第一話 モノノフマウンテンとおとぎの国の王様-月曜日-日常
「こらァ、武志ィ! さっさと起きんかい!」
スマホのアラームが鳴るよりも早く、母さんが僕を起こしに来た。この世界に優しくお兄ちゃんを起こしに来てくれる妹は存在しない。アイツを起こすのは僕の仕事なんだ。
母さんにどやされると気分が萎えるので、僕はいやいやながらに布団から這い出ることにした。まだ眠いけど、母さんのお説教を聞かされるよりはマシだ。
「敏子を起こしてきな。ちんたらやってたらケツ蹴り上げっからな」
自分で起こせばいいのになぁ、なんて思ったけど僕は黙って立ち上がった。母さんはノシノシと階段を下りてリビングに戻ったようだ。ここからは迅速に行動をしないとまた雷がやってくる。だけど僕の足は震えてなかなか動かなかった。
意を決して妹の部屋のドアをノックした。返事が来ないのはいつものことだ。もう一度ノックをして、そっとドアを開けた。アラームがピコピコ鳴っているにもかかわらず、妹はベッドの上で枕を抱きかかえてぐっすり眠っていた。ここからは恐怖との戦いだ。僕は努めて平静に声をかけた。
「敏子、朝だよ。起きないと遅刻しちゃうよ」
妹はまったく起きる様子を見せなかった。これもいつものことだ。ちゃんと一声でもかけておかないと、後でなにをいわれるかわかったものじゃないからね。さて、どうやってこの娘を起こせばいいのか、僕は早くも途方に暮れた。
以前にスマホを耳元まで近づけたら「てめアタシのスマホに勝手に触ンじゃねーよ」と大声で詰られたことがある。スマホは個人情報の塊だから慎重に扱わないとね。肩を揺すっても怒鳴られるし、大声を出しても聞こえない。無敵じゃないか。どうやってこのモンスターを穏便に眠りから覚ますことができるのか。仕方がないので耳元に顔を寄せ、少しだけ大きな声で妹を呼んでみた。
「敏子、朝だよ!」
その瞬間、妹の目がゆらりと開いた。そして
「ぶべっ!」
彼女の鉄拳が飛んできた。い、痛いよ。なにするんだよ。
「てんめぇ、なに朝っぱらからアタシの顔にきったねぇツラ近づけてんだよ。とち狂ってキスでもしようとしたのかアァ?」
きみを起こそうと名前を呼んだだけだよ。どうしたらそんな結論に行きつくのか教えてよ。
「年頃の乙女に近寄らないでください。加齢臭が移ります」
酷いよ。きみと僕の歳はひとつしか違わないよ。
「早く出てけよテメェなんでここにいるんだよ着替えらンねぇじゃん」
いつもその格好のまま洗面所までくるよね? 今日だけ着替えるの? 僕は疑問を呈したかったけど妹の機嫌は酷く悪かったので、おとなしく退散することにした。
母さんに怒鳴られ、妹に詰られて、砂みたいに味のしない朝食をとった僕は、行き先はおなじなのに絶対に一緒に登校しない妹を置いてひとり家を出ることにした。父さんは通勤に二時間以上かかる会社に勤めているから、僕たちよりずっと早く家を出る。父さんは僕に厳しくすることはないから好きなんだけど、もう何年も一緒に朝ごはんを食べたことがない。休みの日はお昼まで寝てる僕が悪いんだけどね。味方のいない家は、とても居心地の悪い場所だった。
お隣さんの天野家は僕の両親ととても仲がいい。おじさんは父さんの大学の後輩で、おばさんは母さんの高校生時代の友人だ。なんでこんな狭いコミュニティで家庭が構築されたのかさっぱりわからない。ともかく天野家と山田家は仲良しなんだ。
そんな経緯もあって僕は天野さんチのお嬢さんと仲良くしなければならない。おじさんは父さんの後輩でもあり会社の部下でもある。おなじ会社に入んなよ。あと家も隣に建てんなよ。などと文句をいっても家庭環境を変えられるわけじゃない。ともかく僕は天野さんチのお嬢さんと仲良くしなければならないのだ。それは彼女も同様で、むしろ彼女のほうがおじさんからいい含められているようだ。上司で先輩の息子さんと諍いがあってはならず、よい関係を両親に見せておかなければならない。
