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二、


 階段を昇る夢を見ていた。

 目を覚ますと、階段を昇っていた。


 昼間に行動をするのは久し振りだった。普段ならば眠っている時間だ。窓から差し込む光線が大きな槍となって僕の身体を貫く。お陰で意識は朦朧。階段を昇る僕は階段を昇っている。どうやら出版社に向かう途中のようだ。いや、そこは出版社ではない。そこは、せいぜい、ゴミ溜め。

 ゴミ溜めは成人向け雑誌を二冊発行している。二冊だけ。どちらも似たような内容で風俗から特殊嗜好までと節操がなく、普通の生活をしていたならば一生知ることのない、信じ難い世界が繰り広げられている。そのためゴミ溜めの雑誌は一般の書店では扱われていない。専門店または通販のみでの販売だ。

 僕は一方の雑誌に官能小説を載せており、月に一度ここに出向いていた。


 もう目の前。そこの扉を開ければ編集室。さびれたビルの、さびれた三階。階段を昇りきった僕は肩で息をしていた。自身の体力のなさを思い知らされる。たった三階、されど三階、エスカレーターでもあればいいのに、そんなことを思いながら呼吸を整え、ノックもなしに扉を開ける。


「あの……」


 扉の隙間に半身だけ突っ込み、小さな声を出す。誰も振り向かない。そこで一旦外に出て、勢いよく鉄製の扉を蹴飛ばす。ガンッ、ガンッと鈍い音が響く。しばらくすると若い男が出てきた。

 男は僕の顔を見ると首を前に出して頷き、「おざーす」と意味不明な言葉を口にした。返事をせず、その横を通り過ぎて中に入る。


 担当の編集者の姿は見当たらなかった。今日は原稿の締め切り。食事にでも行っているのだろうか。室内をうろつき、『東条』というネームプレートの置かれた机の前に座る。東条とは僕の担当編集者の名だ。ここで待たせて貰おう。

 机の上には修正が施される前の写真が散らばっていた。どれも被写体は足を広げた女で、真っ赤な肉が僕のことを笑っているかのように大きく口を開けている。笑うな。僕は写真を一枚ずつ手に取って睨んだ。その様子を不審に思ったのか、隣に座る男がこちらにチラチラと視線を寄越してきた。

 ゴミ溜めの人間達とは然して親しくない。まともに口を利いたことがあるのは担当である東条くらいだろう。隣からの視線が気になりはしたが、あえてそれを無視し、接触を拒絶し、写真との睨めっこを続ける。

 けれども、しばらくすると男は声を掛けてきた。


「東条は、今日は休みだよ」


 グルグルと目眩。人のことを呼び出しておきながら休みを取るとは。吐き気にも似た淀んだ怒りが込み上げる。ただ、その感情を誰にも悟られたくはない。約束をすっぽかされたなんてダサ過ぎる。そこで冷静を装い、「へえ」と相槌。続けて適当な言い訳を口にする。


「実はパソコンが壊れてしまって、代替機を借りに来ました」


 咄嗟に思い付いたにしては上出来な口実だ。


「パソコンならソファの近くに使っていないのがあるだろ」


 申し訳程度にあつらえられた応接スペースに、ソファがテーブルを挟んで向かい合わせに二つ置いてあった。その向こう側に機械が山積みになっている。助言に従ってそこを漁ると、すぐに灰色の機体が見付かった。僕がかつて使用していたパソコンと同じものだ。動作確認をするためにそれをテーブルの上に置き、カツンッとスイッチを入れてみる。すると蝿の羽音のような起動音が微かに響いた。

 立ち上がるまでの間、ディスプレイをじっと見つめる。灯りが点く前の真っ黒な平面は、鏡のように僕の姿を映している。

 ふと画面に映る自分の顔の横に、もう一つ顔があることに気が付いた。急いで振り返ると、そこには東条がいた。


「よう」


 悪びれる様子はまるでない。


「今日は休みじゃないんですか?」

「お前の原稿を受け取るために出社したんだ。ありがたく思えよ」


 そう言って東条はソファに腰を掛け、手を伸ばしてきた。僕は何も言わず、原稿の入った封筒を差し出した。彼は僕の手から封筒をむしり取ると、乱雑に中身を広げ、空になった封筒を返してきた。凄く、いらない。


「あれ、手書き? 珍しいな」

「何もしていないのにパソコンが壊れてしまったんです」


 東条はいかにも興味なさげに「ふーん」と呟き、さっそく原稿を読み始めた。どうも僕は信用されていないらしく、原稿を持ってくる度、過剰なほど念入りにチェックを受ける。その上、しばしば修正を要求される。

 原稿に目を向けたまま東条はあちこちのポケットを探り始めた。煙草を探しているようだ。僕は煙草を一本取り出し、口に咥えて火を点けた。あなたの代わりに吸っておいてあげます。東条は一瞬だけこちらに目を向けたが、すぐに何事もなかったかのように小説の続きを読み始めた。

