届かない声 5
体が、おかしい。
寒いような、暑いような、変な感じ。
視界が霞んでいて、耳の近くで激しい血の流れを感じる。
そしてその脈動に合わせて、自分の体からあり得ないほどの量の血が流れていることも分かる。
「……奥様!」
「気をしっかりなさってください!」
周りで女性使用人たちが騒いでいるが……よく、聞こえない。
私は大丈夫。
それより、子どもは、と聞こうとしたけれど、声が出ない。
レイモンドとエドガーを産んだときとは全く違う己の体の異変に気づいても、アデーレには何もできなかった。
ただ分かっているのは、血と同時に自分の生命力も流れており、命尽きるときが間近に迫っているということくらい。
震える指先が、何かに触れる。
ふわふわとした柔らかいこれは――子どもの、おくるみだ。
「奥様、おぼっちゃまです! とても元気な――旦那様にそっくりの、男の子です!」
「ほら、おぼっちゃまがお母様に、頑張って、とおっしゃっていますよ!」
使用人たちの声の合間に確かに、赤ん坊の泣く声が聞こえる。
だがもう視界ははっきりしなくて、せっかくこの世に送り出せた我が子の顔を見ることもできない。
男の子だった。
オズワルドに似た、男の子。
きっとたくましく育ち、エグバート王子を支える子になってくれるだろう。
息子を無事に産むことができたのなら、十分すぎるくらいだ。
侯爵家には優秀な使用人や乳母たちがいるから、たとえ母がいなくてもこの子をしっかり育ててくれるだろう。
アデーレは、自分に似た女の子を産むことはできなかった。
だが、やっと――夫によく似た男の子を、産むことができた。
八年前、結婚初夜に夫に命じられていた「役目」を、果たすことができた。
それでも――悔いがあるとしたら。
「……アデーレ!」
「旦那様!?」
「なりません、まだ、血が――」
「黙れ! アデーレ、アデーレ!」
愛しい人の声がする。
愛しい人が、名前を呼んでくれる。
もう目は開かないけれど、おくるみの代わりにアデーレの手を、大きな手がしっかりと握ってくれた。
今の自分はぼろぼろになっているし血まみれのひどい姿だろうに、その人は叫ぶようにアデーレの名を呼んでくれていた。
「アデーレ、しっかりしろ! 俺だ、オズワルドだ!」
旦那様、と呼びたかった。
まぶたを開いて、愛する人の姿をこの目に焼き付けたかった。
だが唇とまぶたは微かに震えるだけで、アデーレの命令に従ってくれない。
「よく、頑張って産んでくれた……! ほら、もう大丈夫だから、しっかりするんだ!」
「……ま」
かろうじて、「旦那様」の最後の一音節だけ言えた。
彼に、言わないといけないことがある。
そうしていると、ばたばたと足音が聞こえてきて、「お母様!」「おかあさまー!」と息子たちが泣き叫ぶ声が聞こえてきた。母の危篤を察して、子ども部屋から脱走してきたのだろう。
レイモンドとエドガーにも、言わなければならないことがある。
「……ま」
旦那様。
どうか、この子を――ジャレッドを、愛してください。
そして、フィオレッラ様とエグバート殿下のことを、よろしくお願いします。
「……ド、……ガー」
レイモンド、エドガー。
お母様がいなくなっても、ジャレッドのことを弟として可愛がってあげるのよ。
あなたたちなら、素敵なお兄様になれるから。
アデーレは唇の端に笑みを載せ、ふっと力を抜いた。
最期の最期まで、夫が自分の手を握り、名を呼んでくれた。
可愛い息子たちが、駆けつけてくれた。
ジャレッドも、無事にこの世に生まれてくれた。
だから、アデーレは、幸せだった。
アデーレの体から力が抜け、かくんと頭が落ちる。
目を見開いたオズワルドの向かいで、女性医師がアデーレの頬にそっと触れて、まぶたを開いた。
何かを確認したのか、彼女はアデーレのまぶたを閉ざすと――「奥様は、お亡くなりになりました」と沈痛な面持ちで告げた。
アデーレが、死んだ。
あんなに元気で強かだった妻が。
レイモンドとエドガーの出産のときはぴんぴんしていた妻が、死んでしまった。
手を握っても、その肉体はぴくりとも反応しない。
そうしていずれこの体は温もりを失い――ただの物言わぬ屍となる。
「……あ」
「お父様……?」
「とうさま、かあさまは……?」
苦しんでいた母が静かになり、慟哭していた父も黙ってしまったからか、二人の息子たちがおずおずと呼びかけてくる。
オズワルドはゆらりと振り返り、妻の面影を受け継いだ息子たちを、目を細めて見つめた。
だが、直後――
うぎゃあ、おぎゃあ、と乳母に抱かれていた三男が泣き始めた。
アデーレの死を受けて呆然としていた乳母は慌てて生まれたばかりの男児を抱き上げてあやすが、顔を真っ赤にした赤ん坊は泣きやまないどころか、ますます激しく泣きわめくばかり。
これではまずい、と思った乳母は一旦部屋を出ようとした、その時――
「……黙れ」
地を這うような低い声が響き、部屋にいた赤ん坊以外の者たちが息を詰めた。
妻の手をゆっくり離したオズワルドは、ゆっくりと乳母の方を見た。
そして、彼女の腕の仲で泣き叫ぶ息子を見――「黙れ!」と天井を震わせるような怒声を上げた。
「貴様が……貴様さえ、生まれなければ! アデーレが死ぬことはなかった!」
「だ、旦那様、おやめください!」
「おぼっちゃまに罪は――」
「黙れ! ……行くぞ、レイモンド、エドガー!」
オズワルドはなおも泣く三男を睨み付けると、呆然としていた息子たちの手を取った。
レイモンドは髪が、エドガーは目が、亡き妻に似ている。
だが、あの赤子は。
まだ目は開いていないが、オズワルドは――あの腫れたまぶたの下には、憎らしいほど自分に似た青い目があるのだと確信していた。
「……お父様」
「おとうさま、おとーとかいもーとは?」
「あれは……」
まだ状況を呑み込めていない様子のエドガーに問われ、オズワルドは乳母に抱かれた息子を、そして静かに眠る妻を見――
「……あれは、おまえたちの弟なんかではない。おまえたちのお母様を奪った……人殺しだ」
アデーレ・キャラハンが三男の出産直後に死亡して、間もなく。
魔力測定により、第二王子エグバートに魔道士としての才能が見られないことが発表された。
そしてこれとほぼ時期を同じくして、これまでは王妃と第二王子を支援していたキャラハン侯爵は二人を見捨てた。そして、若かりし頃のような冷徹な男として国王に仕えるようになる。
キャラハン侯爵夫人の死から二十年以上経った、ある日。
愚王を討つべく蜂起した革命軍により、キャラハン侯爵は長男レイモンドと次男エドガーもろとも捕縛され、それまでの非道な行いを糾弾されて処刑されることになる。
暗君に仕えた愚かな臣下として知られていたキャラハン侯爵は死の間際、異国風の女性の名を呟いていたようだと、処刑に立ち会った者たちが口にしていた。
きっとそれは彼が生涯でたった一人愛し、その死により過ちを犯すことになってしまった妻の名だろうと彼らは考えた。
届かない声
おしまい。