第一話 モノノフマウンテンとおとぎの国の王様-月曜日-その4
その後の授業はいつも通りだ。特に変わったことはない。授業中に居眠りをするひとがよくいるけれど、僕にはアレがよくわからない。いつ指名されるかもわからない授業中にどうして居眠りができるんだろう。僕は常にドキドキしていて、必死に指を差されないことを祈りながら授業を聞いている。緊張で内容はろくに頭に入ってこない。ノートをとるスピードも遅いせいか、先生が黒板から書き記した内容を消してしまうほうが早い。だからノートをとるのは大事そうなキーワードだけだ。読み返しても意味がわからないからメモをとっているだけだともいえる。学校の授業は僕にとってほとんど意味のないものだった。
昼休みに一度だけ教室を出てトイレを済ませ、空腹は水でごまかすことにした。冷水器の水はおいしくないけれど、自販機でミネラルウォーターを買うお金もない。僕は電車通学をしないから、パスモみたいな電子マネーも持ってないんだ。持ってても残金はゼロのままにするだろう。使っているところをだれかに見られたら、空っぽになるのは財布の中身だけじゃ済まないからね。
教室に戻ってちらりと全体を眺めた。僕はこの技能だけはひとよりも優れているかもしれないと思っている。あまりじろじろと眺めていると、だれかに文句をいわれてしまうから、一瞬でだれがどこにいるのかを把握しないと、身構える暇すら与えられない。とはいっても僕に話しかけてくるひとは決まっていて、木茂井くんか宇佐伊くんか、あとは北内さんという女子だけだ。
北内さんはちょっとキツめの容姿に、ちょっとキツめの性格で、ちょっとキツめの態度と口調で僕に話しかけてくる女子だ。僕自身はおしゃれに無頓着だけど、北内さんはとてもおしゃれに気を遣っているのが見るだけでもわかる。真優美や敏子みたいに僕にとって身近な女子はあまり化粧っ気がないけれど、北内さんはお化粧をしているのが僕にもわかる。美人かといわれると微妙である。僕の好みではない。こんなことをいうと殺されてしまうので口にはしないけどね。
北内さんはめったに話しかけてこないし、たいていたくさんの友達で僕を囲んで、逃げ場をなくしてから話し始める。彼女が僕に声をかけるのは、あまりよろしくない話題を持ってくる時だけだ。僕が観察するのは主にこの三人しかいない。真優美の姿は見えないから、きっと教室にはいないのだろう。
北内さんはふたりの友達と大口を開けながら菓子パンを頬張っているのがちらりと見えたから、今日は僕に絡んでくることはないだろう。宇佐伊くんは教室の隅で木茂井くんと肩を組んでいた。傍目には仲がいいように見えるのかもしれないけれど、僕には木茂井くんが困っているのがよくわかった。木茂井くんがポケットから財布をとり出して、宇佐伊くんにコインを一枚ふるふると手渡すのが見えたから、今朝の僕とおなじような状況なのだろう。残念だけど僕には助けてあげることはできない。ゴメンね木茂井くん。
話しかけられる可能性がないと踏んだ僕は、目立たないようそっと椅子を引いて腰を下ろし、机を眺めながら次の授業が始まるのをひたすら待つことにした。
孤独っていうのはひとりでいる時に感じるものじゃない。周りにたくさんひとがいるのに、そのだれもが自分に興味を払っていないときに感じるものだと僕は思う。部屋でひとりのときは孤独感なんて少しも感じないけれど、こうして教室にいると自分は孤独なんだってしみじみ思う。もう慣れたけどね。
教室の後ろのほうで、吹奏楽器のハーモニーのような声が奏でられているのが聞こえた。普段は意識しなかったけれど、愛手奈さんの声だ。聞き耳を立てるわけじゃないけど、話の内容がちょっと耳に入ってしまった。愛手奈さんはどうやら週末に家族でお出かけをするらしい。とはいっても遠出をするわけでなく、西つつじヶ丘まで足を運ぶくらい、毎週末ほぼ必ず家族で西つつじヶ丘に出かけているから、土日はいっしょに遊べなくてゴメンね、というようなことを彼女をとり囲むたくさんのお友達に話していた。
はて、西つつじヶ丘ってなにかあったっけ?
