四、
仮想と現実の境はカーテンのようなもので、完全には塞がっていない。それは曖昧であり、時に捲れあがり、痛みと快楽の混乱を招く。
男はひどく疲れていた。
家と会社との往復の毎日。昨日と同じ時刻、昨日と同じ道を男は歩いていた。数年前のこの時刻もこの道を歩いていたことだろう。違う道を歩きたい、と男は常々思う。けれど遠回りをする訳にはいかなかった。家では妻が待っている。
ならば、と一つ閃き、男は道を横断した。日頃は道路の左側を歩いているが、今日は右側を歩こう。そう考えたのだ。実に些細なことではあるが、たったそれだけのことでも、男にとっては冒険だった。
家に着くと、そこには知らない女がいた。女は男の顔を認めると、口元はだらしなく歪めて、微笑んだ。
「おかえりなさい」
男は流され易い性格だった。この女は何者だろう、と思いはしたものの、至って自然に言葉を返した。
「ただいま」
女が意味不明なことを話し始める。
「ああ、あなた、聞いてちょうだい。子供ができたの。あなたの子供よ。ああ、嬉しい。ああ、嬉しい。ほら、ここに、ほら、ここにいるのよ」
男は妻以外の女を抱いたことがない。目の前の女は妻に似てはいるが、知らない人間だ。状況を飲み込めない。
「ああ、あなた、とても嬉しい。抱いてちょうだい。あなたの子供を、あなたの子供をわたしごと抱いてちょうだい」
そう言うと、女は服を脱いだ。男は流され易い性格だ。あらゆる疑問を捨て置いて、裸体に手を伸ばした。その手が肌に触れるよりも早く女が抱き付いてくる。そうして二人は蒲団に転がった。ふいに呼吸が乱れ、荒くなる。
男は、習慣化した動作のように、淀みない手付きで女の両脚を押さえ、大きくＭ字型に開いた。そこには十分に湿り気を帯びた真っ赤な穴があった。その穴の縁を一本の指でなぞり、それから、ゆっくりと奥へと押し込む。続いて、二本目、三本目、四本、五本と入れる。もう片方の手の指もあてがい、力を込める。すると全ての指が、いとも簡単に収まった。
男は思った。帰ろう。両手に更に力を込めて穴を広げ、そこに頭を突っ込む。中は暖かく、明るかった。そして、広かった。
奥に一対のソファが見える。片方のソファには誰かが座っていて、すました顔でパソコンのキーボードを叩いている。男は尋ねた。
「誰？」
「僕は真実の胎児。そして、ここが、この女の性感帯」
そう言うと、胎児は床を蹴飛ばした。地響きのような女の笑い声が聞こえる。男も胎児に倣って同じ場所を蹴飛ばしてみた。女の喘ぎ声が響く。男は愉快な気分になり、何度も床を蹴飛ばした。
「どうだい、楽しいかい？」
胎児に問われ、男は我に返った。
「ああ、ずっとここに居たいくらいだ。でも、そろそろ行かないと」
胎児は悲しげな顔をした。
「外の世界は危ないよ。きっと、あなたは死んでしまう。死のうとしてしまう」
「大丈夫。頷くことを身に付けていれば人は不幸にならないものだよ。じゃあな」
「うん、いつかまた会おう……」
翌日も男は道を横切った。けれど、すぐに引き返し、大きな通りの中央で足を止めた。男の頭の中では女の声が、繰り返し、繰り返し再生されていた。
「ああ、あなた。ああ、あなた……」
これは、現実か？
カツンッ、カツンッ、カツンッ。
消去。
僕は溜め息をついた。部屋の中は静かで、溜め息の音がこだましそうだった。何もかも嘘のようだ。東条がここにいたことも遠い昔のように感じられる。
再び溜め息をつく。僕の溜め息は灰色。自分の手に溜め息をかけると、手が灰色に染まった。壁に溜め息をかける。壁も灰色に染まった。時計にかける。時計も灰色に染まった。部屋中に溜め息をかけ、全てを灰色にする。そして灰色を見渡していると、パソコンが目に入った。今夜も眠れそうにない。小説を書こう。
パソコンの電源を入れ、キーボードを叩く。
カツンッ。蛍光灯に蠅がぶつかった。
もう一度キーボードを叩く。
カツンッ。蛍光灯に蠅がぶつかった。
カツンッ、カツンッ、カツンッ。
蠅がうるさい。大量の蠅が蛍光灯に繰り返し激突している。光を求めているようだ。僕は恐る恐る蛍光灯の紐を引いた。辺りは暗くなり、パソコンのディスプレイだけが薄っすらと白く輝く。ドップラー効果。耳のすぐ傍を蠅達が通り過ぎた。耳が痛くなる程の轟音。蠅達は編隊を組んで飛んでいた。暗闇の中でその編隊のシルエットは大きな輪郭に化けていた。まるで巨大な蛇。蛇は光を探し求め、部屋の中を暴れ、白い輝きを見つけると、パソコンに向かって突撃を開始した。
カツ……
蠅達はディスプレイに張り付き、そのままパソコンの中に吸い込まれて『蠅』になった。『蠅』という字になった。目の前に蠅が並ぶ。
蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅 蠅
八百匹の蠅。
退け。邪魔をするな。
僕はバックスペースを、カツンッ、カツンッと叩いた。バックスペースを、カツンッ、カツンッと叩いた。バックスペースを、カツンッ、カツンッと。蠅は次々とカーソルに喰われ、やがて、消滅した。
画面には、一行の文章だけが残っていた。
――僕は走り出した。
