三、
「迷宮に閉じ込められていたんだ。こいつはね」
男はテーブルに置かれた落書きを指差して言った。
「こいつは王の命によって迷宮に閉じ込められたんだ。分かるか? ラビリントスだ。高い壁、果てなく続く曲がりくねった道、どうすれば逃げ出すことができるだろう。途方に暮れるばかりだ。ある時、鳥が舞い降りてきた。見上げると空があった。そうだ、飛んで逃げれば良い。蝋で鳥の羽を繋ぎ合わせて翼を作り、それで羽ばたこう。こいつはそう考え、さっそく作業に取り掛かった。迷宮中から鳥の羽を拾い集め、繋ぎ、固める。ところが全く羽が足りない。いつまで経っても翼は出来上がらなかった。そこで更に考えた。ゴミにたかる蝿を捕まえ、その羽をむしり取ってしまおう。食い散らかした蛇やら鼠やらの屍骸には何百匹もの蝿がいた。そいつらを犠牲にして、翼は出来上がった。その翼を両手に持って振ってみると、ブーン、ブーンという奇怪な音が響いた。そう、まるで蝿の羽音のようだったんだ」
毎日、同じことの繰り返し。昼間眠り、深夜に小説を書いている。
カツンッ、カツンッとキーボードを叩く。
僕は悪くない。理解できないほうが悪い。エロ本の読者など脳味噌が腐っているに違いない。編集者も同じく腐っている。あんなエロ本、誰が読むんだ。僕はあの本の愛読者だ。僕みたいな奴が読むのだな。いや、僕は小説家だ。下品な世界に生きる人間ではない。文学史に名を残す。残さなければ。認められなければ。
カツンッ、カツンッ、カツンッ。
読者は何を求めている? ロマンス? バカンス? バイオレンス? いや、求めているものに振り回されていてはいけない。自分の内面から湧き出るものを表現するんだ。内面から湧き出るもの? 汗? 涙? 唾液? いや、そういうことではない。試しにまずはタイトルを考えてみよう。黒い、黒い雨? 駄目だ。そういう作品が既にあるじゃないか。黒い水? これも既にある。黒い家? もう嫌だ。黒い、黒い人? 主人公は黒人で差別をテーマに、重過ぎる、扱いきれない。主人公は真っ黒に日焼けしたギャルで性と生をテーマに、古過ぎる。タイトルから考えては駄目だ。物語だ。夜? 夜、夜が怖い。夜が怖くて逃げる。主人公は少年で夜から逃げるんだ。太陽を追いかけて旅に出る。盗んだ自転車と盗んだ時間。フライドチキンを齧りながら皮肉を口にして、最期に気付くんだ。そして、同じ日々が変化し……とりあえず、書こう。カツンッ。
――僕は走り出した。
僕? 一人称で書くのか? 『少年は走り出した』のほうが良くないか? けれど一人称のほうが内面を表現し易いか。『僕は走り出した』言い回しは過去形で良いのだろうか。『僕は走り出す』しっくりしない。やはり過去形だ。一行目は『僕は走り出した』に決定。決定? ありきたりではないか? そうだ、語り部は大人で、回想をしていることにしよう。例えば、『あの日逃げ出した僕は、帰ってくることができただろうか』なんだこれ? シンプルにいこう。『僕は走り出した』で良いだろう。いや、一行目は肝心だ。読者の興味を引くために意味ありげな言葉で始めるのはどうだろう。『食べろ! 発癌性物質』意味ありげとはこういうことを言うのか? 違う。これは、意味がない、だ。引用はどうだろう。『それは太陽のせい』これも違うな。自己紹介から入るのは愚策。状況説明も芸がない。
疲れた。
駄目だ。理屈で考えてはいけない。感覚で書かなくては。つまり左脳ではなく右脳を使うんだ。必要なのは……右脳パワーだ。
溶ける。カツンッ、カツンッと、飛んで転がり取り換える。パソコンは輝き、暗闇は染まる。窓を叩く人。七年という時間。時間を越えた観念。僕は叫んだ。
「ウゥゥゥゥゥゥノォォォォォォッ!」
瞬間、轟音が鳴り響く。何事かと思いベランダに出てみると、雷が山に突き刺さっていた。どうやら先程の音は雷鳴らしい。再び轟音が鳴り響き、僕の腹を震わせる。真実の旅へようこそ。何かに引き寄せられるように一歩二歩と前へ進み、柵に手を掛ける。空は分厚い雲に覆われ、どんよりとしていた。大粒の雨が顔を打ち、バチバチと音があがる。すぐに全身は濡れそぼち、服が肌に張り付く。けれど不快ではない。むしろ身体が冷えて心地良いくらいだ。
