第一話 モノノフマウンテンとおとぎの国の王様-月曜日-その3
きりきりと痛む胃を抑えながら、僕は目をつぶって階段を駆けあがった。心なしか空気が薄くなったような気がする。呼吸しようにも息苦しくて仕方がない。運動をしていない僕が階段を走って登れば息も切れるよね。こんなのはいつものことだ。
僕は得体のしれない嘔吐感に襲われたけれど、今日はお昼ご飯抜きで過ごさなければならないから、朝ごはんを戻してしまうわけにはいかなかった。大丈夫。このくらいなんてことはないさ。
歩道橋を下りれば学校は目の前だ。僕はとても気分が悪かったので、早く教室に行って休もうと思った。急ぎ足で校門をくぐって一直線に教室に向かおうとしたけれど、目の前がチカチカして、息苦しくて、僕は思わずその場でしゃがみ込んでしまった。
気持ちが悪い。
胃の中の物を全部吐き出したい。
でもこんなところで嘔吐してしまったら、周りのみんなからキモいクサいと思われてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
苦しい。
ツラい。
少しだけ、ほんの少しだけ休んだら、早く教室に行こう。椅子に座ってしばらく休めばきっとよくなるはずだ。こんなところでしゃがみ込んでいたら注目を浴びてしまう。僕は目立たないようにしなければならないんだ。だれの目にも止まらないよう、ひっそりと今日という日を過ごさなければならないんだ。
口元を抑え、うずくまりながら、僕はこみ上げる嘔吐感に必死で抵抗した。
ふと、足元が暗くなった。
気を失うとか、そういう感じじゃない。単純に僕と太陽の間になにか遮蔽物ができた感じだ。お天道様が雲間に隠れたにしては周りが明るすぎる。
顔を上げるのも億劫だったけど、僕はそっと視線を横にずらしてみた。
足だ。
黒い足が視界に映った。
きれいに手入れされたローファーは男物にしては小ぢんまりとして、とても同級生とは思えない。そこから縦に伸びる足首からふくらはぎの稜線があまりにもなめらかで、僕はほんの一寸だけ自分の目を疑った。まるで人形みたいに計算された曲線だ。
「大丈夫? 山田くん」
頭上から、フルートで奏でられる透き通った音色のような声が僕の耳に舞い降りた。
聞いているだけで心が安らぐような、やわらかで、たおやかな声音だ。
そのぬくやかな調べにつられて、僕は思わず顔を上げた。
僕を厳しい太陽の光線から遮ってくれた彼女は、きらめく絹糸のような長い髪を耳元で抑えながら腰をかがめ、小春日和のような匂いやかな風をまとい、眩しくて直視できないほどの輝きを放ちながら、あふれでる慈愛と救いの手を僕に差し伸べた。
陽光を背に受けた女生徒は、まるで彼女自身が淡い耀いを放っているかのようで
「女神、様?」
僕はほとんど呟くように、そう声に出してしまった。
彼女は困ったように照れ笑いをしながら
「わたしは女神じゃないよ。こんな名前だからそんなふうにいわれることもあるけど、ただの高校生だよ」
僕の手をとって、ゆっくりと持ち上げてくれた。柔らかくてしなやかでなめらかなその感触に、僕の鼓動は跳ねるように震えた。
「顔色、よくないね。体調わるいの?」
なにか声を出そうと思ったけれど、のどからなにも出てこなかった。呼吸をするのも忘れてしまったかのように、僕の身体は固まってしまっていた。
立ち上がった僕と彼女の距離は、異様に近かった。こんなにも間近で女の子の顔を見たのは妹以外では初めてかもしれない。瞳に映る自分の姿を見てとれるほど、甘い息遣いを肌で感じられるほど、彼女の顔は僕の目の前にあった。
彼女は僕の頬に手を当てて、困ったように首を傾げた。
「低体温、なのかな? 血色もよくないし、保健室にいって休もう? 大丈夫だよ。わたしがいっしょについて行ってあげるからね」
「え? あ、いや、その」
「どうしたの? 気持ち悪いの? げぇーってしちゃう?」
下からのぞき込むような上目遣いの彼女の視線に、思わず僕は高速で首を横に振った。うまく言葉が出てこない。
