六、
男は強く目を閉じ、しばらくじっとした。暗闇に目を慣らすためだ。
目を開けると、そこは定食屋の座敷だった。
何が起こったのか状況を飲み込めない。そこで、まずは自身の生死を確かめようと、上体を起こして下を向いた。なぜか浴衣を着ている。手足は、ある。どうやら溶けてはいないようだ。安堵と落胆、その両方の気持ちが込み上げ、自然と溜め息が零れた。すると、声が聞こえてきた。
「やっと目が覚めた?」
すぐそばに、小太りな中年女性が立っていた。
「今日は天気が良いから、もうすぐ洋服は乾くよ」
女性は至って呑気に話し掛けてくる。
「ここは?」
そう尋ねると、彼女は豪快に笑った。
「覚えてないの?」
その女性が言うには、トーチャンという女性の亭主であろう人物が、自分のことを見つけたらしい。
早朝、トーチャンが犬を連れて海岸を散歩していると、波打ち際に男が倒れていた。慌てて声を掛けると、その男は何事もなかったかのように立ち上がり、「大丈夫です」と短く言葉を発した。けれどもひどく疲れている様子だ。トーチャンは心配になり、男を家に連れて帰ることにしたのだった。
男、つまり僕は、ここまで自分の足で歩いてきたことになる。全く覚えていないが、この話に嘘はなさそうだ。
「……トーチャンは、なんでも拾ってきちまう。あの犬も拾ってきたんだよ」
僕は犬と同等らしい。
しばらくすると目の前に、餌のつもりだろうか、食事を並べられた。
「ほら、食べな。腹減ってんだろ? そんなに痩せっぽちで」
体型と腹の減り具合は関係ないと思うが、腹が減っているのは事実だった。名前の知らない魚と味噌汁とご飯、それから漬物数種。有り難く頂くことにする。
久し振りの食事は旨かった。柄にもなく、がっついた。その姿が余程卑しく映ったのか、女性がじっとこちらを見ていた。
気まずさを覚え、間を埋めるように、とりあえず話し掛ける。
「えっと、トーチャンさんは?」
女性は困った顔をし、肩をすくめた。
「どこをほっつき歩いてんだか。どうせ釣りだろ」
会話は終わった。
静まり返った座敷に波の音が流れ込んでくる。窓の隙間から外を見ると、海が近くにあった。時間はちょうど正午のようだ。太陽が真上で輝いている。
僕は、ぼんやりとその光を見つめた。
「ちょっと、あんた大丈夫? ボーっと何を見てんの?」
その問い掛けに、視線を光に向けたまま答える。
「七年前の、いえ、更に七年前かも知れない、ずっと前の自分を見ているんです」
あの日逃げ出した僕は、帰ってくることができただろうか。
消去。
家に着くと、部屋の中は静かだった。時間が止まっていたかのように、まるで変化がない。ただし一つだけ、開かれたままのノートパソコンの隣に、見慣れないものがあった。差出人不明の手紙だ。
僕は手紙を拾い上げようとした。その時、カツンッ、音がした。
「こんばんは、警察の者ですが……」
「鍵、開いてますよ」
東条が現れた。
「よお。電気屋でパソコンのチラシを貰ったんだ。そんなボロいパソコンじゃ小説を書くのも苦労するだろ? 俺が新しいのを買ってやるよ」
「いりませんよ」
「遠慮すんなよ」
「遠慮ではなくて、僕は仕事をなくして、もう小説を書く必要がないんだ」
「まだこの間のことで拗ねてんのか?」
「この間? 違う。もっとずっと前から諦めていたんだ」
「何言ってんだよ。お前は書くことくらいしかできないだろ」
確かにそうかも知れない。他のことなどできない。
「海で溺れたらしいな」
突然、東条がそう呟いた。
「どうして知ってるんですか?」
「知らないオバチャンが教えてくれたよ。お前、俺の名刺を持ってただろ?」
オバチャン。おそらく定食屋の中年女性だろう。
「そんな所で、何してたんだよ」
「太陽を、追いかけてたんです。西へ。蠅から、いえ、暗闇、というか、空間から逃げて、あの、追いかけてくるものですから、だから、光を、ああ、そうですそうです、とても暑くて、太陽がですね、それは太陽のせい?」
「何を言ってんだ?」
「僕の小説の話ですよ。黒い人です。ギャルが日焼けしてるんです」
「はあ? 太陽のせいでギャルが日焼けしたのか? それは不思議なことじゃないが、お前はさっきから不思議だぞ。何が言いたいんだよ」
「ははっ、右脳で考えてください」
東条は真剣な面持ちで深呼吸をした。そして、目を細め、僕のことを睨み付けると、ゆっくりとした口調で尋ねてきた。
