エグバート、頑張る 1
「廃品王子の婿入り事情」本編終了後、半年ほど経過した頃のエグバートの話。
――かしゃん、と音を立てて、エグバートが持っていた護身用の剣が落ちる。
「……そ、それは、事実なのか……?」
震える声で尋ねる若旦那に、リンジーは生真面目に頷いてみせた。
「はい、医師数名で確認いたしました」
「……シェリル、シェリルはどこだ!?」
「寝室でお休みになってらっしゃいます」
「分かった、すぐ行く!」
「お待ちください! 帰宅直後の砂まみれのお体で寝室に行かないでください! まずは手をしっかり洗い、着替えをし、御髪の砂も落としてください!」
「……わ、分かった」
エンフィールド王国でも五本の指に入るだろう戦闘能力を誇るエグバートだが、本気で怒ったリンジーには勝てないのだった。
リンジーの指示通り体をきれいにしたエグバートは、寝室の前でしばらく立ち尽くしていた。
寝所の前で佇み、うんうん唸りながら頭を抱える美丈夫の姿は、なかなか不審だ。これが屋敷の若旦那でなければ、警邏に通報しなければならない案件だっただろう。
彼は何度か深呼吸して気持ちを落ち着けると咳払いし、そっと寝室のドアを開けた。
「シェリル……ただいま帰った」
「エグバート様……」
エグバートの妻は、巨大なベッドにすっぽり埋もれるように横になっていた。
ベッドはエグバートの体格に合わせて作られているので、小柄な妻――といってもエンフィールドの女性としては平均身長だ――の姿がやけに儚く見えた。
エグバートはのしのしと大股で歩み寄るとベッドの脇で膝を突き、シェリルの手をそっと取った。
「リンジーから、聞いた。……その、最近あなたは体調が悪そうにしていたが……」
「……はい」
枕の上で顔の向きを変えたシェリルの頬は少し青白いが、口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
彼女は空いている方の手で、そっと自分の下腹に触れた。
「……赤ちゃんが、できたみたいです」
「……」
「……お医者さんの見立てでは、今年の秋くらいには生まれるだろうとのことでした。……楽しみですね」
「……」
「エグバート様?」
うんともすんとも言わない夫が心配になったのか、シェリルが不安そうに眉根を寄せてエグバートを見た。
エグバートはしばし硬直していたが――やがて、「うぐっ」といううめき声を上げ、片手で自分の顔を覆った。
「赤ちゃん……私とシェリルの、子ども……」
「はい。……びっくりしましたか?」
「びっくりしたとも! ……あ、ああ、すまない。こういうとき……何と言うべきなんだ?」
最初の感動の波は過ぎ去ったようだが、今度はおろおろし始めた。
何事にも一生懸命で勉強熱心なエグバートだが、不意打ちには弱い。彼は今必死で、「妻の懐妊を知ったときに夫が言うべき台詞は何か」について考えているのだろう。
シェリルはくすっと笑うと、腹に触れていた手で夫の手の甲をそっと撫でた。
「なんでもいいですよ。あなたが思ったことを素直に言ってくだされば……私は、十分嬉しいです」
「そ、そう、なのか?」
「はい」
模範的な回答でなくても、たどたどしくてもいい。
誰かが用意した言葉ではなくて、エグバートの言葉がほしい。
シェリルの瞳を見つめていたエグバートは震える息を吐き出すと、大きく吸った。
「……シェリル」
「はい」
「その……ありがとう。私の子を、生んでくれて。……あれ?」
「ふふ、まだ気が早いですよ」
早速言い間違えをしてしまって目線を彷徨わせるエグバートだが、シェリルは穏やかな眼差しで微笑むと、とんとんと彼の手の甲を優しく叩いた。
「でも、あなたに『ありがとう』と言っていただけて、私は嬉しいです。……頑張って元気な子を生みますね」
「……あ、ああ! ありがとう、ありがとう、シェリル……」
エグバートはほっとしたように頬を緩めると、シェリルの頬にそっとキスをした。
そして右手を動かし――シェリルの腹に触れようとして、途中でやめた。
「……どうかなさいましたか?」
「……いや、私が触れていいものなのかと……」
「エグバート様はこの子のお父様なのだから、全く構いませんよ?」
「いや、そうではなく……間違って押し潰してしまったりしないかと」
そう言いながら、エグバートは宙ぶらりんになった右手を左右に揺らしている。
確かに、彼は腕力や握力に自信があるし、広げた手の平は料理用の皿か何かと思うほど大きい。
だがそれを聞いたシェリルはとうとう我慢ならなかったように、全身を震わせて笑い出してしまった。
「こ、こら。そんなに笑って、腹の子に障りが……」
「……エグバート様、大丈夫です。どうか、触ってください」
シェリルが目尻に浮かんだ涙を拭いながら言うと、エグバートは少し悩んだ末、そっと妻の腹部に手を当てて、ほうっと安堵の溜息をついた。
だがそこはみぞおち付近である。
さすがにそこに赤ん坊はいない。
「そこじゃなくて……赤ちゃんがいるのは、もうちょっと下ですよ」
「し、下だと!? そんなところに触れるなんて……」
「今さら何をおっしゃっているのですか……ほら」
もじもじするエグバートの手をがしっと握ると、シェリルは上掛けを下ろして彼の手を自分の下腹に当てさせた。
最初はびくっとしていたエグバートだが、やがてこわごわと妻の腹を撫で始める。
「……まだ平たいな」
「今はこんなものです」
「ここが大きくなるのか……知識では分かっているつもりだし見たこともあるが、信じられない。本当に大丈夫なのだろうか」
「絶対に大丈夫……とは言い切れませんが、頑張ります。私も健康でいられるようにしますね」
「……ああ! 何かあれば、何でも私に言ってくれ」
エグバートもやっと肩の力が抜けたようで、シェリルの大好きな笑顔を見せた。
「……シェリル」
「はい」
「……愛している」
「……私も愛してます、エグバート」