五、
僕は走り出した。
ギリ、ギリと、錆びついた自転車が足元で鳴いた。錆びついた僕と相性が良さそうだ。この自転車は自宅を飛び出した際に偶然見つけたものだ。持ち主不明ではあるものの、鍵が掛かっていなかったので当たり前のように乗らせて貰った。逃走するには手段が必要だ。仕方がない。
久し振りに見る太陽は真上でぎらついていた。お陰で向かう先が陽炎で歪んでいる。まるで夢のような景色。当然だ。普段ならばまだ夢を見ている時刻だ。僕にとって昼は睡眠時間、そして夜が活動時間だった。可能であれば昼夜を問わず夢を見ていたかったのだが、暗くなると、カツンッ、カツンッという音が襲ってくる。そのため、夜には眠ることができなかった。
逃げよう。今朝、陽射しを目にした時、そう思った。
このまま太陽と共にいれば、僕はずっと光の中に身を置ける。
十キロほど走った辺りで空を見ると、まだ太陽はさほど移動していなかった。それに比べて僕はとっくに知らない土地だ。暗闇はその欠片さえ見せていない。この調子ならば太陽に追いつけるだろう。人間とは単純なもので、そう思うと自然と足が軽くなった。尻を浮かせ、身体を左右に揺さ振りながら走る。
ところが、汗が頬を伝って口の中に入った時、足は動かなくなった。吐き気がする。目眩もする。やはり精神力のみでは日頃の運動不足を補うことはできないらしい。一旦自転車を降りて下を向く。すると、ますます汗が出てきた。その汗はボトボトボトと流れ落ち、アスファルトの上に黒い斑点を作った。
逃げろ。逃げろ。
心がざわめく。僕は塩辛い汗と共に唾を飲み込み、よろめきながらも再び自転車を前に進めた。
そんな瀕死状態の僕に追い打ちをかけるように、しばらく行くと、急な上り坂に出くわした。道路を見上げる。大袈裟な表現ではなく、本当に首を上に傾ける程の急勾配。僕は、漕ぐことを諦め、自転車を引きずって歩いた。
「エスカレーターでもあれば良いのに」
「ああ、そうだな」
「苦しい」
「そんなに苦しいのならば飛んで浮かんで逃げれば良いんだよ」
首を横に振る。
その後、どうにか坂を登りきると、現れたのは下り坂。ただし、そこにはトンネルもあった。当然ながら中は薄暗い。そう、暗闇の住処だ。だからといって引き返すのも億劫。覚悟を決めて力強くペダルを踏み込み、トンネルに突入する。
オレンジ色の照明が次々と後方に飛んでいった。かなりの速度だ。不安はないと言えば嘘になるが、この速度を維持すれば、すぐに表に出られるに違いない。
案の定、数分後にはトンネルを抜けることができた。それは同時に下り坂の終わりでもあった。目の前には、二つ目の上り坂が伸びていた。
「登るのは大変だったのに、落ちるのは一瞬だな」
哲学だか物理学だかの真理を口にし、渋々ながらもペダルに力を込める。二つ目の上り坂は急ではなかった。反面、長い。目視する限りその終わりがどこにあるのか見当もつかない。とはいえ立ち止まっている余裕はなかった。太陽が、いつの間にか傾き始めている。
緩やかな勾配は確実かつ効果的に僕の体力を削っていった。足が重く、ノロノロと走らざるを得ない。それでも距離はだいぶ稼げたようで、気が付けば辺りには緑が溢れていた。もちろん鑑賞をする余裕などない。身体が限界だ。
何より、もう時間がない。
間もなく、世界はオレンジ色の光に満たされた。既に太陽は目の高さまで落ち、背後からは暗闇が追いかけてきている。
必死にペダルを回した。ギリギリと自転車は鳴いた。
遠くに灯りが見えた。コンビニだ。僕は、逃げ込もうと思い、その灯りに向かった。けれどもそこに辿り着いた時、店のシャッターは下り始めていた。
コンビニは二十四時間開いているものじゃないのかよ。抗議しようとしたが、無情にもシャッターは閉まり、同時に暗闇が僕を包んだ。
カツンッ、カツンッ、カツンッ。
蠅がうるさい。いや、蠅ではないな。きっと知らない虫だ。
