ダキニさまが見ている 再びのシンクロニティと天罰と
シンクロニティで思い出したことがあったので。
羽田の穴守稲荷神社をご存じだろうか?
戦後、その神社の大鳥居を移転させようとしたところ事故で死者やら怪我人が相次いでGHQも移転を諦めたとの謂われがある神社だ。
その分社が近所にある。
神社ではなく個人宅の庭に稲荷さまが祀られている。
稲荷さまの祭りの時はその家は幟を上げ、近所に赤飯を振る舞っていた。
なんでそんなことを知ってるかというと、我が家とその稲荷さまの家とは付き合いがあり、子供の頃は何度も遊びにいった。
稲荷さまも祠も何度も見たが、ああ、あるなという印象しかない。
その祠の反対側に手製の温室があって、そっちは怖いというかとても嫌だった。
黴生えているのか温室の中の植物の色が反射しているのか、本当に嫌な感じにくすんだ緑色で、その家に遊びに行く時にはなるべく温室を見ないようにしていた。
嫌な存在感では温室のが勝っていたが、今回の話は稲荷さまの話だ。
知ってる人は知っているだろうが、稲荷さまにはダキニ天が習合されている。
一度信仰したら死ぬまで背くことを許さず、死後に人を取って喰らうために人を富ませ太らせるとも伝えられている。
俺が一番大好きな神さまである。
そんな稲荷さまを祀る家のおじいさんはある時なにを思ったのか、三十三観音参りを始める。
ただ単に信心から始めただけで、稲荷さまをつまりはダキニ天をないがしろにするとか背くとかそんな気持ちはさらさらなかっただろう。
ただ自分がなにを祀っているか、よく知らなかっただけで。
信心したら背くことを許さない神さまですぜ。
人を喰う神さまですぜ。
意外にも死者は出なかった。
観音さま参りもいよいよ最後、三十三観音目という日、おじいさんと家族は同じ時間、違う場所で交通事故に会う。
原付に乗っていたおじいさんは重体、命は助かったものの頭を打ったせいで自分が誰かも分からない状態に。
対して、家族の方は車が横転する事故にも関わらず誰一人としてかすり傷もない。
一家は稲荷さまのお陰で全員命は助かった、助けて貰ったと深く感謝していた。
天罰くらって、下手したら一家全滅していたと恐れおののくよりは、そっちのがずっといい。
俺は天罰だ! と思いながらも余計な口は出しませんでしたとさ。
もちろん、これをシンクロニティと天罰と解釈するかただの偶然と解釈するか、それは各人の自由だ。
俺の好みで天罰で話を進めてきたが、偶然で済ませてもらっても構わない。
最近悟ったのだが、超常現象のあるなしは真が偽かではなく、ある方が好みかない方が好みかだ。
ご先祖さまの因縁で祟りがうんたらに面白味を感じるか、それはなんとか現象で心理学で言うなんとか効果なんだよに面白味を感じるか、好きは方でいい。
この天罰で一家全滅しかけ事件の前からダキニ天は好きだったのだが、この事件のあとますます好きになった。やはり本で読んだだけの知識と、目の前に実例を示されるのでは違う。
伝承通りの神さまじゃん、やるじゃん、と深くダキニ天を愛するようになった。
しかし、ふと疑問に思うことがあった。
稲荷さまは商売繁盛。
ダキニ天は喰うために人を富ませ太らせる神さま。
天罰てきめんで霊験あらたかな割りに、商売繁盛してないな。
貧乏ではないが、特に裕福でもない。
普通。
とても普通。
罰だけ与えて福はなしかいな。
一家全員、物理的に太ってはいるけどさ。
そこで、ふと気づいた。
昔は太っていることは富の象徴だった。
太れるくらいに食べられるのは金持ちだけだった。
しかし、時代が変わって物流と農業の改革で、誰しもが太れるようになった。
アメリカでは貧困層の方が肥満率が高いなんてデータも出ている。
ダキニ天は喰うために人を太らせる。
太らせるために富と繁栄を与える。
しかし、時代が変わって誰でも太れるようになったから富ませるのをやめた。
と考えると神なるものは俺たちを見ている。
観察して人間社会を理解している。
俺たちはなにか得体の知れないものに、ずっと見られている。
考えてみれば、昔から米相場なんてものはあったから、相場やら先物取引やらを理解してなければ商売繁盛の神さまなんてやってられない訳で。
ダキニ天におかれてはデリバティブやスワップなんてのも、理解しておられることだろう。
であれば仮想通貨の流出事件。
あれはダキニ天の捧げ物として消えたのだ。
貨幣としての実態はないのに、通貨として効力を持つなんていかにも神好みじゃなかろうか。
ダキニ天もたまには人間以外のものを食べてみたくなったのだろう。
ついでにダキニ天にはジャンクフードで脂肪ばかり蓄えた人間より、糞お高いオーガニック食品を食べジムやらエステやらで適度に体を絞った人間のが美味であると認識していただき、今度はただ太らせるだけではなく美食のために富を与える神となって欲しいものだ。
俺は愛しているだけで、信仰してはいないけどさ。