だから家のドアを開けるといつも真優美が僕のことを待っている。真優美はいわゆる幼馴染みだ。小さいころは本当によくいっしょに遊んだけれど、高校生にもなると交友関係は大きく変わるもので、最近は真優美とどこかに出かけたりはしない。ただ、朝は必ずおなじ時間に家を出て、いっしょに途中まで登校する。途中までね。
「おはよう、たっくん」
柔らかな笑みで僕を迎えてくれる真優美は、実情を知らない人間からすれば空から舞い降りた天使のようだ。長い髪を後ろで結わえたポニーテールはとても彼女に似合っている。目鼻立ちも整っていて、面長の顔と円らな瞳に困ったような八の字の眉が印象的な、優しげな容貌だ。事実、彼女の性格は温和で物腰も柔らかい。
「お、おはよう、まゆ」
僕らはいつものように朝の挨拶を交わした。僕の挨拶がおどおどしているのもいつものことだ。
真優美は挨拶以上の会話を求めず、笑みを残したまま学校へ歩き始めた。僕はそれについていく。会話はない。なにを話していいのかわからない、というレベルではなく会話をする意思がない。僕にではなく真優美にだ。
十月に入ったばかりの通学路は涼し気で、日の光もそれほど強くはなかった。だけど僕の背中にはいやな汗が滴っていた。
気まずい。
わずか数分の真優美との登校の時間は、僕の胃をきりきりと痛ませた。
真優美は無言だ。なにも語らない。僕は話しかけるのが得意じゃないので、僕から話題を振るようなことはない。真優美がなにも話してくれないと、僕と彼女の間に会話はない。これもいつものことだ。なにも変わったことはない。幼馴染みといっしょだから気心が知れているとか、黙っていても気まずくならないとか、そんなことはない。真優美の背中からは「話しかけるな」オーラが漂っていて、そばにいるだけで背中が丸まってしまう。真優美と歩くこの時間も、僕にとってはストレスだった。
「じゃあ、また明日ね」
真優美はおっとりとした笑みを浮かべたまま、僕に別れを告げた。彼女は僕に背を向けて駅までの道を、僕は徒歩で学校までの道を行く。ちなみに真優美は僕とおなじ調布西高校の生徒だ。おまけにクラスメイトでもある。だから行き先はおなじで、両親から見える範囲までいっしょに登校する。でも僕は遠回りをしなければならず、彼女は駅に続く一本道を行く。
なんでこんなことになったのか。
高校に入ってひと月くらい、ちょうどゴールデンウィークを過ぎたころ、彼女はいまとおなじ場所で僕に一言
「今日からいっしょに登校するのはここまでにしよう?」
と提案してきた。え、なんで?と思ったけど
「いつもいっしょにいると、友達とか彼氏って思われちゃうでしょう?」
それは確かにちょっと問題があるかもしれない。あれ? 彼氏はともかく友達は別に問題ないんじゃないかな。
「うん。でも、あたし友達でも困るから」
そっかー。それは仕方ないよねー。僕と友達だといろいろデメリットのほうが多いもんね。
ごく一般的な高校生ならあまり縁のない話かもしれないけれど、交友関係というのは意外にひとから見られているものだ。だれそれと親しげに話していたり、どこかでいっしょに歩いているのを友人に見られるというのは、高校生という生活圏の近似する人間が集まるコミュニティではよくある話だ。真優美くらい美人で性格の良い女子だと、だれかと歩いているところを見られたらすぐに噂になってしまう。