「安心して。わたしが保健室までつれていってあげるね。先生がいなかったらお薬も用意してあげるよ? 不安なら手も握っててあげるからね」
キラキラと光輝く女生徒は、惜しみない朗らかさと優しい笑みを僕に向けていた。
僕は混乱した。
な、ななな、なんだこのあり得ない展開は。
僕の思考は現実に追いついてこない。追いつけない。現実は超スピードで僕の認識をすり抜けて、遥か彼方へ僕を誘おうとしている。
「あれ? もしかしてわたしのことわからない?」
僕はまたしても高速で首を横に振った。
「愛手奈だよ。おなじクラスの藤原愛手奈。おぼえてないかな?」
「お、おぼえ、てる、よ。藤、原、さん」
「ほんと? よかった」
愛手奈さんはひまわりみたいに破顔して、耳元を流れる美しい髪をわずかに揺らせた。脳がしびれるような甘くてとろけそうなそよ風が、僕の鼻孔を突き抜けた。
女の子はいい匂いがする、なんてよく漫画で見かけるセリフだけど、これは反則だ。ただでさえ追いつかない思考が、瞬く間に置き去りにされてしまう。
薄靄のかかった脳と停止した思考を猛スピードでフル回転させて、僕はなにか言葉を紡ごうと試みた。けれど心配げに僕を見つめるあどけない濡れた瞳と、吹奏楽器のメロディのような声音を奏でる桜色の唇が意識に絡みついて、僕はただ頷くだけの木偶人形と化してしまった。
「ゴメンね。わたし力持ちじゃないから、おんぶしてあげられなくて」
「あ、や、そ、あ」
なにをいっているのか自分でもさっぱりわからない。なにをいおうとしたのかさえ胡乱だ。
「歩ける? 肩を貸してあげたほうがいい?」
「え、あ、い」
僕は言葉を発する器官を動かすことができなかったので、小刻みに首を横に振った。
「遠慮しなくていいんだよ? なんでもいってね」
愛手奈さんには僕の意図が伝わらなかったようだ。僕の右腕を持ち上げて、身体を密着させて自分の肩に置き、さらにそのきめ細やかな彫像品みたいな白皙の左手を僕の胴に回した。抱きかかえるようにぴったりとくっつきながら、まるでゆっくりとワルツを踊るように、黒のニーソックスに守られた麗しい曲線を描く足を一歩前に出し、「行こう?」と上目遣いで僕を促した。
僕は緊張と困惑でなにも考えられなかった。いわれるがままに彼女にひっつきながら歩き始めた。目と鼻の先にある彼女の艶やかな髪から香る甘やかさが、僕の鼻孔の奥を貫いてカクカクと頭を揺さぶった。さっきの嘔吐感とはまったく違う理由で倒れてしまいそうだ。
腕も肩も手も足も、どれもこれも触れるだけで折れてしまいそうなくらい細いのに、信じられないくらい柔らかな感触を僕に返してきた。鼻血が出そうだった。
幸いというべきか、始業までは三十分以上もあり、朝練をしている部活の生徒たちはまだその活動を終えてはおらず、朝練とは無縁の生徒はまだ登校していない。そんな空白の時間帯だったこともあって、僕と愛手奈さんはほとんどだれにも見られずに保健室まで辿り着くことができた。
僕の腕が重かったのか、僕といっしょに歩くのがよほどイヤだったのかはわからないけれど、愛手奈さんは陶器のように白い肌に咲いた桜色の唇からせわしなく息を切らせていた。濡れっぽい吐息が異様に扇情的で、僕は思わず生唾をごっくんしてしまった。
心臓はさっきからずっとフル稼働中で、胃の痛みも吐き気もとっくに消え失せ、ただ別の意味での息苦しさだけが僕の肺をしめつけた。呼吸不全で死んでしまいそうだ。
「先生、いないね」
保健医の教員が出勤しているのかまだなのかは不明だが、とにかく保健室にはいなかった。外界から隔絶されたその空間は、明け方の病院みたいに静かだった。消毒液や薬品の混じった独特の香りがツンと鼻を突く。
「山田くん、そこにすわって」
愛手奈さんは無造作に置いてあった丸椅子にすわるよう僕を促すと、戸棚を勝手に開けてなにかを探し始めた(名前も知らない保健医の先生、ちゃんと鍵くらいかけようよ)。そういえば薬を探すみたいなことをいっていたけれど、どんな病気かもわからないのになんの薬を探しているんだろう。自慢じゃないけど、僕は薬を飲むのがあんまり好きじゃないんだ。
「うーん、ないなぁ」
なにを探しているの?
