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一、


 男は落書きをしていた。

 それは、翼を生やした人間が首を吊っている絵だった。




 カツンッ、カツンッ、カツンッ。


 ――深夜、僕は書いていた。

 ――深夜、僕は小説を書いていた。

 ――深夜、僕はノートパソコンで小説を書いていた。


 時代遅れの分厚い機体。解像度の低いディスプレイの上で小さなカーソルがチカチカと点滅している。カツンッ、カツンッとバックスペースを連打。虫のような文字達が次々と喰われていく。残酷な光景だ。

 部屋の中は蒸し暑く座っているだけで汗が滲む。座布団が湿気を帯び、足に張り付いて気持ち悪い。


 面白いネタがあるよ。面白いネタがあるよ……


 そう言いながら窓を叩く人がいる。僕は立ち上がってカーテンを閉めた。

 パソコンの前に座り直し、眉間に皺を寄せながら書きかけの文章を読み返す。消去。締め切りは明日だ。


 上手くいく訳がない。


 忠告ありがとう。溜め息をつき、キーボードを叩く。


 ――仮想と現実の境はカーテンのようなもので、完全には塞がっていない。それは曖昧であり、時に捲れあがり……つまり僕が……かつて言っていた……旅……閉鎖空間……胎児……それから……


 カツンッ、カツンッ、カツンッ。


 蝿がうるさい。先程からあちこちにぶつかっているらしく、カツンッ、カツンッと地味な音が聞こえてくる。その地味さ加減が妙に神経を逆撫でする。

 カツンッ。音がする度にそちらを睨むが、蝿の姿はない。どうやら僕が振り向くよりも早く別の場所に移動をしているようだ。

 カツンッ。また聞こえる。気にしないことにした。

 ディスプレイに意識を戻し、話を考える。けれどもカーソルが同じ場所を往復するばかりで何も生まれてこない。眉間の皺は益々深くなった。


 カツンッ、カツンッ、カツンッ。

 カツンッ、カツンッとキーボードを叩く。


 消去。


 カツンッ、カツンッ、カツンッ。

 カツンッ、カツンッとキーボードを叩く。

 

 ――K……A……T……U……


 台所からカツンッ、窓からカツンッ、頭上からカツンッ、トイレとエアコンのほうから同時にカツンッ。

 蝿は一匹ではないようだ。いや、それ以前に、本当に蝿なのだろうか。まだその姿を確認できていない。それにもかかわらずなぜ蝿と言い切れる。いつからカツンッという地味な音を蝿のものと思い込んだのだろう。牛乳を飲んだ時か、ライターを床に落とした時か。

 ただ、これだけはハッキリとしている。僕は確証もないまま、地味な音、苛立ちの原因を、蝿のせいにしてしまった。蝿に失礼なことをした。訴えられでもしたら反論できない。とはいえ、原因もなく音がする訳がない。


 音の出処について推理することにした。

 まず仮設を挙げる。一:住宅の軋み。二:電化製品のノイズ。三:隣室や屋外からの音。四:やはり蝿。五:蝿以外の生物によるもの。六:心霊現象。

 以上の六つの可能性から真実を模索していく。始めに一の説。ここは鉄筋のマンションのため頻繁に軋むとは考え難い。故にこの説は消去。次に二の説。電化製品の場所以外からも音は聞こえてくる。この説も消去。三の説。音は確かに室内から聞こえてきていた。よって消去。

 残るは四、五、六の説。この三つに関しては頭の中のみで否定をすることはできない。音がした瞬間に生物の姿を確認できれば四か五の説。その姿が蝿ならば、そのまま四、違えば五。蝿以外の生物とはなんだろう。ハチ、アブ、カメムシ、ゴキブリ、それからアヒルやキリンという可能性もゼロ、ではない。知らない生物ということもあり得る。では、もし姿を確認できなければ。