見上げると、奇妙な光景が目に入った。空の一部が、雲の一部が、渦を巻いていた。芋虫のようにグニャリグニャリと動きながら円を描いている。やがてその中心から光が溢れ出し、暗雲を退けていった。眩しさに僕は手で目を覆い、そして指の隙間から辺りを一望した。光は全てに降り注ぎ、灰色の街は力の限りその光を反射しようとしている。視界は金色に染まり、普段見慣れた家々の屋根さえも神聖なものに感じられる。
いつの間にか雨は上がっていた。何か、大きな存在の気配がする。光のほうからだ。僕はゆっくりと手を退かし、再び視線を上に向けた。目が慣れたのか、眩しくなかった。それどころか、奥ゆかしい。良く見れば光は無数の絹糸のようなもので構成されており、艶やかに、滑らかに流れ動いている。絹糸の一本一本は七色に輝き、色と色とが複雑に絡み合って様々な表情を見せる。その美しさ。超常現象の最中にもかかわらず、僕は、見惚れてしまった。目と口の閉じ方さえ忘れた。
しばらくすると光の中に人影が見えた。顔は見えないが威厳を感じられる。あれが大きな存在感の正体だろう。光の糸が一枚の布に姿を変え、その存在を包み込んだ。同時に耳鳴りがする。存在は僕の頭の中に何かを注ぎ込んできた。それは言語を越えた言語、意思を越えた意思、文字という媒体では表現し切れないもの。仮に無理矢理表現したとすると。
「いあいあくわとろべんてぃーえくすとらこーひーばにらきゃらめるへーぜるなっつあーもんどえきすとらほいっぷあどちっぷうぃずちょこれーとそーすうぃずきゃらめるそーすあっぷるくらんぶるふらぺちーの」
ちなみに和訳すると、「わしは右脳の神じゃ」という意味になる。
「じゃ? じゃ、とは、何様のつもりじゃ」
「神様じゃ」
バイリンガルモード。
「神様が一体なぜ?」
「おぬしが呼んだのじゃ」
「そういえば呼んだ気がする。で、神様は何かしてくれ……」
「右脳の面倒を看てやる」
「右脳の面倒を? ひょっとして素晴らしいアイデアを……」
「授けない」
神は僕が質問を終えるよりも早く返事をする。どうやら心を読んでいるようだ。
「そうじゃ、心を読んでいるのじゃ」
だいぶウザい。
「では、右脳の面倒を看るとは、どういうことですか?」
「とりあえず、いあいあちょこれーとそーすあどほいっぷふるりーふちゃいらて」
「帰ってください」
高らかな笑い声をあげながら神は雲の合間に消えた。辺りは静まり返り、世界は元の灰色に戻った。雷も、雨も雲も何もなく、ただ数匹の蝿が飛んでいる。
「右脳! 右脳! 右脳!」
繰り返し空に向かって叫ぶが、もう何も起らない。遥か下のほうから風が呼んでいるだけだった。それでも僕は叫び続けた。
カツンッ、カツンッ、カツンッ。
誰かが来た。部屋に戻ってインターホンの受話器を取ると、男の声がした。
「すみません。警察の者ですが、近所から通報があって伺いました」
「何かあったんですか?」
「ええ、ベランダで叫んでいる人がいるということなのですが」
「はいはい、気を付けるように伝えておきます」
「とりあえず玄関を開けて頂けませんか」
「嫌です」
「差し入れがあるんですが」
「少々お待ち下さい」
扉を開けると、東条が立っていた。
「どうも警察の者です」
東条は手に一升瓶を持ち、満面の笑みでそう言った。僕が何かを言う前に、彼は勝手に部屋に上がり込んでベラベラと喋りだした。ちょうど酒を飲みたかった僕はそれを咎めなかった。軽く部屋を、パソコンを、片付ける。
「ベランダで何やってんだよ。新しい遊びか?」
「いいえ、新しい作品の構想を。それより、何しに来たんですか?」
「この間はちょっと言い過ぎたと思ってな。お前、落ち込み易いから」
「別に気にしてませんよ」
「まあ、飲もう」
