濃い霧の中で 第七話
「くそ、このバケモノが!!」
「腕がぁ!!」
『グオオオオオオオオォオオオ』
世界樹の中、キメラと帝国軍による熾烈な戦いが繰り広げられていた。
兵士たちは目の前に迫る巨体に慄き(おののき)ながらもガトリングなど彼らの持ち味である兵器を駆使してなんとか優勢を保ちつつあった。
そんな戦いの場を傍から覗き込む二つの影があった。
「リューガさん。どうします?」
「さあな、」
龍牙とダンゼルだった。
龍牙はそうそっけなく応えながらも視線をめぐらしていた。
どうやって深部に向かうのか。
「ガムルさん達はどこにいるんですか?」
龍牙の鋭敏な感覚を知っているダンゼルが尋ねるが龍牙の表情は曇ったままだった。
「・・・・・・いない。」
「え?」
「いない。アイツらはここにいない。」
「だけどリューガさんはここに入るのを見たって。」
「ああ。どうやら移動したみたいだな。」
「移動って、」
「・・・・・・そうか、話してなかったな。」
忘れていた。そうぼやきながら龍牙は兵士の数が少ない方へと進んだ。
「この世界樹には特殊な『能力』がある。」
「『能力』?」
言葉は理解できたがダンゼルには少し意味がわからなかった。
「ああ。この樹は質量体を瞬時にその根を巡らせた場所まで移動させる事ができる。」
「えっ? じゃあここに帝国軍が攻めこんできたのは・・・・・・」
「ああ。軍事利用するためだろうな。」
「そんなもののために・・・・・・」
「しかもあいつらは後一年後にこれを本格投入するつもりだ。」
「一年後、ですか?」
「ああ。あいつらは一年後、秦国に攻め込むつもりだ。」
「っ!?」
さらりと言われた言葉にダンゼルはただただ言葉を失った。
ダンゼル自身、二国間の戦争に参加したことはない。
だがそれでも開発局という最前線で働く人との繋がりのある場所で働いていた彼の耳にはその当時を知る人からの体験談が何十と入ってきていた。
そしてそのすべてに共通していたのは、
『二度とこんなものはやりたくない。』
という言葉だった。どんなに屈強な男も、どんなに頭の切れる男も皆が皆そう言っているのだ。
そして彼らの話は身の毛もよだつものだった。
血で血を洗う戦い。時に誤って味方をも殺してしまうその恐怖。そしてそれを平然とやってのけてしまうその場にいる自分自身。
そのすべてが恐ろしかった。
だがそこまで思い起こして、ダンゼルは自分が戦争に参加していることを思い出した。
(僕も、同じなのか・・・・・・?)
「だから、これはなんとしてでも阻止しなければならない。分かるな?」
「はい。」
それを今の今まで忘れていたことに嫌悪感を覚えながらも、ダンゼルはなんとか普通に龍牙に返した。
今、自分に迷いがあること、それがバレればそれは龍牙に多大な迷惑をかけてしまうと考えたからだった。
だがダンゼルは気づいていない。
それを隠すことがいざというときに足を引っ張るということを。
そう頷きながらダンゼルは少し先で槍を構えゆっくりと進んでいた兵士を撃ちぬいた。
その弾丸は断末魔を挙げることすら許さず的確に命を刈り取った。
もちろん銃声はない。
それは彼らの話し声を漏らさないために張られた風系統の術式によって完璧に打ち消されていた。
これまでに何度も自身に問いかけた言葉をダンゼルはまた脳内で反芻した。
自分は人の命を奪ってまで生きる価値はあるのか?
本当に自分の選んだ道は合っているのか?
