Ⅷ.ラプンツェル家の一族
*
北向の窓からは、ほとんど陽は入ってこない。
それでも朝だ。俺はむっくりと上体を起こした。
カーテンを開ければ、怪我と筋肉痛で身体の節々が痛む。
ほとんど寝られなかった。かず理が作ってくれたシチューは美味だったが、いかんせんスパイスがコテコテに利いたクセのある味わいで、深夜やたらと喉が渇いた。
≪呪われたラプンツェルの館から出ていきな。出ていきな、出ていきな……≫
かず理の声が耳の奥で木霊している。一体ラプンツェルとは何なのか。またしても、張り詰めた空気は言及することを許さなかった。
朝食は午前八時。早めに自室を出た。
「弓野君、駄目だ。勝手に地下室へ行こうとしては」
「きぇーっ、離して離して。ワインを、ワインを」
「落ち着いて弓野さん」
階下に降りると、一〇二号室のドアが半開きになっていて、瘉治Dr.と石医氏が入り口で立て込んでいた。一人の中年女性が頻りに酒を求めて暴れ、止めに入っているようである。
「看田君、すぐに鎮静剤を」
「は、はい」
白衣の天使が小走りで一〇三号室を往復し、瘉治Dr.に注射器と薬剤を手渡す。蓬髪を振り乱して身を捩り、小刻みに震える女性を石医氏が背中を擦って宥め、看田氏がピンセットで摘まんだ脱脂綿にアルコールを浸し、女性の腕を消毒する。彼女がしどけない姿でくずおれたところに瘉治Dr.が注射器を打つ。見事な連携プレイであった。
「弓野さん、子供じゃねんだから大概にしたほうが良い。あまり瘉治先生たちを煩わせるなよ」
階段を降りてきた笠原氏が、冷たく彼女を見下ろしながら卑下した。
「……うるさい。壊れかけの医大生のくせに。あんたなんか、あんたなんか」
『弓野』と呼ばれる女性は、弱々しくも甲高い声で微動だにしながら反駁する。
「は? 壊れてんのはどっちだよ」
笠原氏はボソリと捨てゼリフを吐いて玄関口に消えていく。煙草とジッポライターを握っていた。一服吸いに行くのだろう。
ちらりとしか見えなかったが、弓野氏は線が細く能面のように無気力で老け込んでいるが、小綺麗な顔立ちではあった。
医療スタッフたちがその後の処置に追われる中、菊池氏の案内で俺はラウンジへ通される。
広い空間の手前に矩形のダイニングテーブルがあってテーブルクロスが九枚、背もたれ付きの椅子が九脚並べられている。原則として辺の短いほうに二脚、長いほうに三脚セッティングされているが、ぽっかり空間が作られた上座の中央だけは椅子が無かった。
左奥はキッチンに繋がっており、コック帽のかず理が昨夜のままの姿で忙しなくフライパンを振り、鍋をかき混ぜている。仕込みから味付けまで、すべて一人で切り盛りしているようだ。
壁際にマントルピースがあり、ペンダントからそのまま抜け出てきたかのようなカメオを象った、青い陶器が飾られている。
脇にプランターが置かれ、黒く伸びた草が植えられていた。チョコレートクイーンやコーヒーの木でもない、見たことのない植物だ。扇状に伸びた葉はベロッティに似ている。観葉だろうか。それにしては一部、支柱にくるくると巻きついていて、妙にリアルなのだが。
「よっ、昨夜は良く眠れたかい」
鍋を乗せた食膳車を運んできたかず理が、片手を額の高さまで上げる。
香辛料の効きすぎた賄いと、脅しとも思える意味深な忠告に目が冴えて寝つけなかった。
「嗚呼、まあ」
言い条、俺は曖昧に語尾を濁す。
今度こそチャンスを逃すまい。ところで、と俺は切り出した。
「この館がラプンツェルと呼ばれている由縁は何なのだ……?」
看田氏より、かず理のほうが訊きやすかった。
「先代当主、唯晴さんの趣向だよ」
両手鍋から黄色い液体を掬い、各席にスープ皿を並べていくかず理の返答は素っ気ないものだった。
「ゆいはるって」
「儂の実父じゃよ」
先ほどの騒ぎから一段落したのか、車椅子を廻しながら瘉治Dr.がリビングに入ってくる。
「末期癌に侵されていてのう。十二年前、隠遁して孤島を買い取り、館を建てさせ、余命を過ごしたのじゃ」
言いながら、椅子のない空席に車椅子ごとすっぽり納まった。
「儂は元より雇われ医師が体質に合わんかった。父が亡くなってから久しく空き家になっておったが、数年前に事実上一線を引いて幽居しはじめ、曾て共に働いていた者たちを呼んだのじゃよ」
この館がホスピスのような側面を持っているのは、先代当主の遺志も含まれてのことなのか。
「しかし親子で同じ名前を付けることはできないはずだが」
素朴な疑問だった。
「漢字が違うのよ、問題ないわ。戸籍に読み仮名は記載されないしね」
舞い降りてきた声は生薬原のものだった。クランベリーの香を撒き散らしながら、黒いベールと黒いドレスも健全である。
生薬原が右手前の下座に腰かけると、
「好きなところにかけなさい」と瘉治Dr.が薦めてきたので、出入り口に一番近い生薬原の隣に俺も座った。
この館は外から見た時、凸を縦に割った左部分のような長靴型をしている。三階建ての宿泊塔に、一階だけが左側に食堂と厨房の面積のぶん迫りだしているからだ。ラプンツェルが閉じ込められたと云われる塔は筒形のはずだから、別段、グリム童話に肖ったわけではなさそうだ。
「ところでこの島は、何県の何処に当たるのか」
俺は顎を引いて館の主を見た。今さらだが日本であることは解っていても、見当がつかない。
「愛知県と群馬県の狭間じゃよ。やや北関東寄りじゃがな。君は不治惨刑ヶ汀を超えてきたんじゃろうて。不治惨刑島へ渡るには、それしかないからのぅ」
フジ産業――。
「不治の病の〝不治〟に惨劇の〝惨〟刑務所の〝刑〟と書く」
群馬は内陸県だ。愛知にそんな忌まわしい入り海があったとは。
「日本地図にも載っていない、名も知れぬ沖と島での。不治惨刑は父、唯晴がこの離島を買い取った際に命名したものじゃ」
海老とアボカドのシーザーサラダにドレッシングをドクドク注ぎながら、杏林は事も無げに言った。
どういうネーミングセンスしとるんじゃい。思考回路ダーク過ぎるだろ。
と、その時、金髪の青年が一人、無言でダイニングに入ってきた。
160cmにも満たないほど、男にしてはかなり小柄で痩せ細っている。俺が対面していない最後の人物、いよいよ消去法で考えれば彼が『萩子』だ。