迷宮都市 第八話
まるで少年の想像をそのまま形にしたようなそのフォルムは、子供が見ればすぐに魅了されるだろう。
だが子供たちにこれを見せるわけにはいかなかった。
その両腕に二丁の大型の銃が取り付けられているのだから。
ガムルがそんな他愛もないことを考え、現実逃避をしている間にもそれは彼らに向けて突き出された。
「や……」
ヤバイ、たった三文字。
だがそれが空気を震わすことはなかった。
通りの角からひょっこりと顔をだし、辺りを窺ったダンゼルはすぐにまた元の位置に顔を引っ込めた。
「なんだか信じられませんね。これが研究所だなんて?」
「ああ。」
ダンゼルのすぐ横にもたれかかったままタバコを咥えた龍牙が静かに頷いた。
彼らは今、街の北側、だが街の城壁の中にある、とある一角に来ていた。
研究所の建物は街のはずれにあるというだけでその外観はこの街を迷宮としている建物たちと何も変わらない。石造りであることも、その外形が少し細長い長方形であることも。
そして迷宮の一部となっていることも。
恐らくヒューズの使用人からの情報がなければここにたどり着くことは不可能だっただろう。特にこの街では最初の難関、いや最難関といっても過言ではない『捜索』という手間が省けたのはかなり大きい。
とはいえ、彼らは今回の潜入にはあまり乗り気ではなかった。
ここで問題を起こせば、その情報はあっという間に国中を駆け抜け、彼らの今後の行動を制限するのは目に見えている。
無駄な危険を負いたくないというのはこの少数精鋭を率いるものとして当然の思いだ。
それでもこのように侵入しようと考えているのは、資金のためというのもあるが、それ以上に見逃せない理由があった。
今後の彼らの障害となりうるものの排除。そしてもし彼らが恐れている『人体実験』がされているのであればそれを見逃すわけにはどうしてもいかなかったのだ。
そのような葛藤の末、ここまで来たのはよかったのだが、そこは思った以上に警備が固かった。
彼らの現在位置から入り口である大きな扉まではおおよそ二十メートル。だがその間には少なくとも六人の騎士達がいるのだ。
「手は出すなよ?」
「分かってますよ。」
全員確認できたわけではないが、その階梯はせいぜい五程度。
戦力としてはこちらのほうが断然上だ。
だが侵入してから動きまわることを考えればここでの戦闘は避けるべきである。
この面倒な状況に龍牙は内心ため息をついた。
「ん?」
そこまで思考を巡らせていると、茂みの中から目だけを出し、辺りを窺っていたダンゼルが屈んでいた腰を少し上げた。
「リューガさん、」
「なんだ?」
「騎士たちが中に引き返していきますよ。」
「……何か異常事態か。」
そう当たりをつけながら龍牙は足元を睨みつけた。
その視線の先、つまり地面からは先程からとぎれとぎれではあるが、何かが足元をうごめいているように揺れ続けている。
「俺達の他に侵入者がいるのか。」
「そうですね。」
それが一体誰によるものかは分からないが、今の二人にとってはありがたい状況なのは間違いなかった。
先程までの人の多さが嘘みたいにもう彼らと入り口の間には三人ほどしかいなかった。
「行くぞ。」
「了解。」
そして二人は忽然とその場から姿を消した。
サンドワームが岩を噛み砕いたような、いやそれ以上の轟音が閃光と共に通路を埋め尽くした。
もしそれを側で見ている人間がいれば、視力、聴力といった人間の行動に不可欠な感覚を狂わされていただろう。
それほどの、閃光弾にも匹敵する音量と光量は通路の真ん中から発せられていた。
扉に向けて吼え続ける、口径五十ミリは超える巨大な口から。
それをその両腕、正確には肘から先に備え付けた機械人間は、まるで大人を二人、持ち上げていると錯覚するほどの迫力があった。
普通の『人間』ならば、出来てもやることはないだろう。
それを平然と『機械らしく』ただ無機質に行うそれは、まさしく『機械人間』というにふさわしい姿だった。
ガガガガガガガガガガガガ
立て続けに発せられる薬莢の爆発による光は、その無骨なシルエットを不気味に背後の壁に映し出していく。
どれだけ撃っていたのだろう。
ガチャ
弾切れをしめす乾いた音、それが聞こえると同時に機械人間は銃をつきだしたまま、その腕の下にあった一本の金属棒を動かした。
『タイショウ、致死率九十五パーセント』
