靴は揃えましょう
現代ものの普通の人達の話。
「ただいま―」
疲れた体に鞭打って、わが家に帰宅する。
背中にはリュック、肩には食材の入ったエコバッグ。
化粧っけのない顔にパーカーにジャージ、そしてスニーカー。
一見すると遠足っぽい格好ですが、実は立派な仕事着です。
これに、うさぎやらくまやらがついたエプロンを着れば完璧!
三坂八重子は保育士なのである。
ちなみに、私立なので公務員ではない。
よく勘違いされ、公務員っていいよね〜とか、
保育士?こどもと遊んで金もらえるって楽だよね〜
なんて言われますが、そんなことはないもんです。
きつくて、くるしくて、安い賃金の仕事だって世の中には沢山あるんですよ。
不満や黒い想いは溢れ出せばきりがないですが…
それでも続けているのは、こどもが好き(純粋なる意味で!)だからと、他の仕事をできる自信が無いからなんだろうなと思います。
辛くて、仕事行きたくなくて、針の筵で、女の職場怖い((゜Д゜ll))と嘆き悩んだ6年間。
しかし、チキンな私は辞める度胸もなく、寿退職したやる気溢れてた仲のよい同期を見送ることしかできなかった。
趣味に使うお金と休日には休める職種を確保するには働き続けてくしかなかったし。
でも、そんな職場もいまは少し楽しくなってきてる。
疲れはするが、底冷えするような絶望感や劣等感を胸に抱いて帰宅する事もない。
どうしよもなく泣けて、帰宅途中の車の中で視界不良になるほど泣いた日も、ちょっと遠くなってきた。
転機は、苦しかった6年目の最後に訪れた。
4月からの人事を見て絶句する。4才児担任になったのだ。
保育園には2・3ヶ月の赤ん坊から就学前のこどもがいる。
基本的にだいたい0・1・2・3・4・5才児クラスに分かれていて、4才児クラスというのは4〜5才になる子達がいるクラスである。
小さいクラスであるほど担任は複数に、大きくなるほど一人担任になる。
六年間複数担任の海をさ迷い、
コミュニケーションの低さと察しの悪さ、物覚えの悪さからからハブられがちの私には、
一人担任する力は皆無に思えた。
いや、私以外もバッチリ思ってたよ!影で言われてたからね!あんな能無しに…って。
それはいいとしても…
今3才児クラス担任して、就職してからずっと持ち上がりでその子達みてきた後輩が、担任外されて涙ぐんでたのは心が痛かった。
ほんと、すっごくいい子で可愛いだけにね…
しかしハゲ園長の決定は絶対で(私立だから)、私は4才児クラスの担任になった。
半年間は副主任が手伝ってくれたけど、あとは一人。
モンスターペアレンツもいたりして、てんてこ舞いで、とにかく必死で、でもそんな日々は大変でも私にとってかけがえないものだった。
5才児クラスも続けてもてた。
今まで続けて同じクラスを見たことはなくて、だから本当に嬉しかった。
その反面、このくそがき!と何度思ったことか(笑)。
それでも、この子達が荒波にもまれても前に進み、笑顔で生きられますようにと思わない日はなかった。
3月に卒園していった子達。
もう半年以上もすぎ、冬の足音も聞こえる時期になっても、いまだ可愛い教え子達への思いは変わらない。
いつか、そう…いつか必ず私の事を彼らは忘れてしまうだろう。
でも、私はずっと彼らを大好きでいる。これは確信だ。
保育園や幼稚園の先生にとって自分が卒園させた子供達は愛しく忘れがたい(よくも悪くも)とは、ベテラン先輩が言っていた。
保育士9年目は、複数担任クラスになったが、
一人担任時代にマシになったコミュニケーション能力のおかげか円滑な人間関係を手に入れ(日々神経を擦り減らしちゃう事もあるが)、会話して大爆笑する日も多い。
色々あるけど、この街が好きです!的な魔女の映画のエンディングに近い心境を手に入れた感じだ。
いつでもじゃないけどね。
色々思いを巡らせつつドアを開け、私は眉をひそめた。
玄関に散らばる運動靴達。
居間から聞こえる複数の男の達の笑い声。
「い―つ―き―」
必殺、鋼の笑顔を装備して私は声をかけた。
居間から聞こえてきていた笑い声が止まる。
「かえり。何?」
めんどくさそうな顔をして居間から弟ができてきた。
