迷宮都市 第拾参話
「リューガさん、とりあえずこの所内の映像は全て削除しました。」
「分かった。脱出するぞ。」
先に扉を開けたダンゼルに続き、龍牙はどこに力を入れているのか分からない動作で先ほどまで持ってはいなかった黒く長いバッグを抱え上げた。
微かにバッグが動いた気がしたが本人は気にしていないようだ。それを利き腕とは逆の左に担いだまま、二人は通路に沿って進み出した。
「脱出地点は?」
尋ねる龍牙にダンゼルは一度頷いてから左耳を押さえた。そこに嵌められたのは小型の『発声機』から響いてくるのはこれまで侵入してくる間に設置してきた盗聴器から送られてくる設置箇所の周囲の音だった。
設置と同時にそれぞれに番号を与えることで手元の装置を操作することで聞きたい場所の音のみを拾うこともできる。
そして今、ダンゼルが聞いているのは彼らが脱出地点として選んだ、正面入口の真上だった。そこか非常時の緊急脱出口として一メートル四方のみ術式による破壊が可能な場所だったのと、後は荷物の量が理由である。
とはいえ、そこからひっきり無しに行き交う騎士達の鎧の音聞こえてくるのでは予定を変更せざるを得なかった。
「だめですね。どうやらもう一組の方がかなり暴れた上で逃げ回っているみたいで、あのあたりは警備の兵がわんさかいますよ。これならそのあたりから飛び降りたほうが簡単に逃げられるかも。」
「そうだな……」
しばし考え込みながらも龍牙はバッグを揺すり上げた。
「このまま跳ぶか。」
「本当は控えたいんですけどね。それ、重いですし。」
彼らが今いるのは三階。普通なら高さにしてみれば九、十メートルだが、どうやらここは冥術使用者対策として高さを調節しているようで、普通の人間は元より、七階梯程度の実力でも運がよくて足首の捻挫、最悪死んでもおかしくないほどの高さである十五メートルはあった。
だが、騎士の十階梯とその九階梯にも匹敵するほどの実力を持つこの二人からすれば大したことのない高さでもあった。
「他に探すものは?」
「特にないな。あるとすればここの所長とやらの顔を見たいところだが……」
「呼んだか?」
その声を聞くやいなや、二人は後方からの殺気に左右に飛んだ。
ゴウンッ
「っ!?」
足先に走る鈍い痛みに僅かに顔をしかめるダンゼルの横で彼らがいた壁が吹き飛んだ。
周囲の金属が帯電するビリビリという音と術式による破壊が難しいとされる壁が吹き飛んだことがその攻撃の凄まじさを物語っていたが、後ろを振り返ったダンゼルにも、その向かいに立つ龍牙も全く焦った様子がなかった。
「へえ、頭が自ら出てくるなんてね。」
「私は賊に心配されるほど弱くはない。」
「ふーん。そうかな? どう思います?」
ダンゼルはわずかに考え込むふりをしながら横にいる龍牙に話を振ってみるが、
「……」
龍牙はもう所長への興味がないのか、何も答えず背を向け、今空いたばかりの穴から外を見ていた。
顔を見られたくないというのもあるだろうが、この様子は明らかに所長への興味が失せている態度だった。
「弱すぎて話にならないみたいですよ?」
「黙れ!! どうせお前たちも『ローガ』の仲間なんだろ!?」
「ローガ?」
聞いたことがない名前に首をかしげるが、所長はそれを演技だと思ったらしく額にさらにもう一本青筋を立てながら怒鳴った。
「とぼけるな!! この街に来るとき、助手席にローガを乗せながら運転してきただろう!?」
「……へえ、」
意外な形で一つ、嘘がバレたが、どうやらこの男はガムルの正体しか分かっていないようだ。
それなら構わないと判断したダンゼルはチラッと隣を確認した。
もう龍牙はいつでも行けると言わんばかりに穴の縁に手をかけたまま動かない。
それを確認したダンゼルはとりあえず、ここで話を終わらせようとしたが、その予定は次の所長の言葉に崩れさった。
「しかも同じ時間に地上、地下に分かれて侵入しているんだ。仲間じゃないというならなんだと言うんだ!?」