ガチャガチャと何かが外れる音に連れて、カランと人の頭ほどもある弾倉が落ちた。
そしてポッカリと空いた人の頭ほどもある空間に、先程の金属棒が先端に取り付けた新たな弾倉とともに差し込まれた。
全自動で制御されている機械人形ならではの精密かつ迅速な行動。
『ガ、ガガ』
だがそれが完全に作動することはなかった。
一陣の風が巻き起こったかと思うと、その頭部にある大きな一台の撮影機の横から大きな機会音が鳴り響いた。
『警告、警告、前腕部ニ損傷。修復作業カイシ。』
「させるかよ。」
この『機械人間』の正式名称は『機械兵』。
人間の兵士と違い、恐怖もなくその動力が続く限り戦い続け、人間と同じように見て聞いて話して行動する。
そんな『無敵の軍団』を夢見て造られた『心なき戦士』とも言うべき作品だった。
そしてその最新の高性能な集音器は、発せられたその声もまた正確に認識すると同時にその発信源の捜索を終了していた。
そして完了すると同時に機械らしいすばやい動きで、その一つ目は検索結果である自身の左肩へと向けられていた。
「全く、どれだけ撃てば気が済むんだ? お前。」
そして捉えた。呆れたように自分を見下ろす巨漢の男はその手に収まる、黒と赤の斧を機械人間の肩に突き立てていた。
しかし、さすが機械というべきか。全く間をあけることなく、機械兵は反対の腕をそれに向けてつきだしていた。
その先端に備え付けられているのはもう銃ではない。単なる鈍器としての機能しかない、弾切れを起こした銃は切り捨てられ、そこには新たにナイフが握られていた。
ナイフと言ってもその体躯と比べれば、である。普通の人から見ればそれは剣と言っても何の違和感もなかった。
そしてその刃は的確に一寸のズレなく、ガムルに向けて突き出された。
カキン
「言ってるだろ? させないってな。」
だがそれが肉を穿つことはなかった。
機械人間のカメラが捉えているのは、付け根から先が切り落とされたナイフと、斧を振りぬいた状態で固まる男。
そしてその映像はその一瞬後、真二つにひび割れ、砂嵐にかき消された。
「ふぅ、危なかったわね。」
「ああ。」
砂煙も落ち着いてきた通路で二人は自分たちの周りを見た。
彼らの周りは蜂の巣と言われても納得してしまうほど、穴が無数に開いている。だがそれと対照的にそんな感想を漏らす二人の周囲半径一メートル程は全くと言ってもいいほど無傷だった。
まるで銃弾が自ら外れたようにさえ見えるこの有様にリタニアはその原因とも言えるものへと視線を向けた。
「その破天石、彼女にもらったやつよね?」
「ああ。」
そう首肯しながらガムルは右手に握る斧を見た。
その先端に取り付けられた五つの破天石。その内、横一列に並んだそれらの右から二番目。そこに嵌めこまれた紅い、紅い破天石をガムルはじっと見つめた。
彼らのせいで巻き込まれた少女、麗那に涙とともに託されたその破天石は彼女が一番の出来というだけあってかなり『強力』かつ『特異』なものだった。
「いいものをもらったわね。」
「ああ。本当に、な。」
棒状に戻しながらガムルは感慨深げに頷いた。
(もしこれがなければ……)
ガムルはそこまで考えて小さく首を振った。
「今ので確実にバレただろ。さっさと行こうぜ?」
「そうね。」
そんな『たられば』というべき思考を振り払いながらガムルはリタニアに先に進むことを促した。
間違いなく騎士たちがここに詰めよせてくることはわかっている。だが、今ここで引き返せばここの警備は強化され、侵入がより難しくなるだろう。
何より、先程の機械兵に顔を撮られているのだ。明日、いやもしかしたら今日中には手配書が新たに請求されるだろう。
その他もろもろの状況を鑑みれば彼らがこれから取るべき行動などこれしかなかったのだ。
「ふう。」
ガムル達の背後にあったがために無傷で済んだ一人の騎士と一つの扉。その騎士の身体を蹴飛ばしたガムルは小さく息を吐きながら握りこぶしを作った。
「もう派手にやってもいいよな?」
「もういいからさっさとやりなさいよ。」
「へいへい。」
適当に答えながらガムルは握った拳を大きく振りかぶるとそれを扉に向けて繰り出した。
ゴオウン
鐘でも打ち鳴らしたような大音量とともに吹き飛ぶ鋼鉄の扉。
「よし。」
その結果に満足そうに頷いたガムルは悠々と薄暗い空間へとその一歩を踏みだした。
