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プロローグ

「おまえさァ、何回いわせりゃわかんだよ。頭ンなか脳みそじゃなくて蟹みそでも入ってンじゃねーの? アタシおまえに口が臭くなるくらいいい聞かせたよね?」

「臭くなっちゃダメだよね?」

「うるせぇよバカ。いいから聞いてください。冷蔵庫の中にあるおやつは食べてはいけません。幼稚園児でも理解できるよねぇ? これで何回目ェ?」

 はい、仰る通りです。何度も口が酸っぱくなるくらいにいわれたのに、食欲という生命の三大欲求に抗うことができなかった僕は愚か者です。

「だいたい兄貴おまえ、自分じゃぜってー買ってこねーじゃん。ってことはひとの物だって自覚あんだよね? なのになんで食べんの? 蟹みそじゃあモノを考えることもできねーの?」

 蟹みそだってモノを考えることくらいはあります。でも三つもあったら家族用のおやつだって思っても不思議じゃないよねって思うんだけど間違ってるかな。

「次やったらおまえのパソコン燃やすから。あとスマホも燃やすから。おまえの部屋も燃やすから」

「お、お願いだからヤメて?」

「ヤメねぇよバァーカ! おまえ今日から冷蔵庫に触るの禁止な」

 えぇー? 生活できないよ。なんで僕の妹はこんなに傍若無人に振舞えるんだろう。

 僕たちがいい争っている(一方的に罵られている)わきで、父さんと母さんがテレビを見て笑っていた。助けてくれるどころか相手にもしていなかった。よくある兄妹ゲンカとしか思っていないのかな。

 僕は胃がきりきりと痛むのを覚えたけれど「ご、ゴメンね?」と妹に謝って、俯きながらキッチンに背を向けた。オージーオーナーのチョコレートムースは妹の大好物だけど、僕の好物でもあった。しばらくあの甘くて美味しいケーキを食べられないんだなぁとぼんやり思いを巡らせながら、僕は階段の一段目に足をかけた。

「コラァ、武志ィ。ちょっと待てい」

 ちなみに我が家に暴君はふたりいる。ひとりは妹の敏子だ。もうひとりが

「おうテメ、先月の模試の結果だけどさァ。帰ってきたよ。E判定だった。馬鹿じゃねぇのおめー。遅稲田とか諦應とかさぁオイ、テメェのおつむで受かるわきゃねぇだろ」

 マイマザーこと山田好恵だ。敏子は名前の通りとても敏活なコだけど、母さんに恵みなるものはない。太母の慈愛などこの女には存在しない。父さんなんでこんなヤツと結婚したのかな。息子の時点でこの女とおなじ家に住むことに耐えられないんだけど、伴侶たる者としてはどうなのパパン。

「テメちょっとここ座れ。偏差値ってなんのためにあるのか教えてやンよ」

 僕に拒否権はないので戻るしかなかった。このひと無駄に口調が荒々しいんだよなぁ。

 敏子の口が悪いのも全部このひとのせいだ。でも不思議なもので、言葉の汚さは妹にだけ遺伝して、僕にはうつらなかった。僕のキャパシティをオーバーしていたのだろう。母さんみたいに喋れといわれても絶対ムリだ。

 母さんの前に腰を下ろした僕は、ソファで寝っ転がりながらテレビを見ている妹と機嫌の悪い母さんには触れようとしない父さんに見守られながら、魔王の言葉責めを受けた。「おまえ将来なにすんの?」「進路のこと真面目に考えたことあんの?」「つかテメェ真面目に勉強してんのか?」「毎月の小遣いはどこに消えてんだよ」「参考書のひとつでも買ってこいよばぁーか」「なんでひとにいわれねぇと勉強しねぇんだよ」「だからテメェは武志なんだよ」などなど。最後のはちょっとヒドいな。傷つくよ母さん。

「あのさぁ。敏子はあそこでぐうたらしてるように見えッけど、あのコはちゃんと勉強してんだぜ? おめーいっつも部屋でなにしてんだよ」

 インターネットかゲームです。

「おめーちょっとさぁ、将来のこと本ッ当に真面目に考えたほうがいいからな。母さんと父さんが死んだらおまえどうすんの?」

 その頃までにはなんとか仕事を探して働きます。

「いっとくけどおまえ、大学でたら一切の援助ナシだかんな。どうやって生きてくつもりだ、あァ?」

 そんな先のことは考えたことがありません。あ、いえ、考えたことがないわけじゃないんですけど想像できません。僕がスーツを着て働いている姿とか笑えてきます。スーツ着てなにするの、僕。

