迷宮都市 第拾話
「そういうこと、だったのか。」
獣のように両手両足を床に着けていたガムルはゆっくりと顔を上げた。
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるその顔には幾筋もの血が垂れている。
「お前たちの目的は、これだったのかよ……」
ゆっくりと顔を上げたガムルは憎々しげに前を睨んだ、
大きく窪む床。それを挟んで向かい側に尻餅を付くエリックとその傍らに佇む黒いスーツの男を。
そう、新たな敵が現れていた……ガムルに多大な影響を及ぼす敵が。
その黒いスーツに身を包んだ男はやはりおかしかった。
その背格好、顔はともに一般の人と変わりはない、三十代の男だ。
だが、その身体から発せられるその気配はこれまでの三人とは別格の濃厚さを醸し出していた。
そしてガムルの予想を決定づけるそのこめかみから突き出る二本の突起。
「『複合体』……」
視界を遮る血液を左手で拭い、ガムルは立ち上がった。
『複合体』、それは禁忌とも言える存在だ。
この世で最も忌み嫌われながらも人々の生活に欠かせないものは、その生態が解明されていない生命体、『変異種』である。
時に人を襲い、人を餌として追い回す、人間にとって『敵』というに等しい存在である。
だが、極希にだが、『変異種』でありながら人間に興味を持ち、交流を持とうとするものがいる。
そしてその中にはさらにごく少数ではあるが、人間に姿形を化える能力を持つものがいる。
そう『複合体』とは、その能力を持つ『変異種』と人間のあいだに生まれた子供のことである。
ではなぜこれが禁忌とされるのか。
それは、『変異種』が持つ、人が常ならば持ち得ない力。『破天石』を使わずに『冥術』を使えることにある。
破天石そのものが地中深くに眠る『変異種』の肉体の結晶である時点で当然ではあるが、それができない人間たちの驚異であることに変わりはない。
子供でありながら破天石もなく、そして『術式を展開することなく』、強力な冥術を発動してしまうその有り余る力。
それが『複合体』あるいは『悪魔の子』と呼ばれる所以である。
とは言っても元々、人間に擬態できるのは強力な個体に限られるため、この大陸上にも百ほどしかいない『複合体』は社会問題にならずにいる面がある。
だがそれは国民間での話。
軍事力がそのまま国の優位性に関わっているこの時代、この百を奪い合うのは当然だった。
そして行き着く先が、
「人工的な『複合体』の生成。そんなことが許されるとでも思っているのか?」
「許しなど求めはしないさ。」
ガムルの問いにすぐに応えたのはスーツの男だった。
「私たちは力を求めた。そして所長さんが求めるだけの力を与えてくれた。ただそれだけだ。」
「そのために他人を巻き込んでいいのか!?」
「犠牲はつきものだ。」
「てめえ……」
平然と当然のように言ってのける男にガムルは頭が沸騰するのを感じた。
だが、冷静さは失わなかった。歯を食いしばって前へと進もうとする自分の身体を抑えた当たり、ガムルもまたこの一連の流れの中で成長していた。
だが今はそんなことを喜ぶ気になどもちろんなるわけがなかった。
それ以上に目の前に佇む男の情報を引き出すことの方が優先なのだから。
「お前は何なんだ?」
「そんなあやふやな質問に答える気はない。」
「お前は何者なんだよ!?」
苛立たしげに問い直すガムルに男は不敵な笑みを浮かべた。
「誰だと思う?」
「チッ」
はっきりと聞こえるほど強い舌打ちをしながらガムルは周囲を注意深く確認した。
薄暗い空間。この外から幾つか人の気配が感じられる。
落ち着かないその雰囲気からして、中で何を行われているのかも知らずに警備を任されている騎士たちなのだろう。
(多勢に無勢か……)
自嘲気味に心中で呟きながらガムルは機械剣を強く握った。
「騎士が統括する施設に堂々と入っているんだから、軍法会議にかけられるかなんかして退役させられた騎士だろ?」
「正解だ。」
ニヤリと笑うスーツの男にガムルはまた舌打ちを零した。
このままここで情報収集するのも手だが、これ以上敵が増えないとも限らない。