研究所の中は外の通路と違い思っていたよりも明るかった。
だがこの建物内全体に漂うなんとも形容し難い居心地の悪さにガムルはあからさまに顔をしかめた。
その最たるものとして、今いる通路。
その床、壁、天井。そこにある全てが『純白』と言っても問題ないほど塵ひとつないほどに真っ白なのだ。
白という色は相手に敵意を全く感じさせない色のはずだが、ここまで猟奇的にと言ってもいいほどの『白』になると逆に何かあると言外に言っているようにさえ感じられた。
「立ち止まっていないでさっさと行くわよ。」
そのどこかの病棟にでも閉じ込められたような息苦しさにガムルは立ち止まっていたが、さすがにその横を平然と追い抜いていったリタニアにそう言われれば歩き出すしかなかった。
実際、先程の扉を破る音を聞きつけた騎士達が、もうすぐそれもかなりの数が集まってくるだろう。扉の音だけではない。あの機械兵が放っていた大型の銃による振動に違和感を覚えた者、その機械兵の映像を見た者、その大人数が押し寄せてくるだろう。
そしてこの直線通路しかない単純な設計では見つかってしまえば戦闘以外に打開策はなくなってしまう。
そんなことを考えていれば、先程の見栄えを意識した自分の立ち回りに後悔の念が生まれ、自然と足が重くなるわけで、
「今更帰りたいとか言わないでしょうね?」
ガムルが気づいた時には目の前にいたはずのリタニアが少し離れたところから呆れたような視線を向けていた。
冷ややかな言葉をかけてくるリタニアにガムルは急いで駈け寄りながらも少し語調を強めた。
「言うわけ無いだろ。ここまで引き下がろうなんざハナから思ってねえよ。」
そう口で言いながらも不機嫌そうに皺を刻むそのこめかみはとても正直だった。
そんな間抜けな姿に拍子抜けしたのだろう。リタニアはふっと小さく噴きだすとその表情を隠すように前を向いた。
「まあ、こんな場所、好き好んで居たがらないわよね。」
「……まあな。さっさと終わらせて出ようぜ。」
「そうね。」
無駄な会話は終わり。
そうどちらともなく口を閉ざす頃には、いつの間にか二人の周りの景色が変わっていた。
先程まで胸焼けするほど真っ白だった通路は終わり、代わりに太陽が射しこむ、上へと続く階段が脇に設置された広い空間にでていた。
「とりあえず上に向かえばいいのか?」
階段が続く上層を見ながら尋ねるガムルに、同じくそこを見つめたままリタニアは頷いた。
「そうね。地図じゃ地下一階、二階に誘拐した人たちを収容していそうな広い部屋があるみたいだから。」
確かにガムルも頭に入っている地図を引っ張りだしてみると、長方形であるこの建物の東西南北にそのような空間がある。
「その内のどこかにいると考えるのが妥当ね。」
そこまでは当初の予定通りだった。だが、今、実際に歩いてみたことでガムルの中に小さな迷いが出来ていた。
「ああ。だけど遠過ぎないか? さすがにこれを回るのは骨が折れるぞ?」
ガムルの危惧する通り、地上はどうやらカモフラージュとして周りの建物と同じような大きさ、形をしているが、地図からも分かるようにこの施設は地下にある研究所というだけあってかなりの敷地面積を誇っている。
実際に歩いてみた距離と頭の中の地図を比較してみると、どうにもその距離は手に余るものだった。
「だからこれからは別行動よ。あなたもここの騎士たちぐらいだったら平気でしょ?」
「まあ、階梯も五ぐらいまでしかいないしな。大丈夫だとは思うけど……」
「何?」
「どこで合流するんだ? さすがに勝手に脱出したらマズいだろ。」
ガムルの指摘に小さく納得するように頷くとリタニアはピッと人差し指で上を差した。
「それは決めてあるわ。四十分後に地下一階の南側よ」
「地下一階の南側って……ああ、そういうことか。」
何かに納得するように何度も頷くガムル。その反応に満足そうに笑うとリタニアはすぐ横の階段ではなく、奥の通路に向けて走りだした。
「そういうわけでまた四十分後に、ね。」
走り去っていくリタニアから目を離したガムルは一度吹き抜けになっている頭上を見上げてから走りだした。
鋼鉄製の階段をできる限り音を立てないよう細心の注意を払いながら上へと上がったガムルはここまで来る間に感じていたこの建物が纏うもう一つの奇妙な空気をより濃く感じ取っていた。
(静か過ぎないか?)
