Ⅸ.狂笑する薬剤師
「萩子君。体調はどうかね」
瘉治Dr.が問いかける。
「……」
金髪の青年は土気色の顔で、無言のまま食卓に着いた。最悪だ、と顔にだけ書いてある。
「紹介しよう。娜々村惚稀君だ。事情があって昨夜から此処に滞在している」
萩子と呼ばれた青年は無表情で、ちらと俺に一瞥をくれるだけだった。
かず理の手際の良さで、テーブルに料理が埋まっていく頃に、石医氏が入ってきた。
「最近は落ち着いてたけど。弓野さんの興奮状態は間歇的に起こっているわね」
「発作にも波があるからのぅ」
弓野直子。アルコール依存症で、この館での療養生活が最も長い患者だと癒治Dr.は言った。以前は薬物中毒でもあったらしい。
弓野氏の部屋の鍵だけは瘉治Dr.が管理し、外側から施錠しているそうだ。俺たち通常の宿泊部屋と違って、彼女の病室のみ扉の内側にサムターンが付いておらず、外からしか開け閉めできない構造だという。朝と夜の回診時と食事を運ぶ時以外、扉は閉ざされたまま――。
さらには窓からの脱出も防ぐため、ガラス窓にはストッパーが設置され、二十cm弱の隙間しか開かない仕様になっているらしい。
瘉治Dr.を挟んで石医氏は左隣、看田氏は右隣に腰かける。上座の御三方だけ特等席が決まっており、残りのメンバーは空いている席に座るというスタンスだ。菊池氏、笠原氏と続き、コック帽を外してかず理も席につく。
全員が揃ったところで瘉治Dr.が音頭を取り、朝食会は開始された。
「時に近頃、どうも地下の貯蔵庫から葡萄酒が定期的に減っているんじゃが、誰か心当たりのある者はおらんか」
瘉治Dr.が一同を見回した。
「すみません、瘉治先生。わたしが時折、晩酌時にいただいています」
菊池氏が申し訳ないとばかりに白状する。
「いやいや、別に咎めているわけではない。嗜好飲料じゃから飲みたい時は持ちだしてもかまわん。但し少し減りが早いような気がしての」
主は髭を弄りながら首を傾ける。
「かず理さん。卵は成人でも凡そ一日一個までよ。オムレツにフレンチトースト、朝っぱらからコレステロールの過剰摂取だわ。それと猿じゃないのだから色彩も考えてね」
「良いじゃねーか、旨ければ。アタシゃ黄色人種なもんでね」
石医氏が難癖をつければ、かず理は口元をすぼめて頭頂部に指先を宛がい、類人猿のようにおどけてみせる。
俺はパンプキンポタージュを掬いながら、牛肥村病院での生活を思い出していた。俺の場合は、さすがに弓野氏の病室ほど厳重な閉鎖空間ではなかったが。部屋から出ることさえ叶わないなんて、どんな思いで毎日を過ごしているのだろう。水分補給と排泄はできるよう、彼女の部屋のみ洗面所とトイレ付きらしいが。入浴は看田氏と菊池氏の介助のもと、週に二日だけということだ。
「ダイエットしているわけじゃないのよね」
食が進んでいない俺に、石医氏の声が飛んできた。俺の食卓にはメインディッシュとサイドディッシュ、二種の卵料理が丸ごと残っている。
「食事も治療の一貫です。ちゃんと食べてください。この館の食事は保養食ですから。看田ちゃんは、しっかり食べて細い人」
またもや看田氏と比べられて俺はムッとする。
「歌ってやれば?〝うっせぇ うっせぇ うっせぇわ! あなたが思うより病人です♪〟ってね」
ニヤッと笑った生薬原が嘴を容れる。
「生薬原さん、それは何の歌」
「別に。今ふと思いついただけです」
石医氏がフレンチトーストにナイフを入れた手を止め、白い目で睨むと。生薬原はサラダのクルトンを弄びながら惚けた。
「傷口が痛んで食欲出ねえんなら、アタシが森で薬草採ってきて煎じてやろうか。杏の林にゃ色々生えてっから。それをスープにして飲めば、良くなるかもしれねえ」
かず理が名案だとばかりに手を打つ。
「ふっ、気をつけたほうが良いわよ? 娜々村さん。毒殺されちゃうかもしれないから――」
「え?」
生薬原が聞き捨てならない台詞を吐き、俺は顔をあげた。
「生薬原さん、貴女は人のこと言えるの」
マダムが鋭く言い放ち、舌打ちした生薬原が唇を噛んだ。良く知らんが藪蛇だったらしい。
「誤った薬の調合で嘗て患者を殺しかけた女が。瘉治さんがいなければ今頃――。貴女は獅子身中の虫よ。黙っていれば組織を蝕み食い殺すわ」
引き下がった生薬原を、石医氏はなおも容赦なく責め立てる。
項垂れていたかのように見えた、生薬原は。
「獅子身中の虫ですって……?」
突如、烽火をあげるように席を立って哄笑した。椅子が大きくガタンと揺れる。
「アハハハハ! そんな人間ごろごろいるじゃない、この家は」
知命の管理栄養士と暫し青白い火花を散らした薬剤師は、しかし踵を返してリビングを出ていく。振り向き様に笑顔から一転、怒髪冠を衝く、阿修羅の面に変わっていた。