たったこれだけの言葉を、いまの僕にはいいだすことができなかった。小学生でもいえるようなセリフなのに、のどの奥になにかが挟まったみたいに言葉が出てこない。情けなくて言葉の代わりに涙が出てきそうだ。
愛手奈さんは目的の物を探すことを諦めたようで、ぼけーっとすわっている僕の目の前に立ち、腰をかがめて顔を寄せてきた。
思わず息をのんだ。
愛手奈さんの顔が近すぎて、もしなにかの間違いでほんの少し前に倒れたら、唇が触れてしまいそうなくらいだった。息遣いどころか、肌の体温まで感じられそうだ。
間近で見る愛手奈さんの顔は整いすぎていて、きれいだとか可愛いなんて形容詞は似合わない。一言で表現するなら「美しい」という形容詞が一番しっくりくる。マスカラやグロスなどを使わなくても、長い睫毛は彼女の目元を鮮やかに彩り、小さな口元は艶っぽくて色っぽい。肌には染みやほくろなんてひとつもなくて、おなじ日本人とは思えないほど色素が薄い。近くで見ると、彼女が化粧をしていないことがよくわかった。なのに北欧のひとみたいな透けるような白さではなく、健康的な肌色を保っている。どうしたらここまで他の人間と差が出るのか。単純な努力だけでは絶対に埋められない、生まれもった天賦としか考えられない。
なにより僕が釘付けになったのは、彼女の瞳だった。愛手奈さんは僕の瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。僕は彼女の瞳に意識をすべて吸いとられるように魅入られていた。頭がうまく働かない。視覚も、嗅覚も、聴覚も触覚も、五感のあらゆる機能が彼女の存在に心を奪われていた。いま彼女に死ねと命じられたら、僕は迷わず屋上から飛び降りてしまうかもしれない。
「わたしのお父さん、お医者さんなんだ。だからちょっと触診みたいなことさせてね」
そんな前置きがなくても、僕は彼女のお願いなら喜んで聞いていただろう。
愛手奈さんは僕の目じりや頬、胸板やお腹をぺたぺた触っては「うーん」とうなっていた。彼女の手が身体に触れる度に、頭の先からかかとまで電流が走ったかのような甘い衝撃がほとばしった。
「ゴメンね。やっぱりわかんないや」
てへりと可愛らしい舌を覗かせて、愛手奈さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
僕はもう死んでもいいと思った。
あぁ、僕の十六年の人生は、愛手奈さんの笑顔を見るためにあったんだ。僕は満足してしまった。もう思い残すことはなにもないよママン。ママン? いや、母さんとかほんとにどうでもいいな。よく考えたら死にたくないよ。僕は思いとどまった。
その後、缶コーヒーを片手にあくびをしながら保健医の先生がやってきたので、僕は簡単な診察(というか質疑応答)を受けた。特に異常はないから過労かなにかだろうと診断された。念のため早退するかも確認されたけど、こんな時間に家に帰ったら母さんになにをいわれるかわかったものじゃない。僕は多分におどおどしながら先生の提案を断って、保健室を辞去することにした。
愛手奈さんは保健医の先生にとても信頼されているらしく、僕が退室する際に先生から話しかけられ、笑顔で応対していた。それを見て僕はもやもやした気分になったけど、僕にだけ笑顔を見せてくれる女の子なんてこの世界に存在するわけもなく、愛手奈さんの邪魔をしては悪いと思い、先に教室へ行くことにした。
あんなに苦しかった吐き気やめまいはどこかに霧散してしまっていた。なにが原因かはわからないけど、治ったなら別にいいかと思い直し、僕はとぼとぼと人気の少ない廊下を俯きながら歩いた。
「待って! 山田くんっ!」
