腕の中にぬくもりを 2
ミハイルに、寝所に呼ばれた。
それを伝えたときのフェドーシャは大興奮で、「丹念にお体を磨きましょう!」と張り切って、夕食後の風呂にもついてきた。いつもなら、風呂上がりに着用する寝間着の準備だけしてくれるのだが。
「あ、あの、フェーニャ。そこまで気合いを入れなくてもいいから……」
「何をおっしゃいますか! 奥様が初めて旦那様と同衾なさるのですから、体の隅々までぴっかぴかに磨かなければなりませんよ!」
鼻息も荒くフェドーシャは言い、湯船に浸かるエレンの髪を丹念に洗い始めた。
フェドーシャとしては、主人たちが一緒に寝るということで大喜びの大興奮みたいだ。
そんな優しいメイドの気遣いを無下にするつもりは、エレンもないのだが――
「あ、あのね。一緒に寝るといっても、本当に寝るだけだから」
「だけ……なのでしょうか?」
「えっ、だってミーシャがそう言って……」
「本当に旦那様は、『寝るだけ』とおっしゃいましたか?」
真剣な様子のフェドーシャに聞かれたエレンは、帰宅時の夫との会話を一生懸命思い出す。
彼は言っていたはずだ。
「エレンの望まないことはしないと、神に誓う」のようなことを。
(……あ、れ?)
そう、彼は、「手を出さない」とか「寝るだけだ」とは、断言していない。
つまり、エレンが望むのならば、場合によっては――
とたん、ぼっと炎魔法を食らったかのように瞬時にエレンの顔が熱を放ち、それに気づいたらしいフェドーシャが「やっぱり!」と弾んだ声を上げた。
「さすが旦那様、言葉巧みでいらっしゃるようですね!」
「あ、あの、私、そんなつもりじゃ……え、ど、どうしよう、フェーニャ!?」
「落ち着いてください。……旦那様は、どのようにおっしゃいましたか?」
「……私の望まないことはしない、って」
「そうでしょう? ……旦那様は、奥様のことが何よりも大切です。もしお二人のお気持ちが重なれば、肌に触れてもらえばよろしいですし、まだ緊張なさるのなら一緒に眠るだけでも幸せなことでしょう」
振り返ると、フェドーシャがにっこり笑って頷いた。
「このフェーニャができるのは、『もし』があったとしても奥様が慌てなくて済むよう、手をお貸しすることくらいです。……私が望むのは、旦那様と奥様がお二人が望んだ夜を過ごされることです」
「フェーニャ……」
「さ、奥様。いつも以上にきれいにお体を磨いて、旦那様と素敵な夜を過ごせるようにしましょうね」
「……うん。ありがとう」
なんだか照れくさくなってエレンが前を向くと、「泡を流しますね」とフェドーシャがお湯を掛けてくれた。
湯冷めしてはならないので、エレンはすぐに寝室に向かった。
もちろん向かう先はエレン用の私室ではなく、先に風呂を済ませたミハイルが待つ主寝室だ。
(緊張する……)
フェドーシャには、階下で見送られている。他の通いの使用人たちも、自宅に帰る前にこっそりエレンにエールを送ってくれた。
よし、と気合いを入れ、ドアをノックする。
すぐにミハイルの声が返ってきて、ドアが内側から開いた。
「来てくれたか。湯にはゆっくり浸かれたか?」
「う、うん。体の芯までぽかぽかしてる感じ」
「それはよかった。……さあ、入れ」
ミハイルに手を引かれて入室し、ゆっくりドアが閉まった。
主寝室には、模様替えなどのために立ち入ったことがある。全体的にシンプルで、家具もほとんど置いていない。いろいろなものがあると、ミハイルが熟睡できないからだろう。
部屋の中央には、ダブルベッドがある。これまではミハイルが一人で使っていたベッドを見るとどうしても鼓動が早くなるが、ミハイルはそんなエレンの手を引いて優しくベッドに誘ってくれた。
こわごわシーツに腰を下ろすと、ミハイルが「あ」と声を上げた。
