若様
ここから、ほぼ一人称よりの三人称にする予定です。
「ママ、ママ」
由香里と娘はぼろぼろでびしょびしょの服で二人座り込んでいた。新鮮な空気が肺の奥に吸い込まれる。
「パパ? カズマ! カズマどこ!?」
真っ暗な世界が明ける。
「日食?」
町の中だ。明らかに日本のものではない石造りの建物。これだけなら、神戸や横浜の外国人居留地区とかの可能性もあるかも。
町を歩く人々は外国人ばかりで、服装も普通のTシャツやワイシャツじゃない。時代がかった服だ。映画のセットの中にまちがって入り込んでしまったような……
「ママ……」
「ちょっと待って、考えるから」
不安そうな娘の手をしっかり握る。
どこから夢? 夫はどうしたのだろうか?
頬をつねっても目覚めない。
道行く人々の中には突然叫びだした由香里に不思議そうな目を向ける者もいたが、彼らは声もかけずに通り過ぎていく。
飛行機に乗った覚えも、船に乗った覚えもない。
なぜ海外にいるのかわからないが、娘の手はしっかり握っていなければならない。
(大使館って英語でなんて言ったっけ?)
こちらを興味深げに見つめていた男に由香里は目を向けた。
「あの、交番どこだか分かりますか? ウェア イズ ポリスステーション?」
「君、カズマを探してるの?」
心もとない英語で尋ねると思った以上に流暢な日本語が返って来た。
◇
声をかけた男に連れられて大通りから一本奥の道に入った。
知り合ったばかりで親しげに手をつかんで案内しようとする男に不快感を覚えながら、「いえ、離れずに付いていきますので」と断り、男の後をぴったりくっついて行く。
道すがら夫とどこで出会ったか、ここはどこか尋ねても「うーん少し前かな」「テチスの首都ザハールだ」と要領を得ない。 テチスもザハールも記憶に無い。
一気に人気がなくなった。ところどころ立っている女は服も化粧もけばい。
「ここって……夫はこんなところにいないと思いますけれど……」
濃い化粧をした女が店の前で客引きしている。
妻子に心配をかけといて、こんなところに来てたら、首を締めなければならない。
「この中で待っているよ。ささ、中に入って」
「ちょっと待って。私たちはここで待っていますので、夫を呼んでくれますか?」
由香里が娘を後ろに庇いながら警戒心をあらわにすると、男はそれまでの笑顔をがらりと変えた。
「良いから、さっさと中に入れ! 黒髪なんて珍しいから、旦那が見つからなくても、娘を食わせて
「助けて!! け、警察に電話して!! コール ポリス!! 」
髪を掴まれて大声で叫ぶ。
だが、周りの人は目を逸らして、警察に電話する気配さえ無い。
「私、とうの昔に三十超えてるし、生活にも困っていないんですけれどっ! 誰か!!」
「きれいでいい匂いの髪だな。なに、顔もきれいに化粧すれば、十分二十歳に見える」
(一番安いシャンプー使っているんですが……若く見えるって言われても全然嬉しくないから)
男の短い(ついでに少々薄い)髪をむしり取る勢いで引っ張る。敵の髪を五本以上むしり取れたが。
「娘がどうなってもいいのか」
余計に強く引っ張り返された上、由香里のズボンにくっついていた娘が、店の中から新たに現れた別の男に引っぺがされた。
「ちょっと離してっ!! 言うこと聞くから!」
娘だけは、絶対傷つけさせない。
「人攫いは感心せぬな」
真っ白な……軍服のような制服を着た金髪碧眼の若い男性が立っていた。
(洗濯大変そう……じゃなくって、もしかしてこの人警官か何か?)
由香里は一筋の光にすがった。
「たっ、助けて!」
「こいつはうちの商品だ。営業の許可は貰っている」
「と言っているが、君達は、ここに売られてきたのか?」
制服の男の問いかけに由香里はぶんぶんと首を振る。
「嘘付くんじゃない」
由香里に殴りかかろうとする手を制服の男が遮った。
「暴力はいけない。双方の言い分を聞こう」
不敵な笑顔。でも、その瞳の奥は強い意志がみなぎっている。
「私は中央軍白猫騎士団第13番警邏隊長 クラウス・メルケーだ。抜き打ち検査を実施する権限くらいはあるが」
彼は白猫の絵が入ったバッジみたいなものを取り出す。
それが突き出された瞬間、由香里の髪を引っつかんでいた男は目をかっぴらげ、店の前で客引きしていた女が、「ガサだよ」と怒鳴って、逃げる。
「ハクビョウって」
「ねずみ取りの騎士団です」
「わっ!?」
バスケットを提げた砂色の地味な服を着た女が由香里の背後からいきなり声をかけてきた。頭の赤い実と黄花の柄のスカーフだけがやけに印象的だ。
息を呑んだ店の男は、すぐへらりと笑い、空いている手で、懐から巾着袋を取り出す。
「旦那、見逃してくだせい」
「と言ってもこちらも仕事だしな。今の『見逃してくだせい』ということは、規約に違反するやましいことがあったということか。ああ、そもそもこれは贈賄か」
隊長さんの声は惚けた声だが、店の男を見る瞳は鋭さを増す。
「はい。若様」
『若様』の手から、店の男を受け取ったバスケットの女は男の腕を容赦なくねじりあげた。
「別嬪紹介しますから~、っていたたた」
「いや、俺、凡顔で十分」
「凡顔紹介しますから~」
「さっさと連れて行け。ああ、他の人は仕事を続けてくれ。他、騙されてここにつれて来られたという人は、さっきの女が戻ってくるので話を聞かせてくれるか? 待遇の改善要求があればそれも言ってくれ」
若様は往生際の悪い男を呆れた顔で見送って、一つため息を付くと、騒然となっている店の従業員を鎮めた。
その横顔を眺め由香里は考える。
正義のヒーロー顔だが、信じるべきなのだろうか。
大人しく従ったほうが身のためだろうか。それとも今のうちに逃げようか。
でも、当てが無い。
山崎由香里……山崎和馬の妻。山崎心愛の母。