背後で吹奏楽器のソプラノのような耳に心地よい音色が僕の名前を奏でた。その声を聞いただけで、僕の肩はぶるりと震えた。
「どうして先に行っちゃうの? わたしなにか気に障ることしたかな?」
え? むしろ僕にとって奇跡みたいな胸の高鳴る時間をくれてありがとうとお礼をいいたいくらいだよ。なんて気障なセリフが口をついて出るはずもなく、僕はやっぱり首を横に振るだけだった。
息を弾ませて駆け寄ってきた愛手奈さんは、金木犀みたいに甘く芳しい涼風を連れてやってきた。彼女が放つオーラのようなそれに触れるだけで、僕の意識は天に召されて成仏してしまいそうになった。
愛手奈さんがそばにいると、僕はドキドキしてそわそわして、いてもたってもいられなくなる。けれどだからといって逃げ出すこともできず、僕はそこに立ち尽くすよりほかになにもできなかった。
「もしかして急いでた? ゴメンね」
どうして謝るの? 愛手奈さんはなにも悪いことをしてないのに。むしろ愛手奈さんの気遣いになにもこたえられない僕のほうが悪いに決まっている。
僕はなにかをしゃべろうと思ったけれど、当意即妙な言葉が浮かんでくることはなく、女の子受けのする話題もなければ、女性に好まれる話し方も知らなかった。なにかひとことでもいい、彼女を笑顔にさせられる言葉はないか。僕が無意識に選んだ言葉は、三歳児でもいえる簡単な日本語だった。
「あ、あり、がとう」
愛手奈さんは「ん?」と小首を傾げたけれど、すぐに意図を理解したのか、雨上がりの雲間から差し込む陽光のような柔らかで眩しい笑みをみせてくれた。
「んーん。どういたしまして。顔色もよくなったみたいだし、悪い病気じゃないみたいでほんとによかった」
僕は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
こんな、剥き出しの良心みたいなひとが、この世界には存在したんだ。
いままでいろんな悪意や敵意とは出会ってきたけれど、こんなふうに、宝石箱みたいにきらきら輝く純然たる善意に触れたことが、これまでにあっただろうか。
ふと真優美のことを思い出した。
このひとは僕と一緒にいてはいけないひとだ。
ピラミッドの最上層の人間は、逆ピラミッドの最下層の人間と交わってはならない。村長が村人と話すことは許されても、国王が罪人と親しげに話すことがあってはならない。こんなところをだれかに見られたら、僕は王の品格を汚した罪に問われ、愛手奈さんは罪人と戯れたことでその品位を落としてしまう。
けれど、僕には愛手奈さんを突き放す勇気なんてなくて、その眩しくて見ることさえ叶わないシリウスみたいなほほ笑みに照らされて、顔をそむけることしかできない。
愛手奈さんはにこにこと目を細めながら、僕は顔の筋肉を硬直させて俯きながら、おなじ教室へと、おなじ廊下を、おなじ道を歩いた。
窓の外がにわかに活気づき始めたのが、行き交う生徒たちの快活な声でわかった。僕は早く教室に行ってひとりにならなければと思い、でも手を伸ばせば触れられる愛手奈さんとの距離感にもどかしさを感じた。
「わたしね」
ちょん、と愛手奈さんはおどけたみたいに僕の前に躍り出て
「山田くんといろいろお話してみたかったの」
なにを思ったのか、だしぬけにそんなことを口にした。
お話といっても彼女が一方的に話しかけてくれただけで、僕は首を縦に振るか横に振るかしかしていない。
けれど愛手奈さんはちょっと照れた様子で頬を赤らめて、伏し目がちな視線を僕に送りながらこんなことをいうものだから
「うん、ほんとはね、もっと早く山田くんとお友達になれたらなってずっと思ってた」
僕は右ストレートで思いっきりブン殴られたボクサーみたいに鼻血を出して卒倒しそうになった。
な、なにが起こったんだ?
