高校生神王の決意
そのあとのことを、真希凪はよく覚えていなかった。
覚えていることは、よりいっそう近づいた太陽を見て、ふとイカロスの神話――蝋で作った羽で太陽に近づき過ぎたイカロスは羽が溶け、地上に落下してしまったという――が思いついたことくらいだ。
いや、覚えていないというよりも、忘れたかったのだろう。
心が通じ合っていない天界獣の背に無理に乗ろうとしたことや、それがゆえ天界獣の怒りを買ってしまったこと、そして、それはすなわち自分に神王としての器がないことを示すに他ならないということを。
「あのあと、大変だったんだから」
わざとなんでもないことかのように、恋子はいう。
知らない天井だった。真希凪は布団に横たわっていた。左腕はギプスのようなもので吊られている。右手で頬を撫でてみると、鋭い痛みが走った。
「天界獣がそれこそキレちゃって……、あたしの神意とエミステラさんの剣技――あれは絶対見ておくべきだったわ、すごかったんだから――であいつを押さえ込んでるあいだに、ユミルが笛でなだめて……って感じね」
「そうか」
「で、そしたら次はあんたよ。やっぱりあたしの神意で――我ながら便利な能力よね、あ、エミステラさんがいうには天界であたしが神意を使う場合は神王……あんたの許可はいらないんだって――ユミルの家に運ばせてもらったの」
「……そうか」
「で、でも、怪我はそんなに大したことないって、ユミルのお父さんがいってたわ。天界獣も羽ばたいただけだし、どちらかといえば落下による怪我くらいのものだって」
「――恋子」
恋子の体がピクリと震えた。
「な、なに?」
「……大丈夫だ、ありがとう」
恋子はなにかをいおうとするも、言葉は出てこない。口をパクパクとさせて、そして、噤んだ。なにをいおうとしたのだろう。慰めだろうか、それとも罵倒だろうか。真希凪としては罵倒のほうがありがたかったけれど、恋子はこういうときに罵倒できるような人間ではない。
「真希凪様、大丈夫ですか」
部屋に掛けられたカーテンが、鋭く引かれた。
「エミステラ……。ああ、大丈夫だ……悪い」
「悪い? なにが悪いのですか」
口調こそいままでとかわらなかったものの、エミステラの言葉にはあきらかに剣呑さがにじんでいた。
「いや、その……選定の儀、失敗しちゃって」
「なるほど。そういうことであれば、謝るべきはわたくしではなくユミルさんです。ユミルさんは選定の儀の失敗が自分にあったのではないかと、先ほどからふさぎ込んでいます」
「ユミルが? ……なんで」
「彼女なりに思うところがあるのでしょう。……もし大丈夫ならば、行ってさしあげたらどうでしょうか」
「おう、そうだな……いててっ」
痛みをこらえベッドから起き上がる。木製の骨組みに薄い敷布団が掛けられただけの、簡素なベッドだった。サイズが小さく、真希凪の体がはみ出してしまっている。おそらく、ユミルのものなのだろう。
部屋の扉を開けると、そこはリビングのようだ。といっても、これもたいそうなものではなかった。粗末とはいわないが、物の量が絶対的に少ない。
そこではじめて、真希凪はユミルがここにひとりで暮らしていることに気づいた。
「……ユミル?」
家を出ると、真希凪はすぐにユミルの姿をみつけることができた。ユミルは黒い海のような夜の草原に座り込み、天界獣の群れをじっと見つめている。
真希凪はユミルのとなりに腰をおろすと、ユミルはビクリとした様子で、
「……傷、大丈夫なの?」
「おお、全然問題なし」
「腕は?」
「これも、飾りみたいなものさ」
「そう」
よかった、とユミルはいわなかった。
夜の澄んだ風が、真希凪の頬を撫でた。天界にも夜があるんだな、と真希凪はふと思った。
「それで、どうしてユミルは元気がないんだ?」
わざと明るく、真希凪はいう。さきほどの恋子も、同じ気持ちだったのだろうか。
「べつに、ユミルは悪くないぞ? ただ俺が、ちょっとばかりカッコいいところ見せてやろうと思ってとちっただけだから、うん、ユミルは悪くない」
「でも」
「でもじゃない。ユミルは――ユミルは、よくやってくれたさ」
その言葉に、ユミルは体を固くする。
「……ちがうの」
「ちがう?」
それまで俯いていたユミルが、顔をあげて真希凪を直視した。その目じりには、涙が浮いていた。
「ちがうの! わたしは真希凪に、嘘をついたの!」
嘘。
真希凪は一瞬で今日のことを想い返すが、それらしいことは思いつかない。
「わたしは最初に、笛でみんなに『このひとたちは安全だ』って……伝えたでしょう?」
「ああ、そうだな」
たしか、それを気に天界獣の警戒心が薄れたはずだ。真希凪はユミルにそう伝えるも、やはりユミルはかぶりを振って、
「ううん……わたしが嘘をついたのは、そのあと。『真希凪は神王様なんだよ』って伝えた……ときのこと」
「ええと、たしかそれに対する返答は――」
――ううん、とくに。……そうなんだ、って。
「それが、嘘?」
「……うん」
ユミルの声は、震えていた。
「あの子たちはね……なにもいわなかったの。ただ、耳をピクリと動かしただけ――それが、わたしの嘘」
「それがユミルの嘘? というかそもそも、嘘をつく必要性が――」
あるかもしれない。
真希凪は気づいた。
ユミルの説明に、天界獣は耳をピクリと動かしただけ。それはすなわち、無視したということができる。興味がなかったということもできる。
「……俺を、かばってくれたんだな」
真希凪はいう。
「いや、かばってくれたっていういいかたは、なんかちがうか。でも、俺が傷つかないように嘘をついてくれたんだから、やっぱり、かばってくれた、でいいのかな」
そう、天界獣は真希凪が神王であるということに、興味がなかったのだ。
それはすなわち、真希凪に器がなかったということ。
真希凪に、神王としての器がなかったということ。
しかし結果的に、ユミルは真希凪を傷つけてしまうかもしれないと考え、そのことを真希凪に伝えなかったがゆえ、真希凪に怪我をさせてしまった――ユミルはそう思っているのだ。
「……ユミル」
真希凪は左手をあげると、ユミルは体を硬直させる。
「――っ……え?」
真希凪はユミルの頭に――真希凪の胸辺りある頭に――手を置いて、撫でる。
「真希凪……?」
「ユミル、おまえは強いよ」
エミステラや恋子は、ユミルが大人だといっていた。しかしいまの真希凪には、自分がついた嘘とはいえない嘘を悔やむユミルが、年相応の少女に映った。
ユミルは子供だ。
頑張って一人前の調教師に、ひとりの大人になろうとする、子供。
そして、そんなユミルにとって自分は大人であり――神王でもあるのだ。
だから、真希凪は笑う。
「大丈夫だ、俺に任せとけ」
他の誰のためでもなく、ユミルのために。
「……で、でも」
「大丈夫だっていってるだろ?」
「あいたっ……もう、なにするの」
真希凪に指で弾かれた額をさすりながら、ユミルは不満げにいう。
「ほらほら、子供はもう寝る時間だ。家に戻りな」
「真希凪は?」
「俺はもう少し起きてるよ。なんつったって、大人だからな」
「……なにをするつもり?」
「明日の準備を、少しだけやってから寝るさ」
「……大丈夫?」
「ああ、大丈夫さ。だって俺は――」
真希凪は笑いながらいう。それはまるで、自分にいいきかせるかのように。
「神王だからな」