西つつじヶ丘は調布西高校の最寄り駅である飛田給から東に六駅ほど向かった駅だ。快速や急行は停まるけど、特急や準特急は停まらない。各駅停車しか停まらない飛田給とは違ってわりと人口の多い町ではあるけれど、なにか目立ったランドマーク的なものはなかったはずだ。どんな用事があるのかはわからないけれど、僕には関係のない話だろう。愛手奈さんと僕は休日に遊びに行くような関係ではないし、休み時間におしゃべりをするような間柄ですらないんだ。
ひとの話を立ち聞きするようで申し訳ない気持ちになったので、僕は意識を愛手奈さんから切り離し、次の授業が始まるまでひたすら机の模様を数えることにした。
緊張の連続である授業をすべて終え、ようやく放課後になった。
友達のいない僕は放課後の学校に興味がない。部活動をやっているわけでもないし、なにもすることがないので、早々に立ち去るのが習慣になっている。長居したってろくなことがないからね。
僕はカバンを手にとって、一瞬だけ周囲を見渡した。下尾生くんは僕よりも迅速に帰宅への行動をとっている。さすが優等生は違うよね。木茂井くんはのそのそとカバンに荷物を詰め込んではなにやらにやにやしている。さっさと帰れば話しかけられることもないだろう。宇佐伊くんは友人と楽し気になにかお喋りをしているみたいだし、北内さんも似たような感じだった。真優美を見るとふと目が合った。けれど、これはいつものことだ。真優美はごく自然に目を逸らしてお友達と談笑を始める。彼女はカバンを手にとって立ち上がっていた。真優美も部活動には所属していないから、これから帰ろうとしているんだろう。帰りは一緒にならないし、真優美と学校で会話をすることはないから(普段もないけどね)気にする必要はない。
よし、行ける。
僕はだれにも話しかけられないうちに教室を退散することにした。
けれど、教室前方の扉の前で、下尾生くんが女生徒数人と親しげに話しているのが見えた。下尾生くんが複数のひとと話しているのはよくあることだけど、位置がマズい。あれでは最短距離で教室を出ることができない。僕の席は教室の一番前だから、後ろの扉から出るにはいろんな人間の横を通り過ぎなければならない。とてもリスキーだ。
だからといってここでまごまごしていると、だれかに捕まってしまうかもしれない。僕は一刻も早く教室から出たかったので、だれにも気づかれないようにそっと机の間をすり抜けて教室後方の扉に向かうことにした。
教室の後ろのほうでは愛手奈さんがたくさんのお友達と和気藹々と会話をしているのがちらりと見えた。だけど僕には関係ない。僕はその輪に入ることはできないのだから。
いつもとは違う経路で教室を出る僕を不審に思っているひとはいないようだ。僕はひとの悪意には敏感なんだ。このまま空気みたいに教室を出ればだれにも話しかけられずに済むはずだ。僕は逸る気持ちを抑えてそーっと人集りをすり抜けた。
一瞬だけ、ほんの少しだけ愛手奈さんの顔を見たかった僕は、彼女をとり巻く集団を横切るほんのわずかな瞬間だけ、ちらりと愛手奈さんを横目で鑑賞することにした。
ばっちり目が合った。
僕はかかしのように固まってしまった。
けれど心の中で頭を振り、すぐにその場を立ち去ろうと決意したんだけど
「また明日ね」
愛手奈さんがにっこりと目を細め、天女のようにたおやかで朗らかな微笑を僕に向け、麗しい人魚の奏でるハーブの調べのような声を僕にかけてくれたものだから、僕はたちまちパニックに陥った。
震える唇で「う、うん」と、聞こえたかどうかもわからないか細い声で頷いて、僕は目をつぶって急ぎ足で教室を出た。
心臓の鼓動がうるさいくらい僕の胸を叩いてくる。火が出そうなくらい顔が熱くなっているのがわかる。
愛手奈さんと会話をしたい。愛手奈さんの隣でいっしょ笑いたい。愛手奈さんの笑顔を見たい。けれどそれは僕には過ぎた願いだ。分相応というものがある。王女があまねく民に手を差し伸べることは許されても、罪人が王女の手をとることは許されない。
期待してはダメだ。必ず悪い結果に繋がるから。
愛手奈さんが明日も僕に話しかけてくれるなんて、そんなことはあり得ない。今日はたまたま朝ちょっとだけ話をしたから声をかけてくれただけだ。たまたまいつもとは違う経路で教室を出る時にすれ違ってしまったから声をかけられただけだ。
けれどもし、もし愛手奈さんに明日も「おはよう」って天使のように無垢でしとやかな笑顔を向けられたら。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると
「やーまーだークン」
軽薄そうな声が、僕の頭をガツンと殴りつけた(本当に殴られたわけじゃないよ)。
「どーした山田ー? そんなビビんなよ」
宇佐伊くんが、がっちりと僕の肩をホールドして顔を近づけてきた。
タイミングがいいのか悪いのか、ちょうど校舎の曲がり角で人目に触れにくい場所だ。
「な、なにかな? 宇佐伊くん」
「なにかなじゃねーよ。俺が聞きてーよ。さっきのアレなに?」
僕は困惑した。宇佐伊くんがなにを聞きたいのかさっぱりわからない。僕は宇佐伊くんに咎められるようなことはなにもしてないし、目立つ行動もとっていない。どうしてこんな状況に陥ったのだろう。
戸惑っているうちに宇佐伊くんの腕の力が少しずつ強くなって僕の首を圧迫してきた。スポーツをやっているひとの腕力は、なにもしていない僕よりもずっと強い。僕は苦しくなってきた。
「やーまだー。なんだよアレ? なぁ? なぁ? なぁ?」
「く、苦しいよ、宇佐伊くん」
「おまえが苦しいかどうかなんてどうでもいいんだよ。なぁ教えてくれよ。さっきにアレなんなの?」
どうしよう。宇佐伊くんがなにを聞きたいのか全然わからない。僕は今日なにもおかしなことはしていないはずだ。宇佐伊くんと接触したのは今朝の話だし、お金もちゃんと渡したし、僕がこれ以上お金を持っていないことは宇佐伊くんも承知しているはずだ。お金が足りなかったのなら謝るしかない。
「ご、ゴメン」
「あぁ? なにがゴメンなんだよ。わかんねーよ」
「そ、その、お金、もう、なくて」
「おいテメ、カネの話なんかガッコですんじゃねーよ。聞かれたらどーすんだよ」
「ご、ゴメン」
木茂井くんからは教室でお金をもらってたのになんで? と思ったけど、そんなことを聞けるはずもない。僕には謝る以外の選択肢がなかった。
「なに謝ってんの? まるで俺がイジメてるみたいじゃん」
「そ、その、ご、ゴメン」
「だからさぁ、おまえひとのハナシ聞いてんの?」
宇佐伊くんの腕の力がさらに強くなった。く、苦しい。どうすればいいんだろう。
「さっきのアレはなんなの?ってきいてんだよ。教えてくれよ、なぁ」
「わ、わから、ないよ」
宇佐伊くんは大きくため息をついて呆れ果てたような眼差しを僕に向けた。
「だからぁ、なんでぇ、おまえがぁ、愛手奈さまとぉ、また明日なの?」
愛手奈さん? どういうことだろう。僕はとても動揺していたから、うまく頭が働かなかった。
胃が痛い。
気持ちが悪い。
なにも食べてないのに吐きそうだ。
愛手奈さんと僕はなんの関係もない。身分が違う、人種が違う、住む世界が違う。
もしかして今朝のことを宇佐伊くんに見られていたのだろうか? いや、宇佐伊くんは「また明日」という言葉に疑問を呈しているのだ。するとついさっき愛手奈さんが僕にかけてくれた言葉を宇佐伊くんは聞いていたということなのだろうか。宇佐伊くんの席は愛手奈さんとそこまで離れていないから、可能性としては充分ありうる話だ。
また明日。愛手奈さんは確かにそういった。
友達なら、もし僕が愛手奈さんと友人関係なら「また明日」なんて言葉はありふれた日常会話のワンフレーズだ。でも違う。僕と愛手奈さんは無関係の赤の他人だ。だから宇佐伊くんは疑問を持ったのだろう。
愛手奈さんは男女を問わず人気者で、その美しい容姿はだれもがうらやむ国宝クラスの珠玉だ。須らく彼女のファンも多い。宇佐伊くんもそのひとりなのだろう。
これまでの学校生活で愛手奈さんと無縁の行動しかとらなかった僕が、急に話しかけられたのだ。それがたった一言だったとしても、明日も話しかけられる可能性を孕んだやりとりだ。愛手奈さんのファンならだれもが疑問に思い、僕と愛手奈さんになにがあったのかと訝るだろう。
僕はこの質問に対してどう切り抜ければいいか、まるで見当がつかなかった。
今朝の話をすればますます顰蹙と憤懣を購うことになりそうだ。ただの自慢話にしか聞こえない。
どうすればいいのだろう。
僕はきりきりと痛む胃を抑えながら必死に頭を巡らせた。けれど良案が浮かんでくることはなく、動悸が激しくてどんどん息苦しくなってきた。
背中を伝う嫌な汗が、僕の体調が急変したことを教えてくれた。
やっぱり朝の段階で帰ればよかった。
こんなことになるなら、体調も悪かったし保健医の先生も早退を勧めてくれたんだから、あの時点で休むべきだった。
いや、もし休んだら事情を知っている愛手奈さんがだれかに言いふらしたかもしれない。
いやいや、愛手奈さんがそもそも僕のことを話題にするだろうか? 路上にゴミが落ちていたことを殊更に言いまわったりするだろうか?
