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第一話 モノノフマウンテンとおとぎの国の王様-月曜日-その7

 それから母さんと妹がどうなったのか僕は知らない。

 電気も点けずに頭まで布団をかぶってうずくまっていたけれど、体調は一向に良くならなかった。

 どうすれば、もっとマシな生活ができるのだろう。

 ほかのみんなのように、特別に楽しいことがなくてもただなんとなく生きていられるような、そんな普通の生活がしたい。

 僕は死にたいと思ったことは一度もないんだ。だって死ぬのは怖いからね。怖い思いをしたくない僕は死のうと思ったことがない。死んでもいいと思ったことはあるけどね。例えばそう、今朝の奇跡のような偶然が紡いでくれた愛手奈さんとのひと時をもう一度、もう一度だけでもいいから体験させてもらえたなら、僕はもう死んでもいいかなって思う。積極的に死のうとは思わないけれど、生きている意味もない。

「愛手奈さん……」

 僕は今朝の邂逅を思い出して、女神の名をぽつりと呟いた。

 愛手奈さんだけは、僕にツラく当たらない。優しく手を差し伸べてくれる。眩しいくらいの笑顔を僕に向けてくれる。本当に天使のようなひとだ。

 絹のようにつややかな髪も、ガラスみたいに透き通った肌も、黒真珠のようなつぶらな瞳も、桜の花びらのような鮮やかな唇も、金木犀のような芳しい匂いも、僕に触れてくれた春風のような柔らかな体温も、初夏の木漏れ日のように煌めく微笑みも、そのすべてが僕にとっては高望みで、手の届かない夜空に瞬く星々の輝きのようで、もどかしくて、切なくて、愛手奈さんの側にいられない僕という存在が厭わしくて仕方がない。

 どうでもいいけど僕は愛手奈さんのことを考えるとどうも詩情的になる傾向があるみたいだ。自重しないといけないなぁ。

 家に帰ってから昼寝をしてしまったのに、僕の意識はうつらうつらと断続的に途絶えたり覚醒したりを繰り返した。

 短い夢の中で見る光景は、僕が作った小説もどき英雄譚のアルフレッドが活躍して喝采を浴びたり、憎らしい敵を痛快に蹴散らしたりする夢だった。

 でもアルフレッドに蹴散らされる敵の顔が宇佐伊くんだったり北内さんだったり、名前も知らないクラスメイトのだれかだったりするのに気づくたびに、僕はハッとして目を覚ました。

 僕はなんて醜い人間なんだろう。

 宇佐伊くんや北内さんが僕にキツく当たるのは僕がキモいからだ。普通の友達にはしないんだから僕に原因があるに違いない。

 はぁ……生まれ変わって英雄になりたいなぁ。

 ラノベみたいに異世界に転生してチートみたいな能力を使って悪いやつらから美少女を救ってハーレムを作れないかなぁ。

 そんな都合のいい世界があるわけがない。僕は知ってるんだ。たとえどんな世界に転生したって、僕は僕だ。僕がそんな英雄的な活躍をする場面なんてあるはずがないし、そもそも普通のひとっていうのは、だれかの助けを必要とするほど困ってない。困ってないひとを助けることはできないんだ。

 救世主が喜ばれるのは困っている人間がたくさんいるからであって、困っている側の僕が救世主になることはない。救ってほしいのは僕のほうだ。

 僕が愛手奈さんを助けるシーンがあるとすれば、それはそもそも愛手奈さんが何者かに襲われるような悲劇的な状況が必要で、だから僕が愛手奈さんを救って彼女から好意を得たいという妄想は、それはそのまま愛手奈さんが不幸であることを望むという、僕という人間が生んだ業でしかない。

 不幸を嘆くひとを救うことはいいことなのかもしれないけど、救うためにひとを不幸に陥れて拾い上げるなんて悪魔の所業だよ。詐欺師みたいだ。そんなやつは死んだほうがいい。

 だれも不幸にならないのが一番だ。

 だとしたら。

 もしだれも不幸にならないのが一番いいのだとしたら、僕を救ってくれるひとがいないのはなんでなのかな?

 不幸を嘆いてもなにもならない。自分を変えられるのは自分だけ。そんなキレイゴト僕には要らない。変われるんならとっくに変わってるよ。変われないから苦しいんじゃないか。そのままのキミでいいなんて馬鹿なことをいうなよ。いまのままでいいなら、僕は永遠に苦しみ続けなきゃいけないってことじゃないか。僕は世の中にあふれる優しい言葉が大っ嫌いなんだ。

 ベッドの上でうずくまったまま、僕は世界を呪ったり、自分の醜さを蔑んだり、救いを求めたり、都合のいい妄想で現実逃避したりしながら、ただひたすら無為に時間を費やした。僕にできることは、なにもせずに時が過ぎるのを待つことだけだった。


 愛手奈さん。

 僕が恋い焦がれる高校二年生のクラスメイト。

 本名は藤原愛手奈。

 愛手奈さんは調布西高校の有名人だ。

 彼女の名前を知らない生徒は、僕の学校には存在しないだろう。

 もし、どこかの大学で行われているようなミスコンが開催されたら、愛手奈さんが断トツで一位の座に君臨する。それほど彼女の容姿は水際立っている。

 父親は聖十字総合病院の院長で、祖父が理事長をやっている。ドラマにあるようなどろどろの人間関係があるかどうかは知らないけれど、母さん曰く「清廉なひと」らしい。病院自体の評判もまずまずのようだ。僕は行ったことがないから知らないけどね。

 愛手奈さんは優れた器量人だ。容姿もそうだけど、性格も穏やかでだれとでも分け隔てなく接することができる心の広いひとだ。病院の院長の娘というだけあって、成績も良好らしい。下尾生くんほど優秀かどうかは知らないけれど、不自由のない程度には勉強もできるのだろう。運動音痴という話も聞かないから、きっとそれなりにスポーツもこなせるんじゃないだろうか。

 総じて、能力面ではなにをやらせてもそれなりに優秀で、それでいて突出していない。だれかの鼻につくことのない立ち位置だ。生徒会の役員や学級委員を務めるわけでもないのに人望が厚いのは、彼女の容姿と性格ゆえだろう。学校という場所は能力でひとの優劣を計るところではあるけれど、愛手奈さんは能力ではなく人格で評価されている、そんな感じのひとだ。

 あれほどの美貌にもかかわらず、愛手奈さんに恋人や彼氏がいるという話は聞いたことがない。そういう話題にすらならない。普通はおかしいと思うんだろうけど、僕にはなんとなくわかる。愛手奈さんは人種どころか、種族が違うんだ。彼女はピラミッドの頂点にすらいない。そのはるか上空を優雅に羽ばたきながら、下界で戯れる僕たち下等種に慈しみの眼差しを向けている。そんな存在だ。手が届きっこない。

 ある種の神々しささえ携えながら、愛手奈さんは僕たちとおなじ目線でものを見て、おなじ言葉を話し、おなじ声で笑うんだ。なんて素敵なひとなんだろう。

 人嫌いの僕がこんなふうに寸評するくらい、愛手奈さんは有徳で立派な人物なんだ。彼女と普通に言葉を交わせる普通の人間なら、愛手奈さんのひととなりに感銘を受け、好んで彼女と親しくなりたいと思う者も多いだろう。当然ファンクラブのようなものも存在するし、神格化したり神聖視したりする生徒もちらほらいる。

 愛手奈さんを語るうえで、彼女の耳には届かないような声でささやかれる噂がもうひとつある。どうやら愛手奈さんは熱心なクリスチャンなのではないかというものだ。僕も少し調べてみたことはあるけれど、愛手奈さんは聖十字教というキリスト教由来の、でもキリスト教とは違った信仰を持つ宗教の信者らしい。だから愛手奈さんはクリスチャンではない、けれど傍からみれば違いのわからない神様を信仰しているのは事実のようだ。おうちが聖十字病院だから不思議ではないけれど、現代日本で熱心な信仰心をもつ人間はなかなかお目にかかれない。僕とおなじ世代ならなおさらだ。

 だからといって愛手奈さんはそれを勧めてくるわけでもなく、さりとて信仰心を隠すようなこともしない。日常会話の中で宗教的な話になる機会が少ないから、結果的にうわさ話になってしまっているというだけで、彼女が高邁な人物であることに変わりはない。むしろその信仰心ゆえに、僕のようなゴミ虫とも仲良くしたいと思ってしまったのかもしれない。聖十字教はうさんくさい新興宗教とは違って、調べれば日本各地に教会の点在するわりとメジャーな宗派なのだ。

 彼女は映画に出てくるキリスト教の牧師さんみたいな言葉も使わない。神はすべてを許してくれます、なんて言葉は発したこともないんじゃないかな。愛手奈さんは宗教的なにおいを感じさせないし、とても気さくなひとなんだ。

 そんな、いろんな意味で傑出した人徳者である愛手奈さんと僕に接点があるはずもなく、だからこそ奇跡みたいに言葉を交わすことになったこの日の出来事は、僕のその後の学校生活に大きな波紋を引き起こすきっかけになった。ただ、この波紋が僕にとって波乱なのか小波なのかを判じることは僕にはできない。だって、僕にできることは、ただ語ることだけなのだから。

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