高校生神王の眷属
昼休み、真希凪は廊下を走っていた。
全力疾走ではない。それでは、注目を集めてしまう。なるべく人目につかないように、しかし、できるかぎり急いで――そのふたつの両立に苦心しつつ、真希凪は廊下の端まで辿り着く。そして周囲に人影がないことを確認すると、薄暗い階段を今度こそ全速力で駆けあがった。
屋上への扉のドアノブに手を掛けるも、開かない。鍵がかかっているようだ。しかしそれを無視して、ガタガタと揺らすと、カチリと音がする。再度力を込めると、一転、スムーズに扉は開いた。昼休み、屋上で昼食を食べていた真希凪しか知らない、裏技である。
開け放った扉の向こうには、一面に青空が広がっていた。
いつもはその奥に続く宇宙へと思いを馳せる真希凪であったが、しかしいまは、そんなものには目もくれない。すぐさまポケットを漁り、一片のメモ用紙を取り出した。それは、真希凪が席を外した隙に机のなかに入れられていた、彼女からの指令。
真希凪はそこに書かれた文面をもう一度、読みあげる。
「あんたが教室を出てから二分後に転送すること――ってもう二分、とっくに経ってるじゃねーか!」
マズい。このままでは彼女を、怒らせることになる。
真希凪は慌てて手をかざし、意識を集中させた。
「――《眷属転送》」
瞬間、屋上に展開される、金色の紋章。
まばゆい光が閃くと、それはあたかも扉のように、ひとりの少女を出現させた。ただし、その少女は腰をかがませ、スカートのなかに両の手を突っ込んでいた――そう、それは、ちょうど用を足そうとしているときに、ひとがとる体勢であった。
「……え?」
否が応でも、視線は白い素肌に引き寄せられる。
立体映像とはちがう、しっとりとした質感をもつ、本物の――太もも。
「な、な、な」
少女の顔が真っ赤に染まっていく。それは怒りによるものか、はたまた羞恥によるものか。
どちらにせよ、真希凪は自分がやらかしてしまったことに気がついた。慌てて両手をあげ――いうまでもなく、無抵抗をあらわすジェスチャーである――弁明する。
「れ、恋子!? ち、ちがうんだ、こ、これは――」
だが、それが最後までなされることはなかった。
「一〇〇万回死んで来い!」
大神高校のアイドルの拳が、真希凪の頬に炸裂する。
そして真希凪は改めて、視界いっぱいに広がる空と、対面したのであった。
空は突き抜けるほど、青かった。
「だーかーらー、あんたが二分以内に転送しないのがいけないんでしょ!?」
「そもそも教室を出てからここに来るのに、二分じゃ間に合わないんだっつーの!」
太陽が燦々と光を落とす屋上で、真希凪は、かの水星恋子と顔を突き合わせて声を荒げていた。その容姿は今朝、正門まえで愛想を振り撒いていた恋子にほかならなかったが、その表情はいまや、鬼気迫る怒気で歪んでいた。
「だいたいおまえこそ、なんで転送されるまえに、あんな格好してたんだよ!?」
「う、うるさいうるさい! 人目につかないようにトイレにいたら、なんだかもよおしてきちゃったのよ! ……って、こんなこと女の子に言わせるな! バカ真希凪!」
「……それって俺、悪くないよな?」
たしかに、あくまでも普通に考えれば、真希凪は恋子の言うとおりに行動しただけだ。真希凪は悪くないように思える。しかし、恋子が考えるのならば、話は別だった。
「あんたが悪いに決まってるでしょうが!」
「なんでだよ!?」
「あたしがしてることくらい、きちんと把握してなさいよ! あんた、神王なんでしょ!?」
「そんなこと言われても……だって俺、神王としての力は封印されてるわけだし」
それに、と真希凪は続ける。
「……恋子、さっきから自分が言ってること、わかってるのか?」
「は? なにが」
深い鳶色の瞳に覗き込まれ、真希凪は気圧されつつも、答える。
「いや、だから……おまえがしてることを把握しとけって……それはそれで、困るんじゃないのか? その……用を足しているところを把握されても、困るだろ?」
「そ、そんなの、あ――」
「あ?」
「当たり前だ、バカ!」
「あ痛っ!?」
口より先に手が出る人間というのは一定数いるが、恋子は口も手も早いから困る。
「なに考えてんのよ、変態! 破廉恥! ていうかあんた、ひょっとしてあたしのそういう場面を覗き見てるんじゃないでしょうね!」
「お、おい、やめろ、掴みかかるな! 見てるわけねーだろ、さっきも言ったように、能力は制限されてるんだよ!」
「じゃあなに、制限されてなかったら見るっていうの!? 信じられない!」
「み、見るわけねーだろ! 興味ねーよ!」
「うー、失礼なこと言うな!」
「どっちだよ!?」
恋子のことだ。さらになにか追撃が来るのかと真希凪は身構えるが、意外にも恋子はふと動きを止めて、不思議そうに眉をひそめた。
「……ちょっと待ってよ」
「? なんだよ」
「あんた、能力は封印されてるんじゃないの?」
「そうだけど」
「じゃあなら、なんで眷属転送は使えるの? それも神王としての力でしょ? おかしくない?」
恋子は首をかしげる。一見、理知的に映る恋子の少女的な仕草はファンにはたまらないものだろうが、彼女の正体を知っている真希凪は、ただ頭を抱えるだけだった。
「……いまさらその疑問が出てくるのかよ」
「しょ、しょうがないでしょ!? あたしはあんたみたいにエミステラさんに教えてもらってるわけじゃないんだから! だいたいあんたなんて、そんな疑問も抱かないままエミステラさんのいうことを覚えてるだけのくせに……もっとも、覚えているだけでも快挙だけどね」
「し、失礼な!?」
失礼だった。
失礼だったが、それは事実、図星だった。
気まずさを誤魔化すため、真希凪はわざとらしく咳払いをひとつして、
「いいか、一度しかいわないからな。よく聞けよ」
「ふん、もったいぶっちゃって。……いいわ、聞いてあげる」
「ったく、口の減らない……。えー、そう、眷属転送は、いうなれば緊急用の手段――眷属を転送するための――なわけだ。膨大な、それこそ世界を支配できる力を持つ神王は、それだけ能力行使のための制限も大きい。そこで出てくるのが、《眷属》だ」
「つまり、あたしね」
「そうだ」
ほかにだれがいる、という言葉を飲み込み、真希凪は首肯する。
「眷属として選ばれたものは、神意を、神王の――つまり俺の許可により行使することができる。だから、神王の身に緊急事態が起こったときに、比較的自由に活動できる眷属を召喚する手段なわけだよ、眷属転送は」
「ふうん。ようするに眷属は、奴隷みたいなものってことね……って、だれが奴隷よ!?」
「知らねーよ! おまえが自分で言ったんだろ!?」
なんとも理不尽な逆切れだった。
「はあ、どうしてあたしは、こんな冴えないやつの眷属になっちゃったのかしら」
「……しょうがないだろ、最後の決戦で、おまえがやられちまったんだから」
「そうなのよねえ。あーあ。あいつを止めるためとは言え、あたしが犠牲になる必要はなかったんじゃないかしらって思うのよね」
「悪いな、俺の反応が鈍かったから」
「……本当にその通りだわ」
恋子はそうつぶやくと、そのまま寝っ転がった。彼女の自慢の髪が、決して綺麗とは言えない屋上に広がったが、恋子は気にも留めない。
大神高校の生徒たちには恋子がいわゆる育ちのいいお嬢様かのように思われている節があるが、そんなことはない。たしかにお嬢様ではあるのだが、このお嬢様は幾分――いや、多分に動物的だということを、真希凪は知っていた。
水星恋子は、いまもむかしも、たしかに大神高校のアイドルである。
それはかわらない。
しかし、真希凪の恋子へ抱く印象は、いまとむかしでは大違いだった――それが良い方向へ転がったのかどうか、真希凪には判断がつかなかったが。
真希凪と恋子は、一〇〇日ゲームにおいて、いわば共同戦線を張った仲である。
初めは敵対関係であったが、同じ高校であることをきっかけに、突出しがちな恋子と慎重派の真希凪の性格がピッタリと合致し、最後の決戦までともに行動をしていた。
一〇〇日ゲームの勝利後、エミステラにひとりの眷属を選ぶよう言われたとき、恋子の顔が真っ先に思い浮かんだのも、当然といえよう。
「それで? おまえはなんで、わざわざ昼休みに俺を呼んだんだ?」
「……なにいってるの? あんたがあたしを呼んだんじゃない」
「――は?」
なにかがおかしいと、真希凪が感じた――そのときだった。