そう、侵入者が入ってきたのに全くと言っていいほど人が動く気配がないのだ。
あれだけ派手に暴れていたにも関わらず誰も動かないわけがない。待ち伏せをしているのか、と疑ってはみたが、ここは『研究所』つまり少しでも周りの目には触れてもらいたくないものが並んでいるはず。それを放って、待ち伏せするなどあまりにも危険すぎる。
(何が起こっている?)
ここまで警備が薄いとなると他に狙いがあるのか……
(進んでいれば分かるか。)
思考の渦に飲まれそうになる前にその考えを振り払うと、ガムルは彼から一番近い、目標の一つである空間の入り口へと忍び寄った。
息をひそめ、室内の気配を探ってみるが、やはり人の気配はしない。
だが、代わりに絶えず水泡が弾ける音が鳴り響いているのが聞こえた。
ゴクリと喉を鳴らし、ガムルは汗ばむ手を扉についた取手にかけた。
ゆっくりと力を加えてみると、それは拍子抜けするほど意外にもあっさりと開いた。
扉を全て開けきるなどという愚行をすることなく、僅かに開いた隙間から中に足を踏み入れたガムルは、
「っ!?」
目の前に広がる光景に絶句した。
「くそっ」
第一波が止んだのを感じ取ったガムルは身体を横たえたまま、額に浮かぶ汗を拭った。
自分の軽率さを恨んだ。
周りには彼らが改造した人間がいくらでもいたのがわかっていたのだ。その時点で『一対一』で戦えるなどというのはありえない話だと分かっていて当然だったのだ。
だが、分からなかった。
結局、また怒りで冷静さを失っていたのだ。
「つぅっ」
もらった二発による負傷は思っていたよりも大きいのか、立ち上がろうとしたガムルの顔が苦痛に歪んだ。
だが、それでも彼は立ち上がった。
ここで寝そべっている暇もその気も彼にはない。
それに既に彼の傷口は修復を開始していた。
徐々に微かではあるが痛みが抜けていくのを確認しながらガムルはゆっくりと立ち上がった。
徐々に晴れていく埃の煙幕の中、目を細め、正面に立つ『四つの影』を睨んだ。
「よくぞこいつらの攻撃をしのぎ切った。ほめてやる。」
「うるせえよ……」
あの男の周りには三体の人間『だった』者たちが並んでいた。
腕、背中が厚い鉄板のような殻に包まれた『男』。その身長に見合わない丸太のように太く長い腕を持つ『青年』。そして足元に扇状に黒髪を広げる『女性』。
最後の女性は外見上、特に変わった点は見えないが、ガムルはすぐにその期待を放り捨てた。
俯く彼女の身体から人間とは思えない、獰猛な殺気が撒き散らされているのだ。
もう彼らは『改造済み』の人間だった。
「しかもその間に私に向けて『斬撃』を放つとは、なかなかに腕が立つようだな。」
「うるせえよ、クズ野郎。」
「ふふ、強がるな。」
見下すように話し続ける男の声を遮りながらガムルは斧を両手で構えた。
(どうするか……?)
先程はとっさのことに冷静さを失っていたが、最後に腹部にもらった一発が逆にガムルに少しではあるが、その冷静さを取り戻させていた。
ガムルが先に動いてしまった以上、この戦闘を避けられない。
そう避けられないのだ、本当は無実かもしれない人たちと戦うことは。
このどうしようもない状況を自覚した時にはガムルの身体はその三体の前にまで駆け出していた。
走りながらガムルは敢えて、あからさまに腰を捻り、横薙ぎの構えを作った。
それを見た甲羅の男は本能と視覚情報から反射的にその腕に纏った甲羅をつき出していた。
「ガアッ!!」
その男は叫び声と共に両腕を押さえながらうずくまった。彼の周りにじわりと広がっていく血の海。
その前に、遅れて二本の手が拳を握った状態で落ちた。
床に広がる血を踏まないようにそれを飛び越えたガムルは、今度は下段に構えながら残りの三人に向けて走り出した。
「っ!?」
斬られると思っていなかったのだろう。男は驚愕の表情に固まっている。
だがその横で待機していた残りの二人は、早かった。
甲羅の男が斬られた時には二人は既に左右に展開していたのだ。
一人は右からその大きな腕を振りかぶり、もう一人は左から針のように尖らせた何本もの自身の髪をつきだす。
その攻撃の速度から前に駆け抜けても後ろに引き返しても避けきれない。