 静かな間。貧乏揺すりと煙草の煙。紙を捲る音。居た堪れない気持ちになる。


「エスカレーター……」

「は?」

「そこに欲しいなぁと思いまして……」

「ああ、そうだな」


 昨夜の食事を思い返す。そうだ、何も食べていない。それでも何かがいる。小さな何かが、一、二、三、飛んでいる。蝿だ。どこにでもいるのだな。人間の数と蝿の数、どちらが多いだろう。蝿が人間と同じ大きさならば良く分かるはず。「原稿を持って来ました」と言うと、蝿が「ありがとう」と言って受け取った。蝿は働いているらしい。凄いね。手と手を擦り合わせて頭を下げている。やがて、原稿がテーブルの上に投げ出され、東条が大きな伸びをした。


「あのさ、分かってる?」


 東条は原稿を読み終えると大抵こう言う。


「はいはい、分かってます」


 僕はいつも通り適当に返事をした。


「ああ、そう。じゃあ、よろしく」

「と言いますと?」

「なんだよ。分かってんだろ?」

「分かりません」

「一から書き直せ。明日まで待つから」


 その理不尽な要求に対し僕は食い下がった。


「どうしてですか? どこが悪いんですか?」

「お前は何も分かってない。読者が求めているのはこんなものじゃないんだよ。うちはエロ本を作ってんだ。興奮してなんぼだろ。なのに、なんだこれ。仮想? 現実? 真実の胎児? お前はこれを読んで勃つか? 勃たないだろ? だいたいアソコに頭を突っ込むって、はっ、こんなことしたいか?」

「したいです」

「おかしいよ、お前」


 あらゆる変質行為を体験取材し、かつそれら行為の愛好者でもある男が、こうも簡単に人の欲求を否定するとは思いもしなかった。


「お前がしたくても他の人はしたいと思わない。それじゃ意味がないんだよ。遊びでやってるんじゃないんだ。読者が理解できないことを書いてどうする」

「理解できないのは頭が悪いからですよ」

「頭が悪いのはお前だろ。どうして俺の言うことが分からない」

「読者に媚びて、読者の求めるものに従っていたのでは、誰が書いても同じじゃないですか。僕が書く以上、僕は僕の作品に僕を表現しなくてはいけない。そうじゃないと、それこそ意味がありませんよ」

「お前の作品である前に、うちの商品なんだ。これを載せる訳にはいかない」

「だったら他の商品開発者に頼めば良いじゃないですか」


 パソコンを抱えて部屋を飛び出し、階段を下りる。ビルの外に出ると汗が吹き出した。顔をびしょ濡れにしながら三階の窓を見上げ、思い切り叫ぶ。


「ふざけんな! このクソ野郎!」


 何も反応はない。僕は地面に唾を吐き、家に向かって歩き始めた。

 夢を見ていた。階段を昇る夢を見ていた。


 宙ぶらりんの首吊り男。その階段は、どんな階段だい?


 七年前、僕は舞い上がった。どこまでも飛べるような気がしていた。

 当時の僕はまだ学生で怠惰な生活を送っていた。将来のことなんて何も考えていなかった。周りの人間が就職活動で走り回っている頃、僕はベッドで横になり、煙草を咥えていた。

 少しばかり金が欲しくなり、小説を書いて応募した。名の知れた文芸賞。初めて執筆した作品にもかかわらず見事に入選を果たし、思惑通りに金を入手することができた。それ以上に名誉が手に入った。

 背中から翼が生え、僕は舞い上がった。走り回っている奴らが馬鹿に思えた。

 

 ――やあやあ、先生、あなたは素晴らしい。若いというのに、こんなにも優れた作品を創るとは、まさに天才だ。これから先が楽しみだ。文学史に名を残すに違いない。いやいや、謙遜されないでください。先生の思想や生き様、それ自体が芸術なのですよ。今後ともよろしくお願いいたします。


 すぐに出版の打診があった。僕は快く引き受けた。書き下ろしを一編。簡単だと思った。けれど、書けなかった。全く書けなかった。

 その旨を編集者に伝えると、短編をいくつか雑誌に掲載し、それらを入選作と共に作品集として発刊しようということになった。


 ――大丈夫ですよ。どうにかなりますって。書き溜めておいた作品などはありますか? ああ、小説を初めて書いたという話は本当だったんですね。いえ、気にしないでください。ただ、次の新人賞が行なわれるまでには本を出したいですね。


 言われた通りにした。それでも認めて貰えなかった。周りの人間達が憐れむような視線を僕に送ってきた。もう、やめてくれ。


 ――あいつは駄目だ。技術も何もありゃしない。たまたま小さな評価を得て調子に乗って、意味不明な言葉遊びで芸術家を気取っているだけだろ。あいつの吐き出す文芸論は、生ゴミの臭いがするよ。


 僕は覚えていないが、当時、その文芸誌の出版社に東条はいたらしい。以前、東条はこんなことを言っていた気がする。


「大手の出版社じゃ、できることが限られている。倫理だか道徳だか面倒な規制があってな。だから友人や先輩達といまの出版社を立ち上げたんだ。まあ、収入は減ったが、落ち着く所に落ち着いたって感じだな。そうそう、俺も昔、小説家になろうとしてたんだ。でも、編集の仕事をしたらこっちのほうが面白くなってな。何より、いまの生活のほうが現実的だ……」


 東条の言うことは、どこまでが本心だか分からない。


「官能小説を載せる企画が持ち上がった時、お前のことを思い出したんだ。あそこの編集室にいたお前をな……」


 僕は蝿。舞い上がり、飛び回り、ゴミ溜めにたかる。


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