 人が行方不明になってそのまま七年経つと、もうこの世にはいないと認定されるらしい。つまり音の原因を探して見つからないまま七年経つと、六の説、心霊が音を鳴らしたということになる。


 これから最長七年間、原因を探さなければならない。七年経って心霊現象であることが証明できたならば誰かに自慢をしよう。「いやぁ、家に七年前から心霊がいてさぁ」と照れ笑い。


 さっそく探すことにした。

 パソコンの電源を切り、耳に意識を集中する。


 カツンッ、カツンッ、カツンッ。


 一箇所から連続的に音が聞こえてくる。急いでそちらを見る。

 

 蝿。蝿。蝿。


 大量の蝿が蛍光灯にとまっていた。乳白色のカバーが蝿でマダラになっていたのだ。一辺六十センチの正方形が一面マダラであるから、その数は数十匹、いや、数百か。うち何匹かはとまることができず、カバーの表面に、カツンッ、カツンッと体当たりをしている。カツンッ。激突すると、その周辺の蝿達は飛び立ち、すぐさまカバーに戻ろうとする。ほとんどの蝿は再びとまれるが、数匹はあぶれ、激突側に回る。まるで椅子取りゲーム。蛍光灯は蝿の椅子取りゲームのためにあるのではない。追い出さなくては。

 昆虫には趨光性という習性がある。夜の電灯に虫が群れているのはこのためだ。蛍光灯の蝿達もその趨光性により椅子取りゲームをしているに違いない。つまり灯りを消せば、そこにいる理由はなくなる。窓を開け、恐る恐る蛍光灯に手を伸ばして紐を引く。灯りは消え、暗闇が全てを包む。

 蝿達はどうなっただろう。暗くて見えない。そこで強く目を閉じ、しばらくじっとする。暗闇に目を慣らすためだ。カツンッという音は聞こえない。

 目を開ける。暗闇に慣れた。どこに何があるのか概ね見える。モノクロだが、それで十分だ。壁は白、冷蔵庫も白、ゲーム機は黒、パソコンは灰色、時計の文字盤は白、蛍光灯は、黒、真っ黒だ。

 椅子取りゲームは終了したが、蝿はそこにいる。なるほど、そこにいる理由はなくなったが、そこを退く理由もないという訳か。ならば、ならば、ならば。

 

 殺虫剤を撒くことにした。

 台所の棚からボトルを取り出し、ノズルの位置を手で確認する。その時、あることが気になった。どれほどの効き目があるのだろう。

 一旦灯りを点け、眩しさに目を細めながらボトル側面の説明書きを読む。『ニオわない、さわやかタイプ』。いや、知りたいのはそういうことではない。更に先を読む。『強力、即刻殺虫』。効きそうだ。確実に殺しそうだ。


 ――なあ、暗くなったと思ったら、またすぐ明るくなったな……ああ、椅子取りゲームの再開だ……退きな、そこは俺の席だ。うっ……あ、死んだ。しょうがない奴だな……そういうお前も痙攣しているぞ……言ったな、こいつ、うっ……あ、死んだ。うっ……ボトボトボト。雨のように蝿が降り注ぐ。その雨はいつまでも止まず、床の上に黒い山が出来上がる。未だ息のある者は痙攣し、黒い山がカサカサと揺れる。消えゆく命達の巨大な山は次第に部屋を占拠し、全てを飲み込んでいく。蝿の雨、蝿の山、黒い雨、黒い山。