今、彼は一人で、敵は十以上、さらに全員曲がりなりにも騎士なのだ。さらにこの部屋にはまだ改造された人たちが眠っている。
このまま戦いを続けるのは愚の骨頂だった。
「騎士であった頃からこういった人体実験に手を出していてね。案の定、それを行なっていた科学者と一緒に牢屋行きさ。」
「へえ。で、なんでそんな奴がここにいるんだ? 軍法会議にかけられて有罪の奴は大体、懲役は三十年以上から終身刑。それか死刑しかないはずだ。」
「逃がしてもらったのさ。」
「逃がしてもらった?」
牢屋から脱獄犯が出たともなるとかなり大騒ぎになる。というのも、牢屋の警備は騎士の中でも実力者ばかりが集まる『宮廷騎士団』が行っているため、力づくで、となるとそれはかなり強力な使い手が街に放たれたことになるのだ。
だがここ数年、そのような記事を情報媒体を通して確認したことがない。
これはつまり、正式に牢からでたことになる。
そして、それが出来るほどの権力を持つ者は軍、あるいは国の上層部しかいない。
いや、このようなことをやろうとする人間など一人しか思い当たらなかった。
「……ノーブル=ヘイル=ロザンツ」
「……ふふ、さあな。」
是とも非とも取れる余裕の笑み。そんな男を前に、これ以上は危険と感じたガムルは逃げに転じようと微かに腰を落とした。
だが、
「どこに行く気だ?」
鼻が触れ合いそうになるほどまで接近された男にガムルの身体は思考は停止した。
「ガフッ!?」
そして口から漏れる呻き声。そこで初めてガムルは自分が殴られたことに気付いた。
見事に右頬を捉えられ、意識が飛びかけるがそこは自前の精神力でなんとかつなぎとめた。
背中が地面に着くよりも早く、宙で体勢を立て直したガムルは靴底で床を滑った。
「遅いな。」
「っ!?」
だが、またしても顔を上げるガムルの目の前で男は拳を振りかぶっていた。
今度はなんとかそれを腕で受け止めるが、その細身からは想像もできないほどの圧力に自分の腕がギシギシと悲鳴をあげるのが聞こえた。
歯を食いしばり、それを堪えながらもガムルは空いた腹部目掛けて右の拳を繰り出した。
鋭い、だが受け止められる速さで突き出される拳。
だが男が取ったのは、潔ささえ感じる大きな回避だった。
「危うく腕を持っていかれるところだった。」
「ちっ」
受け止める腕ごと粉砕するつもりだったガムルは悔しげに顔をしかめた。
冥力を纏ったその拳は受け止めたその腕をも粉砕するだけの力があったのだが、それをあの一瞬で見分けたということは男の実力を如実に語っていた。
目の前の男は思っていた以上に『できる』ようだ。
騎士、それも実験台として名が上がるほどなのだから改造を受ける前からかなりの技量を持っていたのだろうことは容易に想像がついていたが、
「速いな。」
この速度は予想外だった。
油断していたとはいえ、動体視力と反射神経には自信があるガムルが見失ってしまうということは、速度だけで言うならば目の前の男は『一流』だった。
「これが『複合体』としての私の力さ。」
「なるほど。肉体強化系の異常種……『大狼』のあたりか?」
「正解だ。」
不敵に笑いながら男は自身の額から突き出た突起に触れた。
ベアウルフとは、二本の長い角が特徴の狼である。ただ普通の狼と違うのはその熊にも匹敵する巨大さと戦闘状態に入れば二足歩行で前足に付いた鋭い爪で攻撃してくることだろう。
その巨大な体躯で普通の狼同様、あるいはそれ以上の速度で移動するそれは、肉体強化の術式を使う異常種の中では上位種とされている。
その複合体が相手というのはガムルにとってあまり嬉しくない状況だった。
ガムルが得意とするのはその巨体と速さを活かし一瞬で相手を沈める近距離戦闘。
(相性は悪くはないんだけどな。)
そう内心呟きながらガムルは左腕に目を落とした。
先ほど、咄嗟に相手の拳を受け止めた左腕には青あざが浮かび、未だ小刻みに震えている。戦闘に使うには少しばかり心許ない状態だ。
そして何より重大なのは、目の前の男が一片の油断もないことだ。
エリックの時はそれこそ油断と精神的に揺さぶる手段があったため上手く事が運べたが、今は違う。