きっとない。
僕は選択を間違えたのだ。
愛手奈さんと話ができて浮かれていた僕は、そんな簡単な、小学生でもわかるような問題を先送りにして判断を誤ったのだ。
激しい胃痛と後悔の念が僕を襲い、思わずうずくまりそうになった。
「なに体調ワルそーなフリしてんの? おまえさっきまで元気だったじゃん」
宇佐伊くんはがっちりと肩をホールドしたまま僕の横顔を覗き込んだ。
確かに僕はさっきまで元気そうだったから急に体調が悪くなるのは不自然だ。僕もなんでこんなにお腹が痛いのかわからないくらいだ。でもとにかく苦しい。横になって休みたい。倒れ込んでうずくまりたい。
だけど僕の願いは宇佐伊くんには通じなかった。
「下手くそな演技で逃げられると思ってんじゃねーよ」
宇佐伊くんの重たい拳が僕のお腹にどすんとめり込んだ。
痛ぁい!
僕は痛みに耐えきれずその場にしゃがみこんでしまった。
「おい」
がっちりと腕で押さえこんでいた肩を僕から外した宇佐伊くんは、おなじようにしゃがみ込んで僕の胸倉をぐいっと持ち上げた。
く、苦しい……。
「おまえ明日から愛手奈さまと喋んの禁止な」
僕から話しかけたことは一度もないんだけど……。
「話しかけられても無視しろよ。いいな?」
えぇ? 話しかけられて無視するのはめちゃくちゃ感じ悪いんじゃないかな。そもそも気の小さい僕に相手を無視するなんてできっこないよ。
僕はできない約束はしない。死んだじいちゃんの遺言でも父さんに教わったからでも母さんにどやされるからでもない(そもそもおじいちゃんはまだ死んでないしおばあちゃんも健在だ)。約束を破ると酷い目に遭うからだ。
「わかったかって聞いてんだよ」
宇佐伊くんは声を荒げたりはせず淡々と僕に命令口調で同意を求めてきた。
僕はイエスともノーとも答えず、目を閉じたまま懸命に嵐が過ぎ去るのをただひたすらに待った。
けれどこれは悪手だったみたいだ。
「わかったんならいいよ。忘れんなよ」
なにもいってないんですけど……。
勝手にイエスと解釈されて、僕は拘束から解放された。
宇佐伊くんはペッと唾を吐いたり肩で風を切って歩いたりはしない。何事もなかったかのように僕の存在を無視して教室とは逆方向に向かって去っていった。教室に戻らないということは部活に行くのだろう。僕にはどうでもいいことだった。
「ケホッ、ケホッ」
僕は胸が苦しくて思わず咳き込んでしまった。殴られたお腹も痛い。殴られてなくても痛い。動機も激しいし、頭もガンガンするし、めまいもする。
しばらくその場でしゃがみ込んだまま僕は身体の不調が治まるのを待った。いろんなところが苦しいけど、頑張って耐えた。僕を助けてくれるヒーローは現れなかった。