 不快な光景を思い浮かべてしまった。駄目だ。殺虫剤は使えない。どうすれば良いだろう。どうすれば、どうすれば、どうすれば。


 ホウキを使うことにした。

 やはり穏便に室外に出ていって貰うのが得策だろう。お出口はあちらでございます。灯りを消す。再び目を暗闇に慣らす。椅子取りゲームの終了確認。

 一気に蛍光灯のカバーを撫であげ、火消しがマトイを扱うようにホウキをグルリと回す。蝿達が飛び回り、羽音をあげる。耳が痛くなる程の轟音。なぜいままで羽音に気付かなかったのだろう。顔に蝿がぶつかり、バチバチと派手な音が鳴る。先程まで地味な音に苛立っていたが、派手な音でも同じく苛立つ。いや、それ以上に苛立つ。首筋を蝿が這い、鳥肌が立った。僕はその場にしゃがみ込み、限界まで小さく丸まって震えた。頭上では椅子をなくした蝿達が路頭に迷っている。

 口の中に違和感を覚え、咄嗟に唾を吐き出す。一、二、三匹の濡れた蝿が床に落ちた。蝿達は粘着質な液体に体の自由を奪われ、いかにも苦しそうに、もがく。足を上げると糸を引き、その糸の重みに耐えられず、またすぐ足は液体に浸かる。微かに液体が泡立つ。暗いにもかかわらず、苦しむ蝿の姿が鮮明に見えた。


 苦しい。


 吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。そして電気のスイッチに手を掛けた。けれども灯りを点ける訳にはいかない。暗闇の中で泣きながら戻す。口の中に胃液と牛乳と煙草の味が広がる。


 宙ぶらりんの首吊り男。苦しいかい? 顔は朱色に染まり、目は充血しているじゃないか。そんなに苦しいのならば飛んで浮かんで逃げれば良いんだよ。ただし足元は荒れ狂った海だ。気を付けなよ。


 トイレから出ると、部屋は静かだった。蝿は見当たらない。外の電灯に引きずられていったのだろうか。念の為、窓は開け放しておくことにした。

 うがいをしようと台所で蛇口を捻る。すると、黒い液体が出てきた。一瞬驚いたが、それは普通の水だった。暗闇の中では水は黒いらしい。不思議な感覚だ。いままで水の色について考えたことなどなかった。いつでも無害な透明だと思い込んでいた。いつから思い込んだのだろう。思い出せないが、どうでも良かった。

 黒い山、黒い雨、黒い液体を口に含む気にはなれず水を止める。冷蔵庫から牛乳を取り出して、それでうがいをする。あまりスッキリしなかった。


 崩れるようにパソコンの前に座り、ぼんやりと空間を見つめる。暗い。全身が暗闇に溶け込んでしまいそうだ。溶けた僕は、透明だろうか、黒だろうか。時計の文字盤は白かった。ああ、時間がない。原稿を仕上げなければ。


 カツンッとパソコンの電源を入れると、ディスプレイが白く輝きだした。


 ――むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が、ドンブラコー、ドップラコーと流れてきました。おや? 遠くの時と、近い時では、音の高さが違う。こうして、おばあさんはドップラー効果を発見しました。


 僕はドップラー効果を体験していた。ドップラー効果とは、救急車が目の前を通り過ぎる際、サイレンの音がピーポーピーポーからポーピーポーピーに変化するあれだ。もう一つ例を挙げると、虫が耳の傍を飛ぶ際にその羽音が低い音になったり高い音になったりする、あれ。

 低音から高音へ、高音から低音へ、繰り返し、繰り返し聞こえてくる。なんの音だか知っている。姿は見えずとも良く分かる。蝿だ。間違いない。


 カツンッ、カツンッ。ほらな。


 目の前に蝿、大量に現れた。昆虫には趨光性という習性。暗闇の中、ディスプレイが白く輝き。けれども眩さは失われる。知っている。次第に黒い斑点に覆い尽くされる。大量の蝿。退け。退け。邪魔をするな。


 カツンッ、カツンッ、カツンッ。


 蝿はディスプレイの上で椅子取りゲームをしている。弱々しいパソコンの灯りさえ彼らには求めるもののようだ。僕は拳を握り、パソコンの画面を殴った。

 

 カツ……

 

 蝿はどこにもいなかった。ディスプレイの液晶が割れ、黒い色が広がっていた。


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