「死のうとしたのか?」
苦しい。なぜだか分からないが、胸を締め付けられる思いがした。
東条の視線から逃れるように下を向き、出来る限り冷静な素振りで返事をする。
「何を言ってるんですか。太陽を追いかけていたって言ってるじゃないですか。東条さんは本当に理解力がない。太陽が沈もうとするから、僕も……」
そこで東条が僕の言葉を遮った。
「裏切るのかよ。自分を裏切るのかよ」
「裏切ったのは世界のほうだ!」
「分かった。もう、いいよ……」
もういい。十分だ。良くやったと思うよ。求める光、そんなものはどこにもありはしない。消化される毎日、鼓動とか体温とか排泄とか、それしかこの世界にはない。終わりのない階段なんて登れる訳がないだろ。もうやめよう。納得できるか否かは関係ないんだ。ここにいるしかないんだ。最初から分かっていた。見たくないから、見なかっただけ。もうやめよう。
東条が立ち上がって出口へと歩き始める。もう二度と彼とは会えない、そんな気がした。涙が、ボト、ボトと流れ落ちた。呼吸が乱れ、唇が震え、声が出ない。
東条が、背中を向けたまま、別れの言葉を述べる。
「じゃあな……じゃあな、もう一人の、俺……」
低音の耳鳴り、ゴロゴロと。自分という存在、姿、形が、ドット絵のようにジグザグと角張り、所々欠けて、散らばり、散らばった点が蠅となって飛び回る。
いつか眺めた、常に眺め続けた壁や時計や蛍光灯が、灰色に染まり、空気に、溶ける。全てが灰色。灰色だ。
東条が出口の扉を開けようとしている。
行かないで、もう一人の僕。行かないで、真実の、僕……
カツンッ。
パソコンの電源を落とされる音が響き、同時に暗闇が、全てを飲み込んだ。
男の目は、僕の目は、暗闇に慣れた。どこに何があるのか概ね見える。モノクロだが、それで十分だ。男は、僕は、落書きを見つめた。
それは、翼を生やした人間が首を吊っている絵だった。
七年後。
「いやぁ、家に七年前から心霊がいてさぁ」
「どういう心霊だい?」
「カツンッ、カツンッと蠅があちこちにぶつかっているような音がするんだ」
「だったらそれは、蠅の仕業じゃないのかい?」
「いや、探しても姿が見えないんだ」
「なるほど、蠅の心霊だね」
「ああ、そうかも知れないね」
「じゃあ、やっぱり蠅の仕業じゃないか」
更に七年後。
「いま、何してる?」
「分かりません」
更に七年後の、ずっと後。
「いま、何してる?」
「分かりません。ただ、これだけは分かります。僕は、僕です」
「それは、本当のことかい?」
そして、再び現在。
僕は煙草を咥え、これからのことを考えていた。
何日にも亘る失踪の上、水難事故を起こし、上長から「ゆっくりしろ」と言われた。それは、ていの良い解雇予告。僕は望まれるがまま出版社を辞めた。テーブルには妻からの、正確には元妻からの、手紙が一通。そこには『荷物は実家に送って下さい』とだけ書かれている。
もう周りには誰もいない。全てを失った。これが現実だ。
登るのは大変だったのに、落ちるのは一瞬だな。
苦笑混じりの溜め息をつく。
すぐにでも何かしらの行動をしなければ生活が困窮するのは明白。けれども、具体的な策が浮かばないどころか、危機感さえ湧かない。心のどこかで現状を受け入れきれていないのだろう。
煙草の火を揉み消し、続けてもう一本吸おうとする。その時、ライターを床に落としてしまった。部屋の中は薄暗く、どこにライターが転がったのか一見して分からない。僕はその場に這いつくばって辺りを見回した。
テーブルの下にぼんやりと灰色のものが見える。顔を寄せてみると、それはノートパソコンだった。時代遅れの分厚い機体。長いこと開いていない。
「東条さん……」
名前を呼ばれた気がした。パソコンからだ。
僕はテーブルの上にパソコンを置き、埃を払い、カツンッと電源を入れた。蠅の羽音のような起動音が微かに響き、ディスプレイが白く輝きだす。
その眩しさに目を細めながら画面を見つめていると、最後に使ったソフトだろうか、テキストエディタが勝手に立ち上がった。
僕は、理屈ではなく感覚によって、キーボードの上に手を置いた。
――深夜、僕は書いていた。
――深夜、僕は小説を書いていた。
――深夜、僕は……カツンッ、カツンッ、カツンッ、カツンッ…………
小説未満の首吊り男 【了】