おそらく高校に入ったばかりのころはそれほど気にならなかったか、あるいはあまり注目されてもいなかったのだろう。おかしな噂が立つこともなく、そもそも噂になるほど顔をおぼえられているということもなかった。けれど、しばらくするとだれが可愛いとかだれが美人だとかそういう話はどこからともなく耳に入ってくるようになり、おなじ高校生の中でもヒエラルキーのようなものができあがる。社会的な権力があるわけじゃないけど、上位に君臨する少数と下位で群れを成す大多数という簡単な図式だ。いわゆるスクールカーストというやつだ。
このヒエラルキーというピラミッド形式の図には逆のバージョンもあって、下層に行くほど少数になっていくものも存在する。下に行くほどキモい、ウザい、クサいなどのワードに該当する人物が集中する。普通の生徒は上のほうで普通に暮らしている。下層の生徒は差別の対象になり、煙たがられる性質を多分に持っている。下のほうの人間は少数で目立たず、ひっそりと虐げられている。僕もそのひとりだ。
差別はいけないことだ、なんてみんないうけれど、果たして自分は本当にだれも差別していないのか胸に手を当てて考えてみてほしい。きっと多かれ少なかれ嫌いな人間というのは存在して、極力そのひととは距離を置こうとしている自分に気づくはずなんだ。でもそれは普通のことで、当たり前のことで、どこにでもあることなんだ。だからそんなことを気にするひともいないんだ。僕だっておなじ立場ならそうするかもしれない。
僕はもうそれを受け入れている。生まれ持った天稟は変えられない。だからみんなから蔑まれ虐げられても、それは仕方のないことなんだ。幼いころよく遊んだ真優美がヒエラルキーの上位に君臨し、僕が下層ではいつくばっているのはなるべくしてなったことだ。なにも不自然なことはない。だから僕が真優美の隣を歩いているのは不自然なことで、王女様が罪を犯した咎人と手を繋いで歩くことは許されないのとおんなじだ。
王女様は罪人とはいっしょに歩けないので、通学の際もだれかに見られないよう細心の注意を払って歩く。ただ学校へ行くだけの行為をだれにも見られないようにするのは大変だ。だから敏子は僕よりゆっくりしていても遅刻しないし、真優美はだれかに見られないように早めに家を出なければならない。僕が真優美に従う理由はないし、真優美も僕が家から出てくるのが遅くても文句はいわないだろう。彼女は嫌なことがあっても口にはしないタイプのひとだ。僕はたまたま窓の向こうで真優美が早くから僕を待っているのを見つけて、少し早く家を出ることにした。僕の父さんはおおらかな人だけど、真優美の家のおじさんは厳格なひとだから、いいつけを守らないときっと叱られるに違いない。だから僕も真優美に合わせて少し早めに家を出ることにしているんだ。
僕は真優美のことが好きなのだろうか。自問してみたことがあるけど、答えはノーだった。好きか嫌いかでいえば好きなんだろうけど、僕は真優美に恋をしているわけじゃない。真優美のことを考えてもドキドキしたりすることはないし、物心ついたころからそばにいた女の子だから、姉のような存在だ。大きくなるにつれて弟離れをしてしまったお姉さんだ(同級生だからあくまで概念的にだよ?)。妹萌えがないのと同様に、姉萌えもない。弟離れしてしまったのは残念だけど、自分を守るためだから仕方ないよね。
真優美との息の詰まるような時間も終わりを告げ、僕はしばらく解放された気分になった。家を多少でも早く出ているから、通学には余裕がある。無遅刻無欠席には無関心な僕だけど、遅刻したりすると注目を浴びるから、ちゃんと予鈴に間に合うように学校へ行くことにしている。目立つのはよくない。だれかに見られて困るのは真優美だけじゃない。僕もなんだ。だれにも声を掛けられず、空気みたいにその日を過ごし、何事もなく家に帰る。これが僕の毎日の目標だ。道の端っこ、隅っこを歩くのは僕にとって当たり前のことだった。