「っ!?」
予定外のことにダンゼルは僅かに息を呑んだ。これを見逃してくれればすぐに済んだのだが、残念ながら、前に立つ所長、エリックはそれを見逃さないほどには実力があった。
「やはりお前たちは、」
「リューガさん、お願いしていいですか?」
「……分かった。」
詰め寄るエリックを無視しながらダンゼルは横の龍牙へ依頼の声をかけた。かけられた方は僅かに気だるそうに眉を揺らすが、同意の声とともにポイッと黒いカバンをダンゼルに投げた。
「おっと。うーん、ギリギリかな……」
かなりの重量があるように見えるバッグを若干よろけながら受け止めると、ダンゼルはすぐに龍牙が覗いていた穴から外へと飛び出した。
「なっ、待て!! うっ!?」
まさか飛び降りると思っていなかったエリックは焦った声を上げるがそれを遮るようにぬっとその視界に龍牙が割り込んだ。
「なんだ、お前は!?」
「今日起こったことの全てを、忘れてもらおうか?」
「何を……っ!?」
言っているんだ、と続くはずの言葉はまるで喉元に張り付いたように音にはならなかった。
それは剣を喉元に突きつけられているから……ではない。エリックは何もされていない。
物理的には。
エリックはただ目が離せなかったのだ。
単純な殺気を向けられているのではなく、そうまるで自分はここにいてはいけないような、自己の存在を否定されているような、そんな怪しい光を宿す龍牙の紅い瞳に魅入られてしまったのだ。
その瞳に吸い込まれていくような間隔に陥るが、それでもエリックはそれを見つめるのを止められなかった。
そして魂を吸い取られたようにエリックの目から、光は失われた。
「忘れろ。」
「……はい。」
虚ろなその瞳のままカクっと頷くエリックに龍牙は何十秒かぶりに瞬きをした。
うるおいを取り戻した瞳で確認してもまだエリックは呆けたような表情をしている。その反応から自分の術の成功を確認した龍牙はそのまま無言で穴の向こうへと飛んだ。
後ろで何か固いものがぶつかる音がしたが、そんな些細な(?)ことを龍牙が気にするわけもなかった。
「このあたりでいいでしょ?」
「よし。」
先ほどよりも吹っ切れた表情をしたガムルは掛け声と共に機械剣を斧の形へと展開した。
「確認だけど、顔は見られてないでしょうね?」
「……」
が、そのリタニアの言葉に時を止められたように凍り付いた。
その反応に呆れたようにリタニアは息を吐いた。
「だと思った。」
「じゃ、じゃあ、お前はどうなんだよ!?」
構えていた斧をブンブン振り回しながら抗議するガムルにリタニアは冷ややかな視線を向けていたが、もう一度呆れのため息を零した。
「監視撮影機の映像には映らないように立ち回ったし、それに、私が見られるようなヘマをすると思う?」
「……そりゃそうだな。」
目の前の女は確かに時折、子供のように無邪気に暴言を吐いてくることがあるが、その実力は本物である。
宮廷冥術師の九階梯。それだけの実力を持つ者は恐らくロザンツ帝国の中でも数える程しかいないだろう。
それに彼女には特殊系、それも広範囲で催眠状態に陥れる数少ない術式がある。それと彼女の幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた危機感知能力を併用すればそれほど難しいことではないだろう。
「まあ、騎士達の記憶は私たちにはどうしようもないけど、映像記録は後でゲンが外から『不正交信』をして消してくれるらしいからどうにかなるかもね。」
「そうか……」
今思えば、今回の潜入作戦はかなり荒い計画だった。
結局与えられた時間は半日。正確な情報は内部の地図とその周りの侵入ルート、そして騎士の数。どうにも侵入するには厳しい条件ではあった。
とはいえ、あのリーブを見捨てる気などガムルに芽生えるわけもなく、さらに参加しなければ脱出の方法を新たに探さなければならなかったのだ。