敵は自分の実力を確認した上で勝負に挑んでいる。
この事実はガムルをより不利なものにしていた。
「来ないのか?」
明らかな挑発をしてくる男にガムルはただ引き抜いた斧を両腕で構えた。
その構えから攻撃の意志がないことを悟った男は間髪いれず地面を蹴った。
「ならこちらから行こう。」
「くっ!?」
自分だけ違う時間軸を進んでいたように感じる一瞬の加速と接近。
少し反応を送らせながらもガムルは斧の柄でその拳を受け止めた。
満足な体勢で受けられなかったために両手に鈍い痛みが走る。だがガムルは歯を食いしばり、踏ん張る足に更に力を込めた。
「おらあ!!」
ガムルの気迫に押されたのか、それとも自らの意思か。
ガムルは全身で斧を前に押し出すのと男が一度下がろうと後ろに体重が乗ったのはほぼ同時だった。
踏ん張りが効かない状態で重心がある方へ押されればそのバランスは崩れるわけで、
「なっ!?」
意外な形で、男はものの見事に体勢を崩されていた。
その顔に驚きの色が浮かぶが、目の前のガムルの動きはそれで止まることはなかった。
押し出した体勢のままさらに一歩、男に向けて踏み出すと、短く持った斧をその重量に任せ茶色い軌跡を残しながら振り下ろした。
ゴオオウン
ただ斧を振り下ろしただけとは思えない破砕音とともに巻き上がる砂煙。
その中から弾き出されるようにスーツの男は飛び出してきた。
不安定な体勢で着地した男は初めて動揺を顕にしながらその額にうかぶ汗を拭った。
その袖は大きく切り裂かれ、はだけた肌からは少なくない血が流れ出ている。見れば体中に先程までなかった細かな切り傷が刻まれているのが分かる。
「しくじったか。」
片膝を付いていた体勢から立ち上がると男は自分のスーツに付いた埃を払った。
先ほどのガムルの連撃。それは明らかな偶然によるものだと分かっていたが、それでも男は自分の見る目のなさに嘆息せずにはいられなかった。
普通に戦っていれば負けはない。そう思えるだけの実力差があるのは確か、だが実践で絶対はない。そのことを忘れていたことを自分に戒めながら男は再度構えた。
偶然に助けられたとはいえ、相手にはそれをものにするだけの実力がある。それを再認識してから男は無闇に飛び込まず、ただ腰を落としじっと煙幕が晴れるのを待った。
だが、いつまでたっても動きがない。
これだけ有利な状況になったのだ。普通ならここで中・遠距離の攻撃をぶつけてきてもおかしくはない。
にも関わらず、かなり収まってきた砂煙の中で攻撃を繰り出す気配が全くしないのだ。
それが自分が先行しているためか、それとも何か策があるのか。
その真意を測りかね、男が苛立ちを覚え始めた頃、
カラン
「っ!?」
何かが落ちる乾いた音。何か小石が崖から落ちたようなそんな音に男はハッと目を見開いた。
その音が聞こえたのは、まだガムルが姿を隠す砂煙の中。
だが先ほどまでの警戒心はどこに行ったのか。男はためらいなく、その中へと駆け込んだ。
「やられた。」
足元を見つめた状態で立ち止まった男は、初めてその表情を悔しさで染めた。
完璧に晴れた煙幕の中央。そこで男は立ち尽くしたままギリッと歯を噛み締めた。
そこにあったのは直径二メートルほどはある縦穴だった。
「逃げられたか。」
「何だと!?」
視界を遮る煙幕が晴れたことでエリックも気づいたのだろう。何かに脅迫されているように顔を真っ青にしながら叫んだ。
そんな慌てふためく上司を無視してやろうか、という考えがふと浮かぶが、後でより面倒なことになるのを数年間の付き合いから分かっていた。
「何をしている!? 早く追え!!」
言われなくても分かっている。
尚も喚き続ける所長にそう視線だけで応え、男は縦穴の中に飛び込んだ。
「ふう。」
未だ崩落を続ける穴の下から素早く逃げ出したガムルはすぐに走りだした。
目指すはリタニアに指定された合流場所。
あれだけ派手に騒いだのだ。恐らく異変を感じ取ったリタニアもそちらに向かっているだろう、そうガムルは予想していた。
だが、今彼がいるのは地下二階。
そう、先ほど機械兵を派手に倒したあの階なのだ。そのため、外の警備に回っていたはずの騎士達が集まってきており、ガムルは思ったように身動きができないでいた。