コンビニの軒下には青い殺虫灯がぶら下がっており、虫が近付くとバチバチと音が鳴った。こちらは二十四時間営業のようだ。暗闇よりは幾分マシと思い、その光に近付く。カツンッ、カツンッ。気を付けないと死んでしまう。
バチバチ。ほらな。
夜は活動時間のはずだった。普段であれば目が冴えて仕様がなかった。ところが今夜に限っては座っただけで眠気が訪れる。どうして、どうして、どうして。
昼に運動をしたせいだ。そう気付いた時、僕は、眠りに落ちた。
翌朝、シャッターの開く音で目が覚めた。店員が怪訝そうな顔付で僕のことを睨む。僕は何も言わず、その横を通り過ぎて中に入った。
店内は涼しかった。と言うより寒いくらいだった。暖かいものが欲しくなり、熱い缶コーヒーとフライドチキンを購入。直後、後悔をした。外はとても暑かったからだ。意地になって缶コーヒーを冷たい飲み物かのように一気に飲み干す。そして空き缶をコンビニの窓に叩きつけ、勢いよく走り出す。
空は、薄っすらと白くなっていた。
昨日は遠回りをした。太陽のある方角を目指したために、当初、南に向かっていたのだ。進むべきは西だ。先回りをして西に行かなければならない。おそらくこっちが西だろう。適当に当たりをつけ、フライドチキンを齧りながら進む。
大通りに出た。大通りだ、と思った。
街があった。街だ、と思った。
森林が見えた。森林だ、と思った。
暑さで頭が働かなかった。太陽が真上に昇り、その光がジリジリと僕のことを干物にしようとしていた。更に、熱せられたアスファルトが僕のことを燻製にしようとしていた。食えない人間が保存食になっても意味がない。
そこで、日陰のほうがまだ涼しいだろうと考え、木々のある山へと向かう。
ギリ、ギリ……
数時間後、自転車だけではなく、身体までもが軋み始めた。当然と言えば当然だが、山中の道は起伏が激しかったのだ。
道の脇の黄色い看板に『注意。マムシが出ます』と書かれている。僕は「うるせえよ!」と、うるさくもないのに怒鳴った。機嫌が悪かった。疲れきっていた。
気が付けば、進行方向に赤い太陽があった。
『凄いよ太陽』
動き続けてトゥエンティフォー
地球一周グローバル
まるでバブリーサラリーマン
真似できないし したくもない
ないない尽くしで追いつけないや
ナイヤイヤー
天動説 地動説
常に噂で持ちきりオニギリ
米も日陰じゃ育たない
命の源 それはお前だ
相思相愛 抱き締めたいや
ナイヤイヤー
ロウの翼でフライアウェイ
命の源 凄いよ太陽
フライヤイヤー
日が昇り、日が沈み、そんなことが繰り返され、ハッキリとしているのは全身がベタついているという事実のみ。どこを走ったのか、どれくらい走ったのか、もはや思い出せない。思い出せないが、どうでも良かった。
さすがの僕も太陽に追いつくのは困難だということに薄々気付き始め、半ば惰性でもってペダルを漕いでいた。ギリ、ギリと鳴く自転車と僕。どちらが先に壊れるのか、このままでは時間の問題で答えが出る。
今日の太陽を逃したら、もう帰ろう。
僕は当然の帰結として全てを受け入れようとしていた。その時、海に出た。
ちょうど太陽が水平線の向こう側に隠れようとしている。
「待て!」
待つ訳がない。
けれども、これ以上前に進むことはできない。試したことはないが、自転車で海を渡るのは困難だろう。錆びついたボロともなれば尚更だ。いや、違う。そんなことではない。無理を承知でここまで来たのだ。
理屈で考えてはいけない。行ける。行けるさ。もっと感覚で行動しろ。右脳で、左脳ではなく右脳で行け。必要なのは……右脳パワーだ。
自転車を頭上に掲げ、グルグル回してぶん投げる。盗んだバイセコーさよならバイバイ。拳を握り、ハンマー投げの選手よろしく、僕は叫んだ
「ウゥゥゥゥゥゥノォォォォォォッ!」
突如、強風が吹きすさび、僕はよろめいた。真実の旅へようこそ。どこからともなく暗雲が立ち込め、瞬く間に空が覆い尽くされる。世界は、暗く濁った。僕は閉鎖空間に閉じ込められたような心持ちになり、落ち着きなく首を振って辺りを見渡した。海面が大きく盛り上がり、大きく凹み、狂ったように暴れている。まるで巨大な化け物。
