Ⅰ.夜明け
夏のホラー2019。嘘。
くそっ、くそめ。殺されてたまるかよ、たとえこの身体が間違った命だったとしても――!
どこをどう走っているのか解らない。行く当てなんかなかった。今俺を奮い起たせているのは、あの時食べた豆打餡の求肥餅と、お婆ちゃんとの想い出だけだった。
危険な女医・九許斐ノナに殺されかけた。治験バイトと称して餌食にされ、真夜中に牛肥村病院を脱獄した俺は、丑四つ時公園へ逃げ込んだ。束の間、病院が動きだし、二棟の建物に追いかけられ、十字路を直進したのは正解だっただろう。
やがて力尽きて辿り着いた先は、瓦礫と機材が山積みになった敷地だった。朽ち果てた建物からシンナーの臭いがする。砂利道を踏みしめれば、磨り減ったスニーカーから感触が伝わって土踏まずが痛んだ。
地面に剥がれ落ちた塗炭屋根に顔を擦りつけながら首を回す。今俺が倒れているのが恐らく東の方向なんだろう。宙が薄紅色に染まって、紫の隙間からバター色の光が洩れていた。
夜明け……
どれくらいの時間が経っただろう。寝落ちしていたらしい。ジーパンのポケットからスマートフォンをまさぐった。液晶画面に表示されていたのは、『2018.6.13 7:35』
昨夜の出来事は幻だったのか――
気力も体力もとうに底をついている。今生きていること自体が不思議なくらいだ。
油が蒸発し、潰えかけのブリキ人形の如く、むっくりと上体を起こして辺りを見回す。此処は廃工場なのか。平日の朝だというのに人の気配がしない。工員が誰も出勤してきていないということは、封鎖された敷地なのだろう。どうやって俺が侵入できたかは謎に包まれている。
霞んだ視界に入ってきたものは、羽。機材の山に埋もれたアルミ合金のパイプに挟まれ、ポリエステル繊維が突きだしている。
エナジー切れの身体に鞭打ってガラクタを掻き分け、瓦礫の海から発掘した。この形には見覚えがあった。
ハンググライダーだ。壊れているかもしれない。
だが天涯孤独な俺には帰る家がない。そうだ、これで翔べば良い。
光へ導き、生を救う天使の羽か。闇へ誘い、死をもたらす堕天使の羽か。これは賭けだ。