「学歴社会がどうこういわれてッけどなァ。結局モノをいうのはいい大学を出てッかどうかなんだよ。大学に行かねぇなんてのはあり得ねぇからな」

 そうかな。大学を出てなくても立派に働いているひとはいると思うんだけどな。

「大学を出てなくても働いてるヤツもそりゃあいるよ? けどね、そういうヤツらは腕に自信があるか体力に自信があるか人付き合いの上手いヤツしかいねんだよ。おまえ全部ねぇじゃん」

 はい。仰る通りです。ひとよりも秀でているものを持っていないのが僕の特長です。身体ももやしみたいだし、ひとと話すのも得意じゃありません。

「わかったらまず志望校の見直しからな。現実的な大学で、おまえの努力次第でなんとかなりそうなとこだ。ちゃんと調べて、それが終わったら勉強しろ」

 どうやら夏休みが終わる直前に受けた全国模試の結果は酷かったらしい。難関私立大学になんか受かるわけないんだけど、どれくらい可能性があるか知りたくて志望校の欄に記入してみたんだ(ゼロだったけどね!)。

 母さんににらまれた僕は、痛む胃を抑え、肩を小さくしながら部屋に戻った。自分の部屋だけが、僕の世界で唯一の心安らぐ空間だった。

 結局それから僕は勉強しなかった。勉強しろっていわれて勉強できるヤツは成績のいいヤツだ。できないから僕の成績は悪いんだ。いわれなくても勉強するヤツは頭のいいヤツで、勉強しなくてもできるヤツは天才だ。序列最下位の僕には文句をいう権利もない。

 部屋に戻った僕は、デスクの前に腰を掛け、デスクトップパソコンを起動した。

 父さんがパソコンを新調するときに、お古だったパソコンを僕に譲ってくれたのが二年前だ。ゲームをするにはスペック不足、起動ももっさりといいところはなにもない。とはいっても性能面ではまったく不満はないし、そもそもパソコンに詳しくない僕はこれで充分だと思っている。タブレット端末がほしいと思った時期もあったけど、よく考えると外に出かけることの少ない僕にとってあんな高級品は奢侈が過ぎるというものだ。スマホを買ってもらえただけで満足しないと、パソコンまでとり上げられてしまう(ちなみにこのパソコンが壊れてもハードディスクだけは死守しなければならない。これを奪われたら僕は自殺する以外の選択肢がない)。

 いつも巡回するウェブサイトを一通り見て回り、溜め息をひとつついた。ソーシャルネットサービスが普及して、情報が巡るのもとても早くなった。僕はインターネット上でなにかを呟いたりはしない。迂闊なことを呟いて誰かに見られたりしたら、あっという間に断頭台へ一直線だ。危険なことはしない。基本的に見るだけ、というのが臆病な僕のスタンスだ。

 ブラウザはそのままにして、僕はテキストエディタを立ち上げた。

 僕の数少ない趣味のひとつが物書きだ。ゲームをやったりアニメを見たりもするけど、物語を書くのが僕は好きなんだ。僕の書いた作品を紹介しよう。題名は“ロストティルナノグ”。オセアニアの約二倍程度の大きさの大陸を舞台に、東西二つの大国が争いを続ける戦記物だ。文明レベルは十五世紀初頭のそれを思い浮かべるとわかりやすいと思う。現実と違うのは、魔法文明も発達しているところだ。お話には移動手段が馬車か徒歩しかなくて、ソーサラーと呼ばれる少数の魔法使いのみが空を飛ぶことができる。西は近世ヨーロッパ、東は近世東アジア(主に中国)に近い文化が発達していて、東西の軍事力は拮抗しているので争いが絶えることのない世界なんだ。

