何故私はフィギュアスケート中継を楽しむことができないのか 〜加点式スポーツと減点式スポーツの違い〜
とある晩家族とテーブルを囲んで夕食を取っていると、テレビでフィギュアスケートの中継をやっているのが目に入った。
それを見た母は「ああ、もうフィギュアスケートの時期だったわねえ」などと感想をこぼしていたが、フィギュアスケートといえば冬季オリンピックの時だけ関心を向けるような私である。目の前の中継に特段興味を感じることもなかったが、箸を動かす以外にすることもなかったのでぼんやりとテレビを見ていた。
(※チャンネルを変更する権限は家族の他のメンバーに占有されていたため、たとえそれがどんなにつまらない番組であったとしても私はそれを見るしかなかった)
誰が主催する大会だったのかはもう忘れてしまったが、それなりに外国人選手がいたことからちょっとした規模の大会であったことは間違いない。日本人選手も多く出場していた。
ぼんやりと中継を眺めるうちに一人また一人と演技を終えて行き、次は1人の日本人選手の出番となった。
フィギュアスケートにほとんど興味のない私だが、一応同じ日本人として彼のことを応援しようという気になった。
それゆえそれまでの選手よりも注意深く彼の演技の一部始終を見ていたのだが……、
自分でも不思議なくらい楽しめなかったのである。
これはその日本人選手のせいでは決してない。
彼の演技は終始安定していて、難度の高い(と思われる)ジャンプも全て成功させ、音楽の終了と同時に彼がポーズを決めた時は会場から拍手喝采が浴びせられていた。
文句なしの素晴らしいパフォーマンスだっただろうし、事実採点結果がそれを証明していた。
一緒にそれを見ていた家族は「おお〜すごい!」などと無邪気に見ていたが、生憎私はそんな気分に全くなれなかった。
私は数分間に渡る彼の演技の間、ずっとやきもきしっぱなしだったからだ。
彼が普通にスイーと滑っている間は次にいつ跳ぶのか気になっていたし、跳ぶ瞬間は「転ぶな!」と心の中で叫び無事着地を終えたのを見てほっと息を撫で下ろした。
そんなことばかり考えていたので、彼の演技が終わった後私の心の中に残っていたのは、蓄積した精神的な疲労とささやかな安堵だけだった。
とにかく私にとってフィギュアスケートは精神衛生上よろしくない競技であった。
私が考えるに、観戦者目線であらゆるスポーツ・競技は2種類に大別できる。
すなわち『加点式スポーツ』と『減点式スポーツ』である。
『加点式スポーツ』とはその名の通り、点を取れば取るほど勝ちに繋がるようことが一見して分かる競技のことを指す。国民的な人気を誇る野球やサッカー、バスケットボールなどのスポーツは全てこちらに当てはまる。
このグループに含まれるスポーツ・競技では、観戦者は得点が入るのを楽しみに待っていられるという特徴がある。
一方で『減点式スポーツ』は、得点や成果の上限が決まっていることを前提とした上で、選手がいかにマイナスのポイントをなくしていくかで勝敗が決まるように観戦者が感じる競技のことである。
この”観戦者が感じる”というのがミソであり、個々人の感受性によって『減点式スポーツ』の範囲は変化する。
そして私の場合、このグループにフィギュアスケートが含まれるのだ。
確かにフィギュアスケートは技術点や構成点など複数の指標に照らし合わせた上で合計点を競う競技ではある。この事実だけを鑑みればフィギュアスケートは『加点式スポーツ』の方に入ると思う人もいるかもしれない。
しかしその理屈は私には当てはまらない。
何故なら私は演技の出来をジャンプが成功したかどうかでしか測れない人間だからだ。
そもそもフィギュアスケートの採点基準が分からないので、何をもってそのパフォーマンスが優れているのか判断のしようがない。私にとってフィギュアスケートの観戦というのは、決まった流れを選手が失敗することなく遂行できるかどうか見守ることそのものなのだ。
だから私にとってフィギュアスケートは『減点式スポーツ』に含まれる。
これと同様の理由でアーチェリーやダーツなんかも私にとって『減点式スポーツ』に入るだろう。ほぼありえないだろうがボウリングが五輪の正式な種目に加わったら、ボウリングもこちらに入るに違いない。
これらの競技で共通しているのは完全とされる出来が想定された上で、いかにそれに近いパフォーマンスができるかどうかということだ。
『減点式スポーツ』も完全な第三者として観戦するなら純粋に楽しめるだろう。
しかしひとたび贔屓に思える選手が出れば事情は変わってくる、彼もしくは彼女のパフォーマンスが失敗しないか私は気になって仕方がない。
結論。
私はどっしり構えられない器の小さな人間である。