結果、彼女を見捨てるハメになったわけだが、研究所内の画像をリタニアが確保していることを考えれば成功と言える。
だが、やはりガムルはあのリーブの母親のことが忘れられなかった。
自分の愛する家族を守るために自らを犠牲にする覚悟、そして身を呈して自分たちを守ってくれた『母親』という大きな存在。
この二つは容赦なく、彼の忘却の彼方へと捨て去りたい古い記憶をたたき起こした。
暗い、木造の建物の中。いつもなら点けられているはずの灯りは消され、窓から射し込む月明かりに照らされる部屋の中、ガムルはいた。
傍らに幼い彼よりも一際幼い、やっと立てるようになったような子供を抱え、外から聞こえる喧騒に身体を震わせていた。
いつもなら希望に満ち溢れた色を見せるその瞳は、地獄を見たように澱んでいた。
その目を、いや全身を覆うのは、恐怖。全く感じたことのない、生物としての心の底からの恐怖に少年ガムルは膝を抱え込んだまま動くことすらできなかった。
『ぎゃあああああああ!?』
「っ!?」
そんな彼の耳に、また絶叫が飛び込んできた。
心臓を鷲掴みにされたように胸が苦しく、息が出来ない。明らかにそれは先程よりも近くなっていることに少年ガムルはただただ焦ることしかできなかった
恐怖によって冷めきった体。だがふと気がつけば何か暖かいものに包まれていた。
『は、母上?』
おそるおそる、といった具合に顔をあげるガムルに彼らを抱きしめた女性は腕をほどくと優しく微笑んだ。
『狼牙、この騒動が落ち着いたらこの子を連れて逃げなさい。そして、絶対に生き延びなさい。』
諭すように囁く彼女は笑みを崩さず、その二人の額に口づけを落とした。
なにか呪いじみたその行動の意味をガムルは幼いながらに理解していた。
これが彼女の、自分の母親との別れの挨拶なのだと。
先ほどの震えはどこに行ったのか、少年ガムルは気がついた時には必死にその袖にしがみついていた。
『いかないで、いかないで、母上!!』
死んで欲しくない。
これからも一緒にいて欲しい。
そんな願いに満ちた瞳から涙が溢れた。
その願いを込めた涙は頬を伝い、母親の白い手に落ちる。だが、それと同時にガムルのものとは違う別の雫がそこに落ちた。
ハッと顔を上げた幼すぎる彼はそこで初めて気付いた、母親もまた涙している事に。
彼女もまた死にたくはない、彼らから離れたくなどないのだ。
そして、その気持ちを押し込め、しがみつく小さなガムルの手を包んだ彼女には、計り知れない決意を持って、この別れを告げているのだと悟った。
それに気付いた瞬間、ほんの一瞬だけ、ガムルの手からフッと力が抜けた。
『どうか元気に生き延びて。』
その隙を見逃さずするりとその手をすり抜けた彼女は、最後にもう一度二人を見つめ足早に立ち去っていった。
そしてそれから数分後、月明かりが射し込む窓の向こうであの『惨劇』を見たのだ。
自分達を可愛がってくれた叔父や叔母、そして父、母を喰いちぎっていく、地獄絵図を。
「ガムル!!」
「っ!?」
そこまで思い出したところでガムルはリタニアの呼び声にハッと我に帰った。
辺りを見回せば、そこは先ほどまでいた通路のようだが、その側面、つまりガムルの目の前では大きな変化があった。
そこに先程まではなかった、細く暗い通路がぽっかりと口を開けていたのだ。
その大きさは、幅は一メートル強、高さは天井までもある。と言ってもそれほどの長さはない。
実はこの研究所の中で唯一この場所だけ、外にある別の通路と接近しているのだ。
ゲンの地図には脱出経路の候補まで記されており、この道もまたその候補の一つだった。
実際、並の騎士程度の力では道を開けるどころか壁に傷を付けるのが難しいほどこの壁にはかなり純度の高い妨害物質が含まれているため警備が薄いというのが候補に挙がった理由のようだが、国の研究施設に侵入する輩が『並』であるなどという想定は甘い気もしないではなかったが。
そんなどうでもいい回想と共に呆然と壁に空いた穴を見ていたガムルは、自分を呼び戻した人物、その通路の中央で仁王立ちするリタニアを直視できなかった。