僕はひどく混乱した。愛手奈さんの発した言葉の意味がよくわからない。
え? 僕と友達になりたい? そ、それ以上の関係に?
いやいやいや、そんなこといわれてないよ。友達止まりだよ。
でも、僕と友達になりたいって愛手奈さんは思っていてくれたの?
こんなに美人で、こんなに優しくて、こんなに柔らかくて、こんなにいい匂いのする愛手奈さんが、僕みたいな社会の底辺を這いつくばるゴミ虫と友達に?
僕は胸の内側からあふれてくる強烈な熱と痛いくらいに脈打つ鼓動に中てられて、悠久の大地に吹きすさぶ乾いた風に思いを馳せた。
この現実を受け止められない。
僕にそんな器量はない。
火が出そうなくらい顔を真っ赤にして、僕はただただ俯く以外になにもできなかった。
愛手奈さんはそんな僕の顔を下から覗き込んで、クスッと微笑みながら「行こう?」と首を傾げてみせた。
そのしぐさを見ただけで、僕の心臓は止まりそうだった。
なにも語らない僕に少しも不快感をみせない愛手奈さんは、穏やかな笑みを絶やすことなく手招きをした。
そんな愛手奈さんの輝きに誘われ、僕は夢遊病患者のような足取りで、ふらふらと彼女の背中を追いかけた。
けれど夢っていうのは簡単に覚めてしまうもので、このうららかな木漏れ日のような時間はすぐに終わりを告げた。
教室につくと、たくさんの視線が愛手奈さんに吸い寄せられ、続いて入ってくる僕の姿に疑念と嫌悪の眼差しを突き立てた。
「おはよう、みんな」
愛手奈さんはわらわらと寄ってくるクラスメイトひとりひとりに笑顔とおはようを分け与えていた。
僕への注視はまたたく間に霧散した。だれも僕の存在を気に留める者はいない。
僕はその傍らをそっと通り抜けて、教室中央最前部の席に腰をおろした。僕に向けられた剣山のような視線はほんの一瞬で、みんな愛手奈さんをとり囲んでは「どったの?今日?」「ちょっと遅かったよねェ?」「なんかあったァ?」「愛手奈さんちょっと聞いて」「今日も変わらずキレイだね」「朝っぱらから口説くのヤメてくれるゥ?」などと囃し立てた。愛手奈さんはそのひとりひとりに丁寧な答えと女神のほほ笑みを返していた。
僕はそれを務めてみないように心がけ、さっきまでの夢のようなひとときを思い出し、突きつけられた現実に顔を伏せた。
ありがとう、愛手奈さん。貴女が隣にいてくれたほんの数分の出来事は、僕の心に奇跡のような温もりと潤いを与えてくれました。今日この日の思い出を胸に、僕は静かに生きて行こうと思います。
目を閉じてそんな決意を新たにしていると
「ふひ、ふひひっ」
鼻の詰まった豚のような声が耳に届き、僕は顔を上げた。
「やま、やま、山田氏。きょ、今日は、めがめが、女神さまと、とと登校でござるか?」
柔らかそうなお腹を弛ませながら、小柄な少年が僕に声を掛けてきた。
「お、おはよう、木茂井くん」
木茂井くんは僕に話しかけてくれる数少ない知人だ。ティッシュを詰め込んだようなほっぺたと、細すぎて開いているかどうかわからない眼、常に前方を向いている鼻の穴が印象的な、僕とおなじ逆ピラミッドの最下層民だ。僕から話しかけることはあまりないけれど、木茂井くんは時間と余裕があれば僕に話しかけてくれる。貴重な存在だ。