マグカップに酒を注ぎ、乾杯をして飲み干す。そしてすぐに注ぎ直し、再び飲み干す。久し振りの酒は回りが早かった。しかも何も食べていない上に目の前には東条。胃がムカムカとした。けれど、それは気のせいだった。本当は楽しかった。
「……え? 僕と同い歳なんですか?」
「ああ、そうだよ。知らなかったのかよ」
「はい。あ、うん。ん? はい。歳上だと思ってました」
「お前と初めて会った時、ほら、あそこの編集部で。あの時、俺は新人だったんだよ。まあ、すぐに辞めちまったけどな」
どういう流れからか、話はそんな内容に向かっていた。
「大手の出版社じゃ、できることが限られている。倫理だか道徳だか面倒な規制があってな。だから友人や先輩達といまの出版社を立ち上げたんだ。まあ、収入は減ったが、落ち着く所に落ち着いたって感じだな。そうそう、俺も昔、小説家になろうとしてたんだ。でも、編集の仕事をしたらこっちのほうが面白くなってな。何より、いまの生活のほうが現実的だ……」
僕は話を聞きながらニヤニヤと笑った。
「おい。人の話を聞いてんのか?」
「現実的なのは、そんなに良いことですか? その言い分は納得できない。それは東条さんが嘘をついているからだ。編集が楽しくて小説家になるのをやめた? 小説家になれなくて編集者になったんでしょ?」
「そうかも、知れないな」
「本当は今の生活に不満がある。それなのに無理矢理これで良いんだと頷く。常に自分自身に言い聞かせている。違いますか?」
「誰だってそうだろ」
「僕は嫌ですね。そんな生き方」
「お前は良いよな。好きなことだけやって、楽に、自由に生きて」
「何も分かってないですね。僕からすると他人のほうが楽に見えますよ。馬鹿で羨ましい。頷くことができちゃうんですから」
「お前は昔の俺に良く似ているよ」
「やめろください。僕はあなたみたいにダサくない」
「官能小説を載せる企画が持ち上がった時、お前のことを思い出したんだ。あそこの編集室にいたお前をな。惹かれたんだ。家出少年のような雰囲気に」
「はぁ? 何ですかそれ。格好付けないで下さいよ。拾ってなんて欲しくなかったですね、ゴミ溜めなんかに。僕はね、文学的名作を残し、歴史ね、歴史に名を刻むんですよ。たかがエロ小説、そんなものを書く人間じゃないんだ」
「すまないことをしたな」
「そうやって大人の振りをしないでくださいよ。本当は怒ってるんでしょ?」
「何も書けない人間が、名作を残せるとは思えないけどな」
沈黙が漂った。煙草の煙が部屋に充満していた。
その時、カツンッ、カツンッと誰かがやって来た。
「ああ、俺が出るよ」
そう言って、東条が玄関へと向う。
扉の向こうには制服を着た二人の男が立っていた。
「警察の者ですが、先程ベランダで叫んでいる人がいると通報がありまして……」
僕と東条は同時に噴き出した。警官達が不審そうな顔をする。そんな二人に対して東条は、差し入れをねだったり、逮捕状を要求したりと、適当な応対をしながらケタケタと笑った。僕もその様子を見ながら笑う。
警官達は、「気を付けてくださいよ!」と言い残し、呆れた顔をして去っていった。きっと僕達は質の悪い酔っ払いに見えたことだろう。実際、そうだが。
再び二人きりになり、東条と目が合う。
「まあ、飲もう」
声が揃った。それから僕達は、三秒と記憶に残らないような、実のない、くだらない会話を繰り返し、必要以上に笑った。
やがて夜は更け、空の一升瓶が転がった。すると東条が立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべて、こう言った。
「そろそろ帰るかな」
もう電車のない時間だ。僕は酒を買い足すことを提案した。けれど。
「もうすぐ子供も生まれるし、嫁がうるさいんだ」
東条は、酔っているのか冗談なのか判然としないが、「出口、出口」と呟きながら、あちこちの扉やノートパソコンを開き始めた。
「本当に帰るんですか?」
「あ? ああ、帰る。帰るさ。帰り道はあっちだったよな? そこを真っ直ぐ歩いて帰るさ。じゃあな」
そう言って歩きだした彼の後ろ姿は、妙に現実的で、なぜだろう、悲しかった。