「俺、寝るときは上を脱ぐのだが――着たままの方がいいか?」
「え、と……着ていたら寝にくいのなら、脱いでいても構わないよ」
そういえば、彼は上半身裸で寝る人だった。ただしこれは彼に限ったことではなくフェドーシャ曰く、「リュドミラ人男性にはよくいる」ことらしい。
ミハイルの裸自体は、見たことがある。冬に治療したときはもっときわどい格好だったので今さらであるし――ミハイルが寝やすいのが一番だと思う。
エレンの意見を聞いたことでミハイルは礼を言い、寝間着の上を脱いだ。リュドミラ人はエンフィールド人と骨格がかなり違うので、リュドミラ人の中では小柄なミハイルもかなり鍛えられた体を持っている。
その体には、いくつもの細かい傷痕がある。
つい、不思議な衝動に駆られて彼の背中の大きな傷をじっと見ていると、振り返ったミハイルがふっと笑った。
「……どうした? 俺の筋肉に見惚れているのか?」
「なっ、何を言ってるのっ!」
「あまりにも熱い視線で見られるものだからな。……それとも、傷まみれで見苦しかったか?」
「まさか。あなたがここまで生き抜いてきた証じゃない」
エレンがはっきり言うと、隣に座ったミハイルがエレンを抱き寄せ、唇を寄せてきた。
いつもより少しだけ強引なキス。
手を伸ばすと、硬くてしなやかな筋肉に触れる。そっと手の平を当てると、そこがびくっと震え、ミハイルの瞳に熱が灯った。
「……エレン」
「……うん」
「……本当に、俺と結婚してくれて……ありがとう」
至近距離に見えるミハイルの目が、優しく細められる。
「暗い世界を彷徨っていた俺に、おまえは手を差し伸べてくれた。馬鹿なことを言ったら、殴ってでも引き戻してくれた。……だから俺は立ち直れた」
「……私のおかげだけじゃないよ。ミーシェニカだって、すごく頑張っていたんだから」
「ありがとう。……愛している、エレン。これからも、ずっと」
もう一度、今度は優しく唇が奪われる。
そして彼に抱きしめられたままベッドに横になり、上掛けが引き上げられた。
ミハイルが腕を伸ばし、ベッドサイドの灯りを落とした。すぐに辺りは心地よい闇に包まれ、エレンは夫の裸の胸元に擦り寄る。
「……寝られそう?」
「ああ、きっと。……すごく、心が穏やかなんだ。昔は怖かった闇が……怖くない。静寂でなければ寝られなかったのに……おまえの息づかいを聞いて、眠りに落ちたい」
ふ、と笑う声が耳に触れる。
エレンも微笑み、夫の背中に腕を回した。
「……寝相が悪くて蹴ったりしたら、ごめんね」
「安心しろ。そうならないよう、朝までがっしり抱いてやる」
「ありがとう。……おやすみ、ミーシェニカ」
「ああ、おやすみ、エレン」
小声で囁きあい、エレンは目を閉じた。
もう、闇は怖くない。
静寂だけが、子守歌ではない。
武器がなくても、怯えることはない。
これからミハイルの夜は、エレンが守っていくのだから。
その日から、グストフ夫妻が寝所を別にして寝ることはなくなった。
夫ミハイルの方は以前よりも良質な睡眠が取れるようになったようで、城に出勤した彼は明らかに機嫌がよく、しかも健康的になっていた。
また妻エレンも夫に抱きしめられると暖かいため、寒がりの解決策になった。
ただし、最初のうちは主君カミラや仕事仲間たちに夜の過ごし方について話していた彼女も、しばらくすると顔を赤らめ、口ごもるようになったという。
ちなみに、新品の羽毛入り毛布は結局エレンには使われないままになってしまったが、もったいないのでフェドーシャが使うことになった。
高級毛布を手に入れたフェドーシャは、「これはこれでよかったと思います」と満足そうに言っていたという。
腕の中にぬくもりを
おしまい。
フェドーシャ「つまりそういうことです」