 そこに現れたのが、千年続いた戦争に終止符を打つアルフレッド・オルランド。彼の出生は西でも東でもなく、誰も知らないんだ。うん、作者の僕も知らない。そういう設定なんだからしょうがないよ。名前が西洋風なのも仕方ない。アルフレッドは大陸中央南端の小国“アッシュドヘイグ”で行動を起こす。アッシュドヘイグは不毛な大地と広大な砂漠の広がる小国で、無数の小さな国の中で東西どちらにも属していない中立国だ。アルフレッドはこの国の辺境の村で目を覚まし、貧困にあえぐ村人に治水技術を与えるところから物語は始まる。大雑把に説明すると、アルフレッドの活躍で発展したアッシュドヘイグは西の小国家から侵略を受け、これを迎撃するところから彼の戦いが始まる。彼の進撃は西の大国マグノスの半分を飲み込むに至り、やがて東の大国ゼニスを大陸の端辺に追いやることになる。三国の力関係は逆転し、ついにマグノスとゼニスは生き延びるために手を結ぶことを強いられることになる。アルフレッドは三国大戦を制し、大陸ティルナノグに千年続いた争いを終結に導いた英雄となり、統一国家の王として君臨する。

 アルフレッドは多様な分野で明晰な頭脳と該博な知識を振るう。戦をすれば軍略の根底を覆すような戦法で敵を圧倒し、政治面でも農商工業の発展に大きく貢献し、各方面の税制の改革から学術機関の普及に至るまで、あらゆる分野で功績を残した。

 戦場では単騎で万の大軍に斬り込んでは敵の陣形を崩して味方の突破口を切り開いたり、大陸最強の戦士を一騎打ちで圧倒したり、縦横無尽に空を駆けめぐっては魔法部隊を一人で制圧したり、敵が編み出した正体不明の大魔法を即座に紐解いたり、傷ついた兵士を癒す魔法を無尽蔵に使って戦線を立て直したり、どんな戦場のどんな場面でも八面六臂の働きで無数の伝説を築き上げた。

 経済や流通にも改革を施し、貧しい村々にまで物が行き届く物流システムを構築し、富が一か所に集中しないよう法律も改め、やがて多くの人々から絶え間ない感謝と喝采の声を浴びることになる。一部の地域ではアルフレッドを神格化し、信仰し始める村や町も出現するほどに、彼の活躍は多岐にわたった。

 うん、まぁ要約するとこんな感じの物語かな。とにかくアルフレッドはすごいんだ。強くて賢くてカッコいいんだ。それなのに彼はだれとも結婚せず、独り身を貫いていた。彼は個人のためには在らず、民のため、兵士にために在ることを信条としたため、特定の女性と結ばれることを望まなかった。望まなかったっていっても、まだ死んでないんだけどね。大陸も統一しちゃったし、別の大陸から敵でもやってこないと話が進まないからちょっと困ってるんだ。

 アルフレッドが結婚しなかったのは、僕の女性観にも起因する部分はあると思う。なにせ僕はあの母親の息子で、あの妹の兄だ。僕の女性観の大半はこのふたりが占めているといっても過言ではない。要するに、結婚したら父さんの二の舞だよっていう僕の価値観がアルフレッドを結婚させなかったんだ。父さんが幸せなのか不幸なのかは聞いたことはないけど、きっと不幸だと思うよ。

 世の中には妹萌えなんて言葉があるけど、アレは僕にはよくわからない。実際に妹のいるお兄さんなら僕の気持ちがよくわかるんじゃないだろうか。妹に萌えはない。たぶん姉にもない。母親なんて論外だ。愛する妹キャラの顔を自分の妹のそれに置き換えてみればわかる。仮に妹が絶世の美少女だったとしても、妹萌えはないと僕は自信をもって断言できる。なぜかって? そんなの決まってる。アイツはうるさいからだ(弁解しておくと僕の妹の容姿はそれなりに整っていると思う。お兄ちゃんフィルター越しに見ると美人には見えないから不思議だね)。

 僕はテキストエディタを起ち上げてからしばらく腕を組んで唸ってみたけれど、結局いい考えは浮かんでこなかった。アルフレッドの英雄譚を次なる段階に進めるための良案は、舞い降りてはきてくれなかった。仕方がない。こんな日もあるさ。

 パソコンの電源を落として、布団にもぐって眠ることにした。明日、起きて妹と顔を合わせる場面を想像すると胃がきりきりと痛んだ。学校のことを思い浮かべると胃の痛みが強くなった。学校なんて行きたくないな。僕は学校が嫌いなんだ。

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