そしていつものように答えは出なかった。
歩いてきた通路の陰から辺りを窺うが、龍牙たちが差し掛かった通路には地面に倒れている兵士以外誰もいない。
どうやら彼らの進んだ道はまだ帝国軍があまり通っていなかったようだ。
「行くぞ。」
「はい。」
そしてその最大の問いの答えを模索しながらダンゼルは龍牙の後を追った。
『そろそろか。』
エルデによる人の移動が完了したのを感じ取ったフェリクスは石碑に向かい合い、その金色に輝く額を石碑に押し付けた。
『我は彼の者より天を授けられた者。今ここにその任を終えることを宣言する。』
呪文のようなフェリクスの囁きにざわりと起こらないはずの風がその空間を駆け抜けた。
『我が役目はこの樹の守護神としてここに留まること。だがそれももう叶わない。』
悲しみを含んだその声は誰もいない空間の隅々まで響きわたった。遠くでは戦いが続いているのを表す怒号と悲鳴、獣の雄叫びが途切れることなく続いている。
『彼の者との契約により、我は、『黒』を発動する。』
その一言に樹がざわめいた。比喩ではなく、彼の周りで整然と天に向かって伸びていた幹たちがくねくねとその身体を揺らしているのだ。
何も語れない樹は、その中心でただ無言を貫き平然と佇むフェリクスが見つめる先でその動きでその気配でその恐怖を表現しようと、フェリクスを止めようとしているように見えた。
それでもフェリクスは動かなかった。
石碑から額を離したフェリクスは石像のようにその動きを止め、せわしなく動く周りとは対照的にそこだけ時間が止まっているようだった。
しばらくそのまま固まっていたフェリクスはおもむろにその大きな口を開いた。
『彼の約束の時からもう三千年か。長いようで、短かった。』
ざわめきを増していく空間を愛おしげに見てから今度は頭を上げ、また虚空を見上げた。
『今までただ無機質に生きては来たが……この数年間だけは心地が良かった。』
ハハハッと乾いた笑みを零すフェリクス。チラリと足元を見ると、その足に黒く細長いものが巻きついているのが見えた。それはまるで闇が纏わりついているような恐怖を覚える光景だった。
だがフェリクスはそれを無言で見つめるだけで振りほどこうとはしなかった。それが宿命だと言わんばかりに振り払うよりも受け入れているようにすら見えた。
その黒いものはフェリクスの足に二重、三重に巻き付くと徐々にその体積をを増やし、最終的にそれは黒く太い鎖へと姿を変えていた。
だがそれを見ても尚、フェリクスは平然としていた。
『主は見ていて飽きなかった。自分の孫でも見ているような、そんな気分だった。』
平然と独白を続ける彼の視線の先にいる者。たった数時間しか共にしていない、まだ二十年ほどしか生きていない人間にここまで心を乱されることにフェリクスは驚きながらもどこか喜びを感じていた。
『これまで、我の生きる理由はこの樹を守ること。だが、主が生まれてからこれまで、主の成長を見ることが我の新たな楽しみとなっていた。』
もう一つの生きる目的。それを与えてくれたことがフェリクスを心の中から大きく変えていた。
『かつての我ならこのようなことはしなかっただろうな……』
そう呟くフェリクスに同調するようにまた周りがざわめいた。『あなたらしくない』、とでもいいたげな騒ぎ方だった。
それすらも愉快に思え、フェリクスは口の端を少し歪め、牙をむき出しにした
『もう少し、主の成長を見たかった。いや、これが主と会うための代償だったのかもしれぬな。』
石碑の前で佇んでいるフェリクスは虚空を見上げ呟く……親しい友に別れを告げるように。
そしてまた視線を前に戻すと、今までならなかった金属音を奏でながらどっしりと姿勢を低く構えた。
『さあ、最期の仕上げだ。』
そしてその時は訪れた。
「ガムルさん!!」
「っ!?」
背後からかかった声にガムルはビクッと肩を震わせた。
「ガムルさん?」
背中越しに近づいてくるのがわかる。だがそれでもガムルは動けなかった。
先ほどの自分の本性を見せてしまったのだ。それはたやすく人の心に恐怖という負の感情を植えつけ、そしてそれを恐れ、植えつけたものから離れていく。
今まさにそれが起こる。つまりこの一ヶ月、たった一ヶ月とはいえ人生でも最高とも言えるほどの充実を感じていた生活が消えさってしまうのだ。
それが耐えられるなどとガムルは思えなかった。
だがそれと同時に自分に近づいてくるおぼつかない足取りの少女を気にかけていた。
その二つを天秤にかけたガムルはおもむろに振り返り、こちらへ近づいてくる少女に顔を向けた。
やはり予想通りで右腕を体の前を回すようにして脇腹に手を当てている彼女の体は、今動けているのが不思議なほどボロボロだった。
「ガムルさん・・・・・・っ!?」
「あぶねえ!?」
グラリと大きくふらついた彼女にガムルはとっさに手を差し出した。それは地面につくよりも早くなんとか彼女の体をを受け止めることができた。
「ふぅ・‥・・・あ」
それに安堵の溜息をこぼしたガムルはすぐ目の前にフィロの顔があることに気づきガムルはとっさに目をそらした。
だが少女はそれが気に食わなかったようで、むっとした表情のまま、少しただれた両腕でガムルの顔を挟んだ。
「なんであからさまに目を逸らすんですか?」
「いや、それは・・・・・・」
「それは?」
「うっ・・・・・・」
それ以上何かを言うことなど今のガムルには不可能だった。
どうやってこの状況を切り抜けるか、そう思考を巡