。但し生薬原さんの場合は、ミスではなく故意だったのではないかと噂されています。当時、石医先生が懇意にしていた――と言っても同性ですが――患者さんで、生薬原さんと反りの合わない女性がいました。調剤を誤った生薬原さんの処方で、一時はかなり危険な状態に陥ったそうですが、一命は取り止めました。やはりその不始末も癒治先生がかばい、唯晴先生の計らいで覆い隠され……」
なんということだ。石医氏と生薬原が拮抗しているのは、過去に残した禍根が起因しているのではなかろうか。
どうなっているのだ、この洋館も、世の人間たちも。俺は憤懣遣る方なかった。
「本来なら看護助手のわたしが、部外者の御方に告げ口すべきことではないかもしれません。杏の林には危険な薬草もきのこも生えていないはずです。とは言っても、万が一のことがありますので」
巨乳美女は声色を戻すと俺の瞳を見つめ、今度は憚らなかった。
「癒治先生は基本、優しい御方です。取って食われることはないと思います。ですが、気をつけてくださいね。いざとなれば自分の身を守れるのは、この家では自分だけですから」
丁寧に会釈してから部屋を去った。
眩暈に襲われる。菊地氏の思いがけない密告で、俺は改めてラプンツェル家に危機感を抱いた。静養どころが、これでは反って心身が蝕まれる一方である。
菊地氏は包み隠さず話してくれた。
身を守ると言っても、誰を味方につければ良いのだ。どいつもこいつも脛に傷持つ人間だらけではないか。今となっては、命の恩人である癒治Dr.さえ信じられなくなる。現時点で最も信頼に値しそうなのは、看田好恵と菊地文華だけだが――。
俺はナイトテーブルに備え付けの羊紙とペンで、昨夜に看田氏から聞いた各自の部屋割りを書き留めた。
◆ラプンツェル家の一族◆
≪一階≫
一〇一号室……萩子瞹太郎
一〇二号室……弓野直子
一〇三号室……吉村癒治、石医日佐夜
≪二階≫
二〇一号室……俺
二〇二号室……笠原岳士
二〇三号室……看田好恵
≪三階≫
三〇一号室……鈴木かず理
三〇二号室……生薬原在異
三〇三号室……菊地文華
たいして役に立ちそうもない。どうして予測できただろうか。深い意味もなく書き残したこのメモが。後に起こる凄惨な事件の謎を解き明かす、重大な手がかりになろうとは。
深夜二十三時。自家発電によって、館を巡っていた電気が自動で消える。
俺は一階へ向かう階段にいた。
地下室にワインの貯蔵庫があると、朝食時に癒治Dr.が話していたのを思い出したからだ。盗み出すのは良くないが、少しばかり晩酌をしたい。
探検も兼ねて、こっそり家捜しするつもりだった。
看田氏からランタンを借りることはできない。誰にも知られたくなかったのだ。
俺は己の夜目だけを信じて、階梯をゆっくり降りていく。
階下に着くと、廊下の突き当たりからぼうっと人影が浮かび上がった。
誰かいる?
ビクッとして身構えれば、楕円形の影は此方にゆっくり近づいてくる。
咄嗟に身を隠すと、やがて話し声が聞こえてきた。
「弓野君も気の毒にのぅ。悉く心身を蝕んでおる。あれでは回復の見込みがない」
癒治Dr.の声だ。
階段の死角に立ったまま、そっと顔だけ覗かせた。
石医氏が癒治Dr.の車椅子を押しながら、一〇三号室に向かってきているのだ。
「昔は病院の厨房でチャキチャキ働く、有能な駒遣いじゃったのに。所詮はパートタイマーじゃがの」
「ええ。まったく」
「ところで日佐夜さん。釈迦に説法とは思うが、彼女には気をつけなされ。どんな生活をしておったんだか、精神的にかなりガタがきておる。ああいうタイプは何を仕出かすか解らん」
「やはりご存じでしたのね。彼女が女性だと」
「ふっ、儂を誰じゃと思っとる。何十年、数多な人間の例を見てきた老巧じゃぞ。痩せ細って胸は削がれ、ジーパンとTシャツという身なりに、一人称は〝俺〟ときたもんじゃ。だが儂の目は誤魔化せん、一目で看破したわい」
「そう? 中性的な顔と声、大半が惑わされるでしょうね。女同士にしか解らないこともあります。――流石ですわ」
「いずれにせよ、あの娘がラプンツェル家十二人目のミイラにならんことを祈るがの……」