第31話・門松
遅めの正月の話しですがご了承ください。門松の武田と松平のエピソードは前々から出したいと思っていたので出せて良かったです。
天文17年(1548)1月1日
■上野国 群馬郡 厩橋城
・武田信之
あけましておめでとうございます武田信之です!
いやぁ、炬燵はいいものです。外は雪が積もり真っ白な状況で見るだけでも嫌になります。城内の正門と屋敷の玄関先には門松が置いてあるのですが、そもそも門松は何故、竹、松、梅が使われているのか?そんな形なのか不思議で前世?転生する前に調べたわけですよ。門松は玄関に左右一体の形で置くもので先ほど言った通り竹、松の枝と梅の枝を荒縄でしっかりと固定して作るが、何故竹、松、梅なのか?と思った人もいるだろう。この3つが使われるようになったのは室町時代からなのだそうだ。まさにこの時代ですね。松は千歳を契り、竹は万余を契る。という言い伝えが元となっておりそれから依り代が永遠に続くようにと人々の願いが込められているというわけでありまして、そう思うと門松は正月には欠かせないものだと分かります。門松の竹は上の節の部分が削ぎ落とされていますがこれは何のためか疑問になった事は無いだろうか。これは竹の切り口を見てみるとわかる。人が笑った口に見えるのだ。笑う門には福来たる…という語源があるように縁起を担ごうという説があるが本当はどうなのかはわからない。
門松という名前は名前から見て分かる通り松が主体なのだが門松を見てみると脇役である竹が中心にあり目立つ何故?と思った。
調べてみると門松は原来松の木の枝を飾るといものからきているらしい。なぜ松の木を飾っていたかというと、松は祀るという意味があるので古来より日本ではどんなものにも神様が宿ると信じられており松にも当然神様が宿っていると信じられていた。それに鎌倉時代までは竹は使われず松が主役だったらしいのだ。
門松の形について有名なエピソードがある。武田信玄と今は織田の人質になっている哀れな松平竹千代、後の徳川家康が深く関わっている。門松の切り口は2つあり水平に切った”寸胴”と、斜めに切った”そぎ”だ。寸胴は武田流門松として有名であるが家康がそれを切ったのが始まりとされる、そぎ門松が20世紀では主流となっている。
この世界では起こるかわからないが、忠実では武田信玄が三方ヶ原で家康を完膚なきまでに破った戦いの後に家康に対して送った文にそれは書いてあった。
「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」
この意味は松は松平、つまり家康のことで竹は武田。
松(松平)が滅んで、竹(武田)は安泰である。
つまり松平がこれから滅んでいき、武田はこれから先は安泰である。という意味で当然家康はこれに対して怒り信玄に対して返答の文を書く 。
「松枯れで武田首無きあしたかな」
意味は
松は枯れず、武田の首が飛ぶ。
つまり松平はこれくらいでは滅亡せず、代わりに武田が滅亡するという意味だ。しかしこの文を送ったが怒りは収まらず門松の竹を信玄に見立てて刀で削ぎ落とした。
次はお前、信玄の首を切る!という意味もあったのだろう。後に家康が天下を取りそぎ門松も使われるようになったのだ。
寸胴、そぎ、どちらの門松でも縁起が悪くなる事は無いので人々の自由だが、やはり武田家として生まれた以上、武田流門松である寸胴タイプの門松を飾っている。
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