Ⅶ.調理師はスパイスを効かせすぎる
一人に戻ればドッと疲れが押し寄せてくる。俺はスプリングベッドに身を沈めると、息を吐いた。
ウエストポーチを外して中身を取りだす。ポーチも財布もスマートフォンも、防水加工なのが幸いした。多少湿ってはいるものの札束に雨水は浸透していないし、スマートフォンも問題なく機能する。
しかし圏外なようでアンテナが立たない。まあこんな孤島であれば当然のことだ。
杏の林こと、森の繁茂と葉の絨毯の弾力が落下の衝撃から守ってくれたのだろう。ありがたや。
とんだ旅になったが、こうして無事でいられたことは不幸中の幸いである。とにかく命さえあれば良い。生きてさえいれば何とかなるはずだ。
懸念材料は館の人間関係だが、奇特な瘉治Dr.と看田氏は俺を快く受け入れてくれた。それだけで感謝しなければいけない。
俺は目の前の軽食に手を合わせるとラップを剥がした。ハム卵と、照り焼きチキン。二種のサンドイッチを交互に頬張りながら、とりあえず看田氏に聞いた事柄を備え付けの羊紙に書き留める。
何故この洋館はラプンツェルと呼ばれ、そしてそれは何を意味するのか。結局、本人に問い質せないままだった。
未だ面通ししていないのは残る三人。鈴木、弓野、萩子。彼らの性別も年代も聞きそびれている。
とまれ、明日の朝になれば全員と顔を合わせることになる。その時、すべては明らかになるだろう。
看田氏が届けてくれたバスタオルとアメニティグッズ一式を抱えて、俺が風呂から上がったのは二十三時を過ぎる間際だった。知らずに寝落ちしてしまったのが要因である。
自室に戻ろうとした時、階段から誰かが上がってくる足音がした。
ギィ
階段そばの扉が不気味な金属音をあげながら開かれる。
「あんたが娜々村惚稀さんかい」
現れたのは、コック帽をかぶった大柄な老婆だった。
「チーフと石医さんに聞かされたよ。夕立に遭遇しながらハンググライダー翔ばして、着地に失敗したんだってな!」
やたらに大声で捲し立て、老婆は豪快に笑い飛ばす。
「何がどうなってこの離れ小島に行き着いたんだか、アタシにゃさっぱり解らねぇけど、何にせよ軽傷で済んで良かったなあ!」
ワハハハとツボに嵌まって、彼女は俺の肩をバシバシ叩く。
痛い、俺は怪我人だぞ。
持っていた赤い片手鍋を、老婆は俺の手に握らせた。
「夕飯がサンドイッチだけじゃ足りねえだろうと思ってな。野菜不足で栄養バランスが良くねえって石医さんも言ってたし、アタシがシチュー作ってきてやったよ。食べな」
今からかい。既に歯磨きも済ませているのだが。
負傷した右手に握らされた鍋は重くて、しかし旨そうな匂いと温かみを感じた。
刀自は歳のわりに矍鑠としていて、色黒の肌にくすみと皺が否めないが、若い頃は佳人だったろう面影がある。チンパンジーを美形にしたような顔立ちだ。
コック帽をかぶっているということは、もしや彼女が。
「アタシは鈴木かず理。調理師だよ」
やはり。
「笠原君にはもう会ったかい」
「あ、嗚呼」
一瞬、彼との嫌な対面を思いだして曖昧に首肯した。
「あの子は将来有望な調理師だったのに、残念だよ」
「何かあったのか……?」
頭の片隅で気にはなっていた。何故いきなり、調理師から医師を目指すことになったのか。
「奥さんと子供を流行り病で立て続けに失くしてね。以来、狂ったように医学に没頭してなぁ。とり憑かれたように猛勉強して医学部に入ったのは良いが、心を病んじまったんだ」
昔の笠原君はもっと気さくな少年だったよ、とかず理は溢した。
「アタシの実家が老舗の和菓子屋で、学生時代に彼はアルバイトしててなぁ。手先が器用だから見込みがあるって、和菓子職人だったアタシの兄貴に大層気に入られてたよ」
遠い日に想いを馳せているのか、かず理は鼻をぐずらせて目元を覆う。
「すまねえ。初対面のあんたにこんなこと話してもしょうがねえのに」
「いや、そんなことは」
唐突な人情話を聞かせられ、戸惑ったのは事実だが。顔を伏せた俺は複雑な思いに駈られる。
ちょうどその時、館内の照明が落ちた。二十三時になったのだ。
「ところで、これは真面目な話だが――」
一頻りしんみりしたあと。かず理は暗闇の中、周囲に気取られないよう声をひそめた。
今のは真面目な話じゃなかったんかい。
「悪いことは言わねえ。あんた早く此処から出ていったほうが良い」
闇に映えるキャッツアイの如く、かず理の両目が俺を捉えた。
「この家の住人は、まともじゃねえ。このままでは、いずれ必ず死人が出る。禍が降りかかる前に、呪われたラプンツェルの洋館から出ていきな」