「ずず、頭が高いでござるよ。せ、拙者ら下民はつつつ常に匍匐前進。に、にそ、二足歩行すらき、き、禁止されているでおじゃる」
「いま普通に歩いてきたよね?」
廊下で匍匐前進なんてしようものなら、あまねくすべての女子に背中をストンピングされて教室まで辿り着くことはできないよ、木茂井くん。
木茂井くんの話し方は独特で、最初はなにをいっているかよくわからなかった。最近はようやく彼がなにを話しているか理解できるようになったけど、注意して聞いていないといまだに聞きとるのは難しい。
「やまやま、山田氏。けけ、今朝はどど、ど、どうしたでござるか?」
「え? な、なにもないよ?」
「ずずず、随分お、おそ、遅いとと、登校でおじゃる」
ござるかおじゃるか統一してくれないかな。武家か公家かわからないよ、木茂井くん。
「う、うん。ちょっと、吐き気がしたから、その、保健室に」
「ぷぷーっ! き、きき、禁断のほ、保健室! みだ、みだ、みだらな放課後、じょじょじょ、女医さんのふしだら献身看護」
この学校の保健医は男だよ。あと、まだ授業も始まってないから放課後でもないよ。
木茂井くんの欠点は大した用事もないのに話がとても長いことだ。周りのみんながしている雑談みたいなことなら別にいいんだけど、雑談ですらないことが多い。独り言をつぶやいて僕に聞かせにきているみたいだからちょっと困る。けれどそれを突っぱねることも僕にはできないし、木茂井くんには悪意や害意を感じないからいつも聞き役に徹することにしている。
「邪魔だ、退けよ木茂井」
木茂井くんと会話をしている(一方的に独り言を聞かされている)と、隣の席の下尾生くんが登校してきた。
「さ、さーせん。ふひひっ」
慌てて場所を空ける木茂井くんに、下尾生くんは露骨に嫌そうな顔を向け、溜め息とともに席に着いた。そのまま僕たちに背を向けると、周囲の友達に模試の結果の話などをし始めた。
下尾生くんは調布西高校の麒麟児だ。どの教科でも常にトップクラスの成績を維持し、総合成績は学年一位。みんなの頼れる家庭教師でもある。これでスポーツ万能ならすごいんだけど、残念ながら運動神経は普通くらいだ。見た目はなんというか、想像にお任せするよ。
彼は努力家でプライドが高く、自慢はしても他人を見下すような発言をしない、なかなかに高潔な人格者でもある(発言はしなくても目で語っちゃってるけどね)。下の名前は「才駆」といって、才能が駆ける子に育ってほしいという親の願いからつけられたらしい(下尾生くんが自慢げに語っていたのを小耳にはさんだんだ)。ご両親は離婚してしまったらしいけれど、女手ひとつ母親のもとで才気煥発な男児に育ったみたいだ。
僕は下尾生くんとは話したことがないけれど、彼の周りにはよくひとが集まっているからきっと人気者なんだろう。僕よりも上位の存在だ。身の程を知る僕から話しかけることはないだろう。
木茂井くんが立ち去ると、僕はただ机を眺めて時間を潰すことにした。下尾生くんが隣の席だと、周りがにぎやかで厭わしい。愛手奈さんが隣にいてくれたほんの十数分間の出来事は、夢幻のごとくきらびやかで、僕はただただその思い出に浸ることで現実から目を逸らすことにした。