「面倒だな……」
苛立たしげにすぐ横を通り過ぎた騎士の後ろ姿を睨みつけながらもガムルは最初に登った階段がある広い空間に向かって歩きだした。
あの実験室は階段のすぐ横にあったことから大体予想がついていたが、やはりガムルが飛び降りた場所はあの階段に近いようだ。
角をもう一つ左に折れた先にその空間があるのを確認するが、ガムルはすぐに頭を引っ込めた。
「見つかったか?」
「いや、ただ、さっき何かが崩れる音がしたから、まだこの階にいるはずだ。」
そうその空間の真ん中で三人の騎士が状況確認を行なっていたのだ。
気づかれないように息を潜めながらガムルは角から片目だけ出してその様子を静かに窺った。
「わかった。」
「急ごうぜ。さすがに見つけないとまた所長に実験台にされかねないしな。」
「ああ、そうだな。あんなのはごめんだ。」
恐らくあの研究室の被験者達を思い出したのだろう。三人が三人とも顔をしかめた。
(なるほど、一応ここの警備をしている奴らは実験のことを知っているのか)
新たな事実にガムルは自分の現状認識が甘かったことを悔やんだ。
もうこの計画は所長の暴走程度で済む話ではない。国民の安全を守る騎士を圧倒的な権力と状況認識による脅迫で事実を知った上で統率している。
それは間違いなく国家クラスの『闇の』政策であった。
恐らくいつも三人でいるのであろう。そんな親しさがにじみ出る会話をかわす集団から目を離し、ガムルはその反対側へと目をやった。
その先に見えるのはもう一つの階段が設置された空間。そうリタニアが向かっていた方向だ。
「やっぱりあっちだな。」
距離は五十メートルといったところだろうか。
自分の進行方向を再確認したガムルは、尚も会話を続ける三人が振り向くよりも早く、その空間の中へと姿を消していた。
気配を極限まで消した達人の域に達するほどの斬撃。
それに反応できず、最後の一人が赤い弧を描きながら崩れ落ちた。
「こっちも終わりましたよ。」
カチャッと腰のホルスターに機械剣を収めながらダンゼルは剣を振り下ろした状態で固まる龍牙に声をかけた。
彼らの前後では十人近くの鎧を纏った騎士達が転がっている。
彼らは先ほどの強襲を凌いだ後、また移動を開始していた。
散策していた二階を諦め、今彼らが踏み込んでいるのはこの建物の最上階にあたる三階である。
だがどうやら研究所内は厳重な警戒態勢が敷かれているようで、角を曲がるたびに二人は戦闘を強いられていた。
剣に付いた血を払いのけた龍牙はそれを円筒状に戻し、コートの内側にしまいこんだ。
その一連の動作を眺めながら、ダンゼルは今回の龍牙の行動に違和感を覚えていた。
龍牙はその個人的というには些か大きすぎる理由からこのような場で顔をさらすことを常ならば避けているのだが、今回は率先して自分の顔を、存在を主張しているようにさえ見えた。
それは狙ってのことか、それとも無意識にかは分からないが、後々、騎士団に衝撃を与えることになるだろう。
あの『研究所強襲事件』はやはり『死んだと思われていた英雄』によって襲われたのだと。
今がその時なのか、ダンゼルにはそれを測り切るだけの頭を持っていないがとりあえず今どうにかなることではない。もう顔を晒してしまった以上、『たられば』を考えても意味がないのだ。なら今やるのは、
「で、どうするんですか? リューガさん。」
先を歩く龍牙に小声で尋ねると背中越しに答えが返ってきた。
「ここの研究データをいただく。」
「……それをどうするんですか?」
「然るべきときに然るべき手段で使う。」
かなりぼかした答えだが、この間、サメット族とかわした密約とも言える約束を考えるとその使い方はすぐに予想がついた。
「捕まっている人たちはどうするんですか?」
「それはあいつらがやってくれるだろう。」
「あいつら?」
数秒、背中を壁に押し付け、走り去っていく騎士たちをやり過ごしながらダンゼルは小声で問い返した。
「ああ。あいつらがな。」
ダンゼルが見上げた先で龍牙はいつもの無表情ながら、どこか期待したような、いつもとは少し違う色をその目に宿していた。