高校生神王の眷属(3)
「なっ!?」
突然の申し出に、真希凪は驚きの声をあげる。
「どういうことだ?」
「そのままの意味よ。あたしはいまから、左手の防御を解く。そのかわりに真希凪、あんたを左手で、地上まで下ろす」
「……おまえはどうする」
「あたしはここに残るわ。知っているでしょう? あたしは手の支柱だから、自分を掴むことはできても、自分を持ち上げることはできない。せいぜいここで粘って、こいつを撃退するわ。……両手が使えるようになれば、たぶん、いけると思うし」
「でも、ここからは逃げられないんだろ?」
だとすれば、生徒が来たときに困ることになるのではないだろうか。
「大きな音がしたから来てみましたっていえば、大丈夫だと思う。それくらいの信用度はあると思うし」
「…………」
真希凪の沈黙を是ととったのだろう、
「いい? それじゃああたしは、いまから右手でこいつを力いっぱい払いのけるわ。それを、合図にするわよ」
「……やっぱり、だめだ」
静かに、しかし確固たる意思をにじませて、真希凪はつぶやく。
「え?」
「そんなのだめだ! おまえをひとり残して、先に行けるわけねーだろ!」
真希凪の叫びに、恋子は思わず目を見張った。その頬が、さっと桜色に染まった。
「そ、それって……?」
「この穴だけでもやばいっていうのに、そこにおまえもいたら、エミステラに怒られるっていってるんだよ! 朝も怒らせちまったのに、このままだと絶対にヤバい!」
「……へ?」
「そうだ! 持ち上げることはだめでも、下がっていくってのはどうだ? 二本の手を使って、壁を伝って降りていけばいい! そうだ、そのあいだは仕方ないけど、俺はおまえに掴まらせてもらって……」
「いや」
「……へ?」
思わぬ拒絶に、真希凪はキョトンとした顔をする。
恋子は畳み掛けるように、
「いやよ、なにいってるの。べつにあんたが怒られるだけなんでしょ? あーあ、心配して損しちゃった。それだけで済むなら大丈夫よね。あたしはただ、音を聞いて屋上にきたらあんたがいたって言えばいいだけだし」
「お、おい、恋子、さっきまでの意気込みはどうした?」
「あんたがどうにかしたんでしょ!?」
「なんでだよ、俺はただ、最善の方法をだな――っておい、恋子、まえ!」
同時だった。
真希凪が戸惑いの声をあげるのと、天界獣がそれまで自身を押しつけていた右手を振り払い、立ち上がったのと、そして――、
「だからいい加減にしなさいよ、このホッキョクグマもどき!」
恋子が守りに使っていた左手を広げ、思いきり天界獣にぶつけたのは。
巨大な手に平手打ちされた天界獣は、ぐんと後方に投げ出される。
「――って……え?」
それにともないふわりと浮きあがる、恋子の体躯。
「なんだ!?」
宙に投げ出された天界獣は、あろうことか、その両腕で恋子の左手――もちろん《神の見えざる手》のだ――を掴んでいたのだ。
すると、どうなるか。
答えは簡単だ。恋子の体は左手に引っ張られ、そのまま、天界獣の巨体が破った金網のフェンスの穴を通り抜け――空中に誘われた。
「きゃああああああああっ!?」
「恋子!」
眷属転送を使おうとするも、真希凪はすんでのところで思いとどまる。
もしここで転送すれば、恋子は戻って来るだろう。しかし、天界獣はどうなる? 天界獣はいま、恋子の《神の見えざる手》を掴んでいるのだ。もし恋子を呼び出せば、天界獣も戻ってきてしまうかもしれない。そうなればまた、恋子は自分だけが残るなどというかもしれない。
「それに」
間に合わなかったら、どうするのだ。
真希凪の背筋に走ったヒヤリとした感覚は、その脳内に嫌な記憶を蘇らせた。
「俺はもう、おまえを見捨てたりしねえええええっ!」
それを振り切るかのように真希凪は咄嗟に屋上の縁に足を掛け、いまにも天界獣もろとも地上に落ちようとする恋子に向けて、跳んだ――が、届かない。
眼下には校庭が、全身の毛が逆立つほどに小さく広がっていた。
「真希凪!」
涙目になりつつも、恋子は空いた左手を伸ばす。
「と……っ」
真希凪は足元に現れたものを力強く踏みつけ、右手をあらんかぎりに伸ばし、跳んだ。
「どけええええええっ!」
その叫びが届いたのか、右手になにやら暖かいものが触れる。真希凪はそれを決して離さぬよう、力強く握る。
「――なっ!? ま、真希凪、あんた、それ――」
「話はあとだ!」
真希凪は吠える。
体はすでに無重力状態から一転、加速度的に落下をはじめている。地上に着くまで、あと何秒あるだろうか。真希凪にはわからなかった。
「恋子! おまえの両手で天界獣を、俺たちごと包み込め! ぺしゃんこになりたくなかったらな!」
「~~~っ!」
恋子はなにやらいいたげな様子だったが、いまが一刻を争う状況であることを優先したのだろう、一度神意を解除し、再度、
「《神の見えざる手》!」
天界獣と真希凪と恋子自身を、両手で包み込むようにした。
真希凪も必死だった――振り落とされないよう、恋子の体に空いた腕を回す。
「そのまま天界獣を下に、地面に着地しろおおおおおおおおおおっ!」
「それは落下の間違いじゃなくてええええええええっ!?」
視界の隅で見慣れた校舎が、すさまじい速度でうしろに流れていく――そして、衝撃。
「きゃあっ!」
「うぐっ!」
恋子の両手と天界獣が緩衝材かわりになったものの、それでもすべての衝撃が吸収されるわけではない。ふたりは宙に放り出され、そのまま校舎横の雑木林に転がり込む。
「いてて……」
地面に這いつくばった状態から軽く上体を起こし、真希凪は薄靄がかかったような頭を振りながら、あたりを見渡す。落下の衝撃をもろに受けた天界獣が、横に伸びていた。どうやら気絶しているようだ。
「手間とらせやがって……おい恋子、大丈夫か?」
返事はなかった。真希凪の顔から、さっと血の気が引く。
「恋子!?」
立ちあがろうと、地面についた両手に力を入れたとき、真希凪は気づいた。
「……って、これ」
その手がついていた――いや、掴んでいたものが、地面ではないことに。
地面が暖かいのはまだわかる。
しかしこれは――暖かいうえに、柔らかかった。
「……よう、無事でなにより」
真希凪は自分の体のしたに仰向けで倒れていた恋子に、声をかける。その頬は赤く染まり、目には涙が浮かんでいた。それはおそらく、落下によるものではないだろう。
「真希凪、あんた……あんた」
「恋子、いや、恋子さん、こ、これはだな、その」
そう、真希凪の両手は恋子の胸を、力強く握りしめていたのだ。
手のひらに伝わる感覚とは裏腹に、真希凪の表情はさっと青ざめる。
「いや、これは、なにかの間違い……そう、落下時の衝撃でたまたま……だって俺は最初、おまえの手を……って、まさか、あれ……おまえの……?」
混乱する真希凪の頭のなかで、いくつかのピースがひとつに結ばれていく。
自分が恋子を追って空中に飛び出したときに、掴んだあれは、まさか。
「……でもいいから」
「え?」
「なんでもいいから、さっさとそこをどけええええええええっ!」
真希凪は本日二回目、ふたたび青空と対面することになった。
青空に抱かれながら、そのまま落ちておくのもやぶさかではなかったと、思うのだった。