Ⅹ.毒尽くしの朝食会
毒女が去った食堂は静まり返っていた。対岸の火事で済むレベルではない。明らかな瘴気に満ちているのに、残された者たちは我関せずを決め込もうとしている。
生薬原と石医氏の確執は、今にはじまったことではないのだろう。
「萩子君。固形物が入らないんじゃったら、南瓜のスープだけでも飲みなさい」
先程から料理に全く手をつけていない萩子を、ちらと見て癒治Dr.が助言する。
「〝食物によるよりも飲料によって回復を図るほうが容易である〟彼の良医・匕ポクラテスの名言じゃぞ」
「食事は毒だ。心を破壊する……」
これまで一言も発さなかった萩子が、ぼそりと呟いた。
「放っておけば良いじゃないですか。食いたくないヤツに無理に食わせる必要はないですよ」
オムレツを飲み込み、木で鼻を括ったような笠原氏が乾いた声を洩らす。
無表情だった萩子に一瞬、青筋が浮かんだ。
「笠原さん、不眠症の具合は最近どうですか」
看田氏が然り気なく気遣えば、
「ああ、心配ないよ。良く眠れてる。毎晩、九時までには床に着くようにしてるし、睡眠導入剤のお陰でね」
当人はへらりと笑って鼻の下を伸ばした。
「それより僕の部屋、エアコンが壊れているようでね。少々寝苦しいんだが」
「それはいかんな」
癒治Dr.が反応する。
「一応、ドライバーで解体して各部品を見てみたのですが。素人では手が施せないレベルでした」
機械に通じていることを然り気なくアピールしてから、笠原氏はキザったらしく肩を竦めた。明らかに看田好恵を意識している。朝っ腹から脂下がりおって。
「近いうちに修理業者を手配しよう。今年の夏は暑くなりそうじゃからな」
癒治Dr.の懸念どおり、二〇一八年は後に驚異的な猛暑を記録することとなる。六月の中旬にして、日増しに気温は上がっていた。
ガタと音がすればテーブルクロスが歪んで、萩子が無言のまま食堂を出ていった。
オムレツは潰され、フレンチトーストはナイフで八つ裂きにされていたが、いずれも口を付けた形跡はない。あまつさえ食べもしないのに卓上のケチャップがふんだんにかけられ、真っ赤に染まったメインディッシュたちは、さながら血塗れのバラバラ死体である。
「やれやれ。萩子君にも困ったものじゃ。料理は人体への害だと思い込んでおる」
癒治Dr.は、ため息混じりで青年の消えた扉に視線を投げた。
「〝浄化されていない身体は、栄養を摂れば摂るほど侵される〟とヒポクラテスは云っておるから、あながち間違いではないんじゃがの」
「心を破壊するとも言っていましたね」
「一理あります」
案ずる看田氏に、石医氏が応じた。
「食べたものは性格に影響するわ。あるところに、とても意地悪な看護婦がいてね。毎日のように苛々していた。聞けば、煙草と珈琲で食事を済ませていたの。煙草は止めて味噌汁と玄米粥に変えなさいと栄養指導したわ。以降、食生活を改善した彼女は別人のように穏やかで優しくなったのよ」
それ、生薬原にも言ってやったらどうだ。
「〝汝の食事を薬とし、汝の薬は食とせよ〟じゃな」
マダムに呼応する癒治Dr.。ヒポクラテスの理念を模範としているらしい。
診察室に、ギリシアの刀圭家を象った石像が飾られていたのを思い出す。
食事を終えたのか、食器を下げた笠原氏も退室した。
「萩子瞹太郎君は元・栄養士での。笠原君が現役の調理師じゃった頃、一緒に働いていたことがあるんじゃ」
俺に聞かせているのか。癒治Dr.は、ぽっかり空いた二つの座席を見つめていた。
栄養士が拒食症とは滑稽な。不死鳥が死ぬようなものである。
「二人とも儂の可愛い部下だったんじゃが、萩子君はあの通りの摂食障害から栄養失調に倒れ、笠原君は医大に入って医師を目指したのは良いが、心身を病み不眠症を患っておる」
何故かそんな連中ばかりだな。この館は、医療従事者と患者の境目があやふやな人間が少なくない。
彼らをこの島に呼び、快復するまで療養させることにしたのは、癒治Dr.だったとのことだ。
各々が席を立って朝食会がお開きとなった頃。
「娜々村さん。今よろしいですか」
ダイニングを出ようとした俺の背後から声がかかった。