高校生神王の眷属(2)
「真希凪!」
「おわっ!?」
刹那、それまで横になっていたはずの恋子が山猫のように真希凪に飛び掛かり、そのまま屋上に押し倒した。背中に受けた強い衝撃に顔をしかめつつ、
「なんだよ恋子!?」
「なにあんた、本当に鈍くなったわけ!?」
「は!?」
「殺気よ、強い殺気を感じるわ!」
「!」
殺気――感じるだろうか。わからない。真希凪は体勢を立て直し、周囲を確認するも、あたりに人影はない。ふたりがいまいるところは、真希凪が行くまでは閉鎖されていた、学校の屋上なのだ。
「おい、恋子」
「気のせいじゃないわよ」
間髪を入れず恋子はいう。
「まだなにもいってないだろ」
「でも、これからいおうとしたでしょ」
「いや、おまえの勘のよさは信頼してるよ。そうじゃない――神意を(しんい)使え」
真希凪の言葉に、恋子は目を丸くした。
「あら、あんたはもっと慎重に振る舞うのかと思ったわ。……心当りが?」
「まさか。……けど、エミステラからは最初に、それこそ耳に胼胝ができるほど言われたよ――暗殺に気をつけろ、ってな」
「笑えない冗談ね」
「まったくだ」
肩をすくめて、恋子はゆっくりと瞳を閉じる。精神を集中させているのだ。黙っていれば外見は悪くないのに、なんて場違いかもしれないことを真希凪は思う。
「……神意の使用許可の条件は?」
「決してだれにもみられるな、だ」
恋子の薄い唇が、かすかにめくれあがる。
「なら、問題なしね」
と、彼女はそういって。
「神意――」
両手をかざす。
青白い燐光が、恋子の全身を包んだ。
「《神の見えざる手》」
瞬間、一陣の風が、恋子を中心にして広がる。
それは花のように展開されたかと思うと、ふたたび収斂の兆しを見せる。真希凪は、目に見えない空気の塊が、自らを覆っている感覚を覚えた。
「……久しぶりだな、この感覚は」
正確にはそれは空気の塊ではなく、目に見えない手である。
恋子の《神の見えざる手》は、実にシンプルな能力の神意であるといえよう。
不可視の手を操る、それだけの力。
しかし、それがゆえ使える場面は幅広い。恋子の直観的な閃きと組み合わされることで、様々な応用が利き、真希凪が窮地を救われたことも少なくない。
「二本目」
ふたたび、風が吹いた。
しかし今度のそれは、真希凪を包むわけではなく、かわりにすさまじい風音を真希凪は聞いた。大きな丸太を思い切り横に振ったらするであろう、風切り音が幾重にも重なった音が、轟と鳴る。
恋子が、出現させた《神の見えざる手》を、真横に薙いだのだ。
音が止んだかわりに、恋子の舌打ちがひとつ聞こえる。どうやら空振りに終わったようだ。
「もう一回!」
ふたたび、今度は真希凪の頭のうえで、空が唸り声をあげる。
太陽から地表へと真っ直ぐに伸びる陽光が、カチリと弾けた。
「恋子、そこにいるぞ!」
「わかってるわよ……これでっ!」
恋子は空に向かって手のひらを突きあげる。あとを追うかのように、風が湧いた。
そして。
「――捕まえた」
恋子の双眸が、なにもない宙を睨んでいた。
恋子の右手が、なにもない宙を掴んでいた。
「……なんだ?」
目を凝らせば、そこにはおぼろげながら、なにかの輪郭が見てとれる。
「なにかしら……。ひとっていうより、動物みたいな……熊?」
「熊? ……もしかして、そいつ」
見えない敵の正体について、真希凪はひとつ、思い当たる節があった。
それは朝、エミステラがいっていた――、
「脱走した天界獣?」
「なに、天界……きゃあっ!?」
「恋子!」
恋子の短い叫びとともに空間を裂くようにして現れたのは、真っ白な体毛に身を包んだ、真希凪の倍ほどの体躯を持つ獣だった。
間違いない、天界獣だ。真希凪は判断する。
これまでに見たことのない容貌と、姿を消すことができる能力。そしてなにより、その背に生える純白の翼が、それが天界獣であることを示していた。
天界獣はそのまま、恋子の見えざる手を破った腕を鞭のごとくしならせ、真希凪たちに向かって振りおろす。
「くっ!」
恋子の左手によって守られた真希凪に、天界獣の攻撃は届かない。しかし、天界獣はすでに一度、恋子の右手を破っている。左手も、長くは持たないだろう。
鋭い大爪を振るっても肉を裂く感覚がないことに天界獣は一瞬、訝しむ様子を見せたが、すぐに猛攻を再開する。
「……まずいな」
真希凪がつぶやくと、恋子は歯を食いしばりながら、
「なにがよ、あたしの手はそんなにやわじゃないわ。見てなさいよ、こんなやつ、いますぐ叩きのめしてやるんだから」
「それは頼もしいし、もちろん頼りにしてるんだけどな。けど、まずいのは、学校の屋上に天界獣がいるってことだ」
一〇〇日ゲームが秘匿されている理由。神意の使用条件――見られてはならないという条件――が定められている理由。
それはひとえに、天界の存在を隠匿しなければならないことにほかならない。
「でも、これは天界から脱走してきたんじゃないの? なら――」
「たしかにそうだ。もしほかの生徒に見られても、それで俺が直接責められるということはないだろうな。見たほうもすぐに忘れてくれれば、それでいい」
真希凪は早口で捲くし立てる。
「けど、もし下の階のやつらがふと空を見上げたときに化け物がいたら、果たしてそれだけで終わると思うか?」
「!」
恋子は咄嗟に、屋上の扉へと目を向ける。
「そう、もしかしたらいまにも、野次馬根性の強い生徒が、その階段をあがってくるかもしれない」
そこで天界獣と鉢合わせしたら、どうなるのか。天界獣が逃げることはないだろう。だとすれば、天界獣の行動はふたつにひとつだ。
すなわち、真希凪たちに襲いかかるか、天界獣をまえに呆けた生徒に襲い掛かるかの、どちらかである。
そのとき、真希凪たちはどんな行動をとっても――自分たちの身を守っても、名も知らぬ生徒の身を守っても――恋子の神意がばれてしまう。
「……だとすれば、せめてあんただけでも、なんとかしないとね」
恋子はそう言葉を漏らすと、
「――このっ! 鬱陶しいわね、ほんと!」
これまでのお返しとばかりに、右手を振りおろす。
正面の真希凪に気をとられていた天界獣は頭上から落とされる右手に気づかず、そのまま叩き伏せられた――重い衝撃があたりに響く。屋上の床に、ピシリと亀裂が走った。
「お、おい、恋子! だから下手に痕跡を残すなって!」
「うるさい! ……真希凪、あたしがこいつを押さえてるあいだに、あんたは逃げて」