調教師の疑問
翌朝。
「……なに?」
ユミルは、なにやら風が唸る音で目を覚ました。気のせいではない。もう一度、聞こえる。なにか巨大なものが空を横切るような、そんな音だった。
「ねえ、恋子。この音はいったい……って」
となりで寝ていたはずの恋子の姿はなかった。布団はそれまでひとが入っていた形に盛り上がっていて、手をあててみればまだほのかに温もりが感じられた。ここを出ていってから、まだそんなに時間は経っていないということだ。
いったいどうしたというのだろう。
そんなユミルの気持ちを煽るかのように、再度、風が湧く音が聞こえた。
「なに、なんなの?」
ユミルは身だしなみを整えるのもほどほどに、音の正体を確かめるべく、外に出る。
扉を開けると容赦ない太陽の照りつけがユミルに降り注ぎ、思わず目を細める――が、すぐにそれは、巨大な影に遮られた。
「なっ――」
その正体を見極めるまえに、影は左から右へと流れていき、ユミルはふたたび太陽と対面する。なにかはわからないが、どうやらあれが音の正体のようだった。
「ユミルさん、おはようございます」
「エミステラさん」
エミステラも早々に起きていたようだ。そしてその奥には、恋子の姿もあった。
「……あれは?」
「わかりませんか?」
エミステラらしくない遠回しな訊き方だと、ユミルは思った。それだけではない、その表情はなにやら安らかというか、安堵感にあふれていた。
「ほら、もう一度、きますよ」
エミステラが指をさす空を見ると、そこには太陽を背景に影となった黒いかたまりがあった。影になっているため細部はわからないが、翼の生えた巨大な動物のようだった。
「まさか……天界獣?」
答えるかわりに、エミステラは微笑んだ。
そして黒い影はそれから周遊することしばらく、ようやく速度を落とし、ユミルたちのいるところへと高度を落とす。
間違いない、やはり天界獣だった。しかもあれは――暴れん坊の、ライオウ。
「けど、どうして?」
どうしてライオウがまるでユミルたちに見せつけるかのように、誇るかのように、空を飛んでいる? どうしてライオウは、示し合わせたかのようにユミルたちのいるところに降りてくる? そしてどうして――、
「嘘」
その背にひとが乗っている?
そんなユミルの疑問をよそに、背中に乗る人物がライオウの翼のあいだから顔を覗かせる。逆光で顔は見えないが、まちがいない。
「どうだ、見てたか? エミステラ、恋子!」
真希凪だった。
戸惑うユミルをよそに、エミステラは答える。
「素晴らしいです、真希凪様。……ユミルさんも、驚いています」
「おお、ユミル! 見ろ、俺はやった、俺はやったぞ!」
「す――」
込みあげる感覚の正体が、ユミルにはわからなかった。しかしその感情は、ユミルの体をまたたくまに満たし、それだけでは足らず、感情の発露としてあふれでる。
「すごい、すごいよ真希凪! どうやってたった一日――ううん、夜中のあいだに天界獣と――しかもライオウと、心を通じ合わせることができたの!?」
「そんなん決まってるだろ、それは俺が、神王だからだ!」
「きゃー! 真希凪、カッコいいー!」
「はは、もっとだ! もっと俺を崇め、称え、敬うがいい! ……とう!」
と、好き放題いいながら、真希凪は天界獣の背から飛び降り、着地した。
「……って、真希凪、それ」
「ん?」
同じ目線に――もちろんその高さは違うが――立ってみて、はじめて気づいた。
「……あんた、それ」
恋子も驚いている――真希凪の、昨日以上にボロボロな、その顔に。
「あ……ああ、これか。これはな、うん、そうだな、なんていうか……転んだ!」
「いくらバカ真希凪でも、それは無理があるでしょ」
「くっ」
「……まさか、天界獣と殴りあって服従させたとかいわないわよね?」
「うぐぐっ」
「え、本当? 嘘でしょ?」
思わずユミルは口を挟む。天界獣と、ライオウと、殴りあった? そんな、まさか。しかしたしかに、ライオウの体にも、包帯が巻かれていない怪我ができている。
「嘘だと思いますでしょう、ユミルさん。しかし驚くことに、このバ……真希凪様は、その嘘のようなことを現実にしたのです」
そう口にするエミステラは、いまにも笑いだしそうだった。こんな表情をするエミステラをみるのは、ユミルははじめてだった。
「妙にカッコいい言い回しにしてるけど、たんにバカにしてるだろ、それ」
「ええ、そうですね」
「せめて否定しようぜ!?」
「…………」
ふと、エミステラが押し黙った様子の恋子に気づき、声を掛ける。
「どうしたのですか、恋子さん?」
「……へ? ううん、べつに。ただ、よくこんな大きな天界獣と殴りあうことができたなって。……本当に、バカなんだなって」
「おまえさ、そこは普通、俺を労わるだろ?」
「なんですか、真希凪様。真希凪様は労わって欲しいがために、天界獣と殴りあったのですか?」
「そ、そんなわけないだろ。ただ、あれだよ――裏切れないな、って、思って」
と、真希凪がユミルを一瞥するが、ユミルにその意味はわからない。
「……本当、バカね」
そうつぶやく恋子の真意も、ユミルにはわからなかった。
「じゃーねー、真希凪! また遊びに来てねー!」
と、真希凪たちを満面の笑みで見送ったユミルは、ひとりになると一転、物憂げな表情を浮かべた。家に戻ると、そこにはがらんとした空間が広がっている。机のうえに並べられた、四つのカップがそれをいっそう際立たせた。
「はあ……、行っちゃった」
ユミルは席につき、カップのなかに視線を落とす。明らかに沈んでいる自分の表情が、底に残ったハーブティーに揺れていた。
「二日間だけだったけど、楽しかったな」
天界獣は、ひとを好まない。であるから、ここら一帯には調教師であるユミルのみが住んでおり、ユミルがひとと触れ合うのは、日帰りで自宅に帰り両親とあうときと、今回のように来客がくるときだけだ。
といっても後者は天界貴族が観光がてら来るようなものであり、そのときのユミルは調教師としてのユミルだ。天界獣について説明し、実際に近づいて観察する。もちろんそのときは笛を用いて天界獣をいわば酩酊状態にするわけだが、それは天界獣にとっては負担であり、ユミルも気分のいいものではない。
しかし、今回はそんなことはなかった。
もちろん、今回の来客は天界貴族ではなく神王であるわけだから、もとよりちがうと知っていたわけだが――それでも、そのちがいを上回るくらいには、ちがっていた。
先代神王を、ユミルがまだ調教師でないときに直接一度、見たことがある。
あまり覚えていないが、たしかユミルは幼いなりに、畏敬、もしくは畏怖の念を覚えたはずだ。敬意は一歩見方を変えれば、恐怖になるということを、ユミルは幼いながら理解した。
だが、真希凪はちがっていた。
「神王様なのに気さくだし、恋子さんに怒られてるし、エミステラさんにも怒られてるし、典型獣の選定にも一度失敗したし、天界獣と生身で喧嘩して、従わせたし……」
つまるところ、無茶苦茶であって。
「けど、やっぱり……楽しかった」
そう、楽しかった。これまでにあったことのあるどんな天界人よりも、真希凪は気さくで、自分の心にスルリと入ってきた。なんでだろう。真希凪は、人間なのに。それとも、神王だから?
「ううん。真希凪は、神王じゃなかったの。……真希凪は、真希凪だった」
一方で、拭いきれぬ引っ掛かりが、ひとつだけ。
「でも……」
ユミルはふと、その疑問を口にする。
「真希凪にはどうして、神王としての器がないんだろう?」