本能のみで動いているとは思えない、完璧な連携がとれた左右からの挟撃は完全にガムルの退路を塞いでいた。
「……ごめんな。」
だが、それらがガムルに触れることはなかった。
右から迫る拳に向かって駆け出したガムルはタンと地面を蹴ると、空中に浮かんだまま両手で握った斧でその腕を斬り上げた。
「グオオッ!!」
それは一切のブレもなく、握りこぶしの人差し指と薬指の間を一直線に切り裂いた。
ガムルはそれを確認するとそのまま青年の後ろに静かに着地した。
もうそれ以上ガムルが青年に切りかかることはなかった。だがまだガムルの『攻撃』は終わっていなかった。
深く切り裂かれたその手は痛みによる反射からすぐに拳は解かれ、五本の指その全てが開かれた。
そして、
「ガアアアアッ!!」
左から迫っていた無数の髪の毛が例外なく大きく開かれたその手のひらを貫いた。
そう、ガムルは巨大な手を盾として使うことで左右の攻撃をたった一撃で防いで見せたのだ。
それを成し得たのは、彼の類まれなる動体視力と攻撃の正確さ。
もう、最初の一撃が決まった段階で、ガムルの意識は彼らから外れていた。
「キシャヤヤヤヤヤ!!」
ゆっくりと所長の方へと歩いていくガムルの背中に女性は威嚇するように吼えた。
どうやら女性の目には敵であるガムルしか映っていないようだが、幾ら細く、貫通力が高いといっても所詮は髪の毛でしかないその攻撃は、巨大化した手の平を貫通するまでには至らなかった。
さらに手の平を半分に裂かれ、さらにはその全体がくしざし状態になっている青年の手にはかなりの力が加わっているため、その髪の毛は全く抜ける様子がなかった。
まだもう一方の手が空いている青年の顔にはもう戦意はなく、ただ痛みによる苦悶の表情だけが浮かんでいた。
それらを敢えて無視するように、ガムルはゆっくりと少し離れたところにいた男に歩み寄った。
「ほう、やるじゃないか。」
「……黙れ。」
「全く、よくもまあ躊躇いもなくこいつらを切れるな。」
「……黙れって言ってるだろ。」
「やっぱり『失敗作』じゃこの程度……」
「てめえは何様のつもりだぁっ!!」
「がぁっ!?」
ガムルの拳が的確に顔面にめり込んだ男は何度も床を跳ねながら最後には壁に激突した。
途中、何も入っていなかった容器を突き破り、鮮血が舞っていたが今のガムルにとってそれは些細なことだった。
それよりもガムルは先に、後ろでもがく三体に向けて駆けると、暴れるその手足を避けながらその足の腱を的確に切断した。
苦鳴が室内に響き渡る。しかしガムルは地面を這いつくばる『三人』を残し、未だ埃が視界を遮る男の方へと歩み寄った。
「エリック、お前はどこまで落ちるつもりだ?」
「はあ、はあ、……なんだと?」
あまりの怒りに冷え切ってしまった鋭い視線を向けながら、ガムルは静かに問いかけた。
「仲間を裏切り、自分が守るべき市民を裏切り、部下を利用し。お前は何を目指しているんだ?」
「お前……お前は一体誰なんだ!? なぜ俺の名前を、『俺』を知っている!?」
崩れた棚の下敷きになっていた男は彼の上にあった金属製の棚を投げ飛ばした。
それは直立するガムルのすぐ横を掠めるようにして通り抜けるが、彼は全く身じろぎせず尚も男を睨みつけていた。
自分が知らない存在に知られている恐怖。それに囚われた男はわなわなと何もできず震えていた。
その哀れな姿にガムルは冷たい氷点下の視線を向けた
「『俺』が分からないのか?」
俺、と強調された男の顔と体格を見てエリックは必死に頭の中を探し回ってみるが、やはりこの体格の記憶は見つからない。
だが、そう問いかけられた声がある脳内の一点で引っかかった。
(この声は……)
「まさかお前がここまで昇進しているなんて思ってなかったぞ。エリック」
尚もつぶやかれる自分の名前に、エリックと呼ばれた男は眉間にシワを寄せた。
その理由は明確。
彼の名を親しげに呼ぶものは家族以外死んだかつての同僚ぐらいしかいなかったからだ。
そして何より彼の過去を知る存在……
「まさか……生きていたのか?」
そこまで思考を巡らせたことでエリックは気付いた。目の前に立っているのが誰なのかを。
つつっと滴る汗を拭うことすら忘れ、エリックは『それ』を凝視した。
「ああ。生きていたさ。」