「まだ脱出もできていないのに何、固まっているのよ?」
「あ……、悪い、っと。」
一体、どれだけの時間、思考の海を漂っていたのだろうか。
自分の精神の脆弱さに歯噛みするガムルに向かって、リタニアは無言で、いつの間にか取り上げていたガムルの斧を投げ返した。
そこで初めて自分が武器を奪われていたことに気付いたガムルは、ただただ自分の不甲斐なさを悔やむしかなかった。
静かに唇を噛み締めるガムルを一瞥したリタニアは無言で通路に向けて足を踏み出した。
それに若干慌てたようにガムルもまたそこに踏み込んだ。
そのまま二人は走るでもなく、ゆっくり歩くでもない早歩きのような速度で進んでいたが、目的の通路が見えてきたところでガムルの前で華奢な背中が動きを止めた。
それを訝しげに眺めていたが、ガムルの方を振り返った視線は一層温度が下がっていた。
その意味が分からず首を傾げていると呆れのため息を零しながらリタニアがガムルの背後を指差した。
「入口、開けたままにするつもり?」
「えっ、あっ、悪い。」
そこで初めてこの空間への入口を塞ぐことを忘れていることに気付いたガムルは、慌てて機械剣を斧の形態へと変化させた。
続けて表面に展開されるのは茶色い術式。
それに呼応し、振り返ったガムルの視線の先で入口の両端が動き出した。
徐々に差し込んでくる光が失われ、暗黒がこの細長い空間を塗りつぶしていく。
そして完璧な暗闇が訪れた時には、ぽっかりと空いていた入口は何もなかったかのように綺麗に塞がれていた。
恐らく研究所の広さをできるだけ確保したかったのだろうことは容易に想像がついたが、それを軽率だとは言い切れない。
この規模の事象の改変を微かに意識を向けなければわからないほどの微弱な揺れしか生じさせない確かな技術。だがそれを実行した暗闇に隠れるガムルの表情は曇ったままだった。
「脆弱ね。」
そんなガムルの心境を見透かしたのか、リタニアから隠そうという気もない、冷ややかな言葉が投げつけられた。
「あなた一人が今ここで悩んだとこで何も変わらない、何も好転しない。」
「何を……」
「前に言った言葉を覚えてる?」
リタニアの鋭利な言葉に、ガムルはその後ろで顔を俯けた。
前に言った言葉、それは商業都市に入る前に向けられた言葉。
「俺は、弱い、か。」
改めて口にするとそれはやはり心に響いた。ガムルは無意識に痛む胸を押さえた。
そんな仕草を知ってか知らずか、リタニアは背中を向けたまま続けた。
「そう。それにもう一つ加えておくわ。」
意味深な言葉にガムルが下に向けていた視線を持ち上げると、丁度こちらへ振り返ったリタニアと視線があった。
「『私たち』は騎士だけど神ではない。これだけいえば頭の悪いあなたでもわかるでしょ?」
「例え力があっても今回はどうしようもなかった、と?」
「そう。」
小さく頷くとリタニアはまた暗い通路の先へと視線を向けた。
「彼女が実験台にされたのは少なくとも一ヶ月以上前、もしかしたら半年前かもしれない。そのとき、私たちはまだ知り合ってもいない。」
「ああ……だけどな。だけど、どうにかやりようはあったんじゃないのか? 少なくとも俺たちは生きている彼女に会った!?」
「じゃあ、何? あなたには彼女を救う手立てがあったとでも言うの?」
「それは……」
そう改めて尋ねられると口ごもるしかなかった。
実は、ガムルには、心当たりがあった。
だが、それを告げることは、彼の『本性』をバラすこと同義であり、無意味な争いに彼女たちを巻き込む可能性すらあるのだ。
「そうだな。知らない。」
そして常にそのことを心がけているガムルがこんなところ明かすようなヘマをするわけがなかった。
全く足元すら見えなかった視界は、前方と上方から微かに射し込む光によって徐々に戻りつつある。
「さっさとここを出るわよ。」
その向こうでリタニアはフンと一度鼻を鳴らしてから走り出した。