茫然としていると、化け物が喉を鳴らしているかのような、低い、ゴロゴロという音が聞こえた。そして、カッと空が瞬いた。雷だ。同時に海面が光を反射し、僕の目を眩ます。白いヒビが、雷の残像が、目に残った。白いヒビの向こうには未だ揺れ続ける真っ黒な海が見える。ただ、水平線の辺りだけは仄かに明るかった。じっとそこを見つめていると、水平線は明るさを増し、黒い空と黒い海を隔てる一本の白い線に化けた。
何かが来る、思った瞬間、地響きが起こり、海が割れる。僕の立っている位置から真っ直ぐ、水平線まで谷が出来上がったのだ。その谷に水が流れ落ち、飛沫があがる。谷は徐々に幅を広くし、海の底を露わにし、やがて大きな道になった。道の両脇には海水の壁が垂直に立っている。遥か向こう見えないくらい遠くまで道は続いている。この道を行けば約束の地へ辿り着けそうだ。
地響きが止んだ。と同時に、水平線の向こうから光が近付いてきた。光はゆっくりと道を辿っている。近付くにつれ、その光は人の形に姿を変えた。あいつだ。あいつに違いない。
「わしは……」
ここまで聞いて断言する。
「右脳の神だろ」
「なぜ分かった。おぬし、心が読めるのか?」
何も言う気になれなかった。また変なのを呼んでしまった、と後悔した。
「後悔するでない。そこまで行くから待っておれ」
右脳の神は歩いていた。水平線の向こうから徒歩ということは、当然ここまで来るには時間が掛かる。僕は砂の上に座って待つことにした。
どれくらい時間が過ぎただろう。右脳の神はまだ遠くにいる。遅い。僕は立ち上がり、帰ろうとした。前屈みになって砂を払う。そして顔を上げる。すると、カツンッ、目の前に神が立っていた。瞬間移動だろうか。そんなことができるのならば最初からやれ。そんなことを思っていると、神は口を開いた。
「ハロー。ハロー。波浪警報」
クソ。むかつく。
「まぁ、落ち着くのじゃ。いやぁ、待たせたのう」
「こんだけ待たせたのですから、何か褒美でもあるんでしょうね」
「うむ。褒美に良いことを教えてやろう」
「ありがとうございます」
「夜の空が黒いのは、蠅がびっしりととまっているからじゃ」
悪い冗談だ、と思った。
「そう、冗談じゃ。良く分かった脳。フォ、フォ、フォ……」
「フォ、で笑う人とは関わりを持たないことにしているんです」
そう言うと、右脳の神は笑いながら凄まじい速さで飛んでいき、夕日に姿を変えた。空はオレンジ色だった。海は穏やかに平らだった。
「待て!」
夕日に言ったのか、右脳の神に言ったのか、分からなくなっていた。いずれにしても、追いかけなくては暗闇に包まれてしまう。
追い込まれていた。一歩、二歩、と前へ進み、海に入った。水は冷たかった。流れる砂に足を取られ、波に体を押し返され、思うように前に進めない。それでも水を掻き分け、もがきながら沖へと向かった。
けれど肩の辺りまで水に浸かった時、太陽は姿を消してしまった。
空も海も真っ黒で、水平線など見えず、前にも後ろにも暗闇が広がる。時折波が泡立って歯のように白く輝きはしたものの、求める光の明るさには程遠い。
ふと下を向く。自分の身体が見えなかった。黒い水に覆われ、首から下がなくなっていたのだ。僕は驚き、慌てて手を上げた。手は、水の中から現れた。
良かった。暗闇に溶けてしまったのかと思った。
はは、と力なく笑い、そのまま手を見つめていると、大きな波が襲ってきた。遥か頭上から海水が降ってきて、飲まれる。僕は泳げない。足元から地面が消えた。どちらが上かどちらが下か、分からない。グルグルと回る。グルグルと目眩。
もがいた。もがいたら運良く水面に顔が出た。けれどもまたすぐに白い波に喰いつかれた。目の前は黒。黒い水。溶けてしまう。いや、既に溶けたか。
白い歯に噛み砕かれて僕の身体は水になる。昼は夢のように透明で、夜には黒い本当の姿を晒す。お似合いだ。
もがくのをやめた。笑みを浮かべ、僕は、ゆっくりと目を閉じた。