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第一話 モノノフマウンテンとおとぎの国の王様-月曜日-その6

 どれくらいその場にしゃがみこんでいたのだろう。

 僕は震えが治まるまで頭を抱えてしゃがみ込んでいたけど、なんとか持ち直した身体を奮い立たせた。

 足に力が入らず、気持ち悪いのに吐く気力もない。そもそも吐瀉できるほど今日はモノを食べていない。学校の冷水器で飲んだ冷たい水も、もはや胃の中には残っていないだろう。

 ごしごしと目元を袖で拭って、ついでに鼻水も拭った。

 無造作に踏まれたなにも入っていない財布を拾い上げ、ついた土埃を手で払って鞄に入れた。財布もってる意味あるのかな、僕。

 とても立ち読みをするような気分にはなれず、電車に乗るお金もない僕は、ひとの多い道を避けて徒歩で帰路を辿った。強い西日を背に受けた僕の影は、真っ黒でぺしゃんこだった。

 家に帰った僕は、だれもいないリビングを通り抜けて階段を上り、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。

 父さんはこんな時間に帰ってくるはずもなく、母さんも日が暮れるより前には帰ってこない。妹の敏子はバスケ部に所属しているからまだ部活だろう。

 家にはだれもいなかった。

 すごく安心する。

 だれもいない空間。

 僕がなによりも望んで、けれど子どもの僕では決して手にすることはできない無音の世界。

 束の間の静寂だけが僕にとっての癒しだった。


 気づいたら眠っていた僕は、ノシノシとだれかが階段を上がってくる音に目を覚ました。だれかっていっても足音で母さんだってわかるんだけどね。

「おう、武志ィ。なんだテメェ、着替えもせずに寝てたのかよ。オラ、メシだよ」

 母さんは別に僕の部屋まで食事を運んでくれたわけではない。晩ご飯の時間なので降りてこいといっているだけだ。

 胃の不快感はまったく治まっておらず、頭もガンガンする。熱があるような感じはないのに異様に身体がダルい。

 母さんは僕の体調など気にもせず、僕の部屋を通り過ぎてベランダに干してある洗濯物を回収していた。別に母さんに優しい言葉をかけてもらいたいわけじゃない。この女にそんな慈悲の心はないし、むしろ心配などされたら母さんにこそなにかあったんじゃないかと疑うような女だ。

 のそのそと制服を脱いでクローゼットのハンガーにかけた僕は、三日くらい洗ってない部屋着のジャージに袖を通した。夫婦共働きの我が家には、黙っていても部屋の掃除をしてくれる便利な母親がいなくて助かっている。洗っていないジャージを勝手に洗ってくれるだけなら別にいいんだけど、部屋の掃除はマジ勘弁だ。僕の人生が終わる(男子諸君ならこの気持ちをわかってくれると思う)。

 重たい身体を引きずって階下に降りた僕は、リビングのテーブルに並んだスーパーのお惣菜を見て「うっ」と吐き気を催した。

 ダメだ、とてもなにかを食べられるような体調じゃない。

 僕は普段から少食だけど、今日は殊更に調子がよくないみたいだ。食べ物のにおいを嗅いだだけで気持ちが悪くなってきた。

 とりあえず座らないとまたどやされるので、僕はいつもの定位置に腰を下ろした。

「おい兄貴」

 背中から恐ろしげな声をかけられて、僕の肩はビクリと震え上がった。

 恐る恐る後ろを振り向くと、鬼のような形相の妹が僕を睨んでいた。

「おまえさァ、冷蔵庫に触んなって昨日いったばっかだよねェ」

 僕の頭はハテナマークでいっぱいだ。

 もちろんおぼえている。赤鬼のような面貌で僕を詰った敏子の許可がなければ僕は冷蔵庫には触れない。だから昨日からずっと僕は冷蔵庫に触ってない。なのになぜ妹はこんなにも怒りの表情をしているのだろう?

 疑問に思ったがなにかいっても怒鳴られるだけなので黙って小首を傾げた。

 ジクジクと胃の痛みが増してきて、僕はもうどこかに逃げたくなった。どこかといっても逃げる場所は自分の部屋しかないんだけどね。

「なんでアタシのカスタードプリンなくなってんの?」

 カスタードプリン? そんなお菓子があったのか。プリンくらいなら食べられるかな。

 砂のような朝ごはんを食べてからなにも口に入れていない僕は、お腹は痛いけど胃に優しいものなら食べたいとは思っている。プリンならきっと食べられる。

 などと考えていると、二の腕のあたりに妹の蹴りが飛んできた。

 イッタぁーい!

 なんで蹴るのぉ?

 僕は反射的に蹴られた二の腕を反対の手で防御したけど、敏子はそんなことお構いなくガシガシとガードの上から蹴りを入れてくる。

 痛い、痛い、痛いよ。

 妹は空手の有段者ではないけど、小学生のころ母さんに空手を強制習得させられているので普通のひとに比べて殴ったり蹴ったりするのがやたらとうまい。中学に入ってからバスケを始めて空手はヤメてしまったけど、幼いころに培った技術というのはそう簡単に色褪せたりはしない。僕はもやしっこの根性ナシなので始めて三ヶ月で耐え切れなくなってヤメたけど、妹には六年間の実践経験がある。結論だけを述べるととても痛い。

「テメェはアタマ赤ちゃんか? なんで昨日いったばっかなのにおぼえてねんだよ!」

「痛い! 痛いよ敏子!」

「うるっせぇ! シね!」

 妹は僕の嘆願を聞き届けてはくれなかった。

「ごちゃごちゃうるせぇぞおまえら」

 洗濯物をかごに入れた母さんが二階から戻ってきたところで、妹の攻撃はようやくやんだ。

「なんでケンカしてんだおまえら」

 喧嘩じゃないよ、いじめだよ。

 僕は泣きそうになりながら何度も蹴られた腕をさすった。

「このカスがアタシのプリン無断で食ったから制裁を入れてたんだよ」

「あぁ、アレか。悪いアレ母さんが食ったわ」

「ハァ?」

 妹の怒りの矛先は僕ではなく母さんに向かったけれど、母さんは「ワリィワリィ」と流してとり込んだ洗濯物を寝室に運ぼうとした。けれど敏子の怒りは収まらなくて、幼い子どもが喚き散らすように母さんに突っかかった。

「ザッケんなよ! アレ高ぇんだよ! 二百四十円もしたんだよ!」

「ごちゃごちゃうるせぇなぁ。カネ払えばいいんだろ?」

「そーゆー問題じゃありません。買ってくる労力とか考えないの?」

「ンなもん考えるわきゃねぇだろ。どうせコンビニのお菓子だろ?」

「秋限定の新商品! せっかく見つけたのにさぁ」

「わぁーったわぁーった。父さんにおなじモン買ってくるようにいっとくからさ」

「売ってなかったらどーすんのさ」

「そんときゃ諦めろ」

「ザッケんなよ!」

 妹の口調は荒々しいままだけど母さんに暴力をふるったりはしない。母さんのほうが強いのを知っているからね。敏子は勝てる相手しか殴らないんだ。

 母さんと妹が口論をしている脇で、僕は腕を抑えながらじっと震えて待っていた。口を挟んでもペタンコにいい返されるだけなのでなにもいわない。僕はなにも悪くないのに妹が僕に謝る素振りは少しもなかった。いつものことだ。

 妹の怒り狂う声を聞いていると、僕は段々と体調が悪化してきた。怒りの矛先が僕に向いていなくても、なにかの拍子にまた戻ってくるかもしれない。そんなことを考えただけで、僕の胃はぎゅーっと締めつけられたかのような痛みを訴え、僕は苦悶に顔を歪めた。

 ダメだ、吐きそう。

 吐くものなんてなにもないはずなのに、胃液が込み上げてくるのを感じて、僕は黙って席を立った。

 父さんと母さんの寝室で金切り声を上げながら口論しているふたりを気にしないよう目を閉じて通り過ぎて、僕はトイレで胃液を吐き出した。

 頭がガンガンする。

 苦しい。

 お腹が痛い。

 目がチカチカする。

 なにも吐き出すものがないのに吐き気を訴えてくる身体の命令に従って、僕は何度も嗚咽と唾液を吐き出した。

 ドア越しに聞こえてくるふたりの怒鳴り声がやんでしばらくすると、胃の痛みは徐々に治まって、今度は強烈な空腹を訴えてきた。なんてわがままな身体なんだ。

 でも僕はなにも食べる気持ちになれず、けれどリビングに戻る気にもなれなかったので、足音を潜めて自分の部屋へと戻った。

 二日前に買ったミネラルウォーターのペットボトルがまだ少し残っていたので、常温でぬるくなったそれを胃に流し込んだ。

 布団をかぶってベッドでうずくまって、ただ時間が流れるのをずっと待った。

 どこにいっても敵しかいないこの環境は、僕にとって地獄そのものだった。

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