靴に消臭剤をぶちまきファブりながら、私はにっこり尋ねた。
「説明しろや、おい」
玄関が開く音が聞こえ、ただいまと疲れた声が聞こえた。
あ、やばい。
友人達に帰るよう言う前に、名前を呼ばれた。
突然の女の声に、みな押し黙る。
「樹、だれ?」
「あ―…姉ちゃん。ちょっと行ってくる」
なんとなく声を潜め、居間をでる。
にこにこ笑顔で姉が立っていた。
靴に凄いいきおいで消臭剤をまいてる。
くせーんだよ、と直接言われるよりなんか傷つく。
「説明しろや、おい」
相変わらず笑顔。
でも、目は笑ってない。
前に、目で見るだけでも、こどもをたしなめるられるスキルを手に入れた!とか姉が言ってたが本当みたいだ。
マジ怖い。
「母さん達親戚の法事で泊まりがけだって。友達呼んでいいか、って聞いたら姉ちゃんがよければって…」
「きいてねぇよ」
「すいません」
ため息ひとつついて、姉は何人いるか尋ねてきた。
俺を含めて6人だと答えると、とりあえず呼べと言われた。
友人達を渋々呼ぶと、みんなぞろぞろと出てきた。
歳の離れた姉に興味津々のようだ。
「こんばんは。」
「「こんばんは―」」
「靴直せるかな?人のお家に入るならきちんと守りましょう。いくつになりましたか?」
空気が凍った。
姉は極上スマイルである。
口調も優しい。
まるでこどもに話し掛けてるみたいに。
というか、幼児に話し掛ける言い方だ。
危険だ。
怒り心頭だ、きっと。
「そーゆ―おねーさんはいくつですか。」
へらへら笑いながら須藤が言った。
馬鹿!
背が小さくて優しげな顔してるが、腹黒毒舌装備してるんだぞ!
セブンティーンのいたいけな心折るくらい朝飯前なんだぜ。
「29だ。いいから、靴直しなさいな。」
「マジで!?うわぁ樹だいぶ歳はなれてんだな!」
のりよく気のいい須藤だが、殴りたくなった。
女に歳のこと聞くのは失礼だろ。
須藤以外は、憮然としたり、曖昧に笑いながら靴を直したが、やつはなおも動かない。
「おねーさんジム帰り?なんでジャージなの」
「仕事帰りですよ。だから靴…」
「ジャージで仕事とかマジうけるんですけど!」
「君は一人っ子でしょう。」
不意に姉ちゃんが言った。なんだか苦笑いしてる。
須藤他、俺もびっくりする。
なんで知ってるんだろう。
「ふうくんにそっくりだからね。
いいから靴直して。
都合悪いからってごまかさない。自分の事は自分で。幼児だってできることだよ。」
須藤はヘイヘイと面白くなさ気に、けれど綺麗に靴を直す。
てか、ふうくんって誰だよ。
◆◆◆
あの後、夕食は鍋で、食べるならみんなの分作ると姉ちゃんが言ってくれた。
追い返されるような雰囲気してたんだけど、まぁいいか。
鍋にポテトサラダに唐揚げにおにぎりというメニューだった。
なんじゃそりゃ。
ポテトサラダ(つくりおき)と唐揚げ(冷凍)とおにぎりは、鍋と飯が出来上がるまでのつなぎだ。
腹ぺこな男子高生はいくらでも食べられるもんだ。
しかし食べるだけではなかった。
姉ちゃんは俺達をこき使い野菜の皮むきやら切るのやらをやらせた。
働かざるもの食うべからず、らしい。
須藤が包丁使えないとかほざくが、姉ちゃんはよく切れるキッチンばさみを笑顔で渡した。
須藤よ、ピーラーやハサミでも切ったりできるんだぜ。
隣で、木戸が華麗なる包丁裁きで大根桂剥きしている。
湯布院は、ニャンコの手で押さえて…とかぶつぶついいながらたどたどしく白菜を切っていた。
守谷は生姜をおろしてて、高羽はピーラーで皮むきにいそしんでるし。
カオスだ。
そういう俺は鶏つくねをねっていた。
合間に、唐揚げやらポテトサラダを出されみんなでがっついた。
おにぎりはおかかとなんかが入った焼おにぎりでみんなにも大好評。
奪い合って食べた。
出来上がった鍋をおかずに、ホカホカの白米の夕食も争って食べた。
ある意味戦場のような食事だったけど、楽しかったな。
ちなみに、皆が帰った後の片付けはすべて俺がやらされた。
クイズ番組を見て大爆笑する姉ちゃんの声を聞きながら、
俺は理不尽を感じつつ大人しくしていた。
百倍になって帰ってくるしな。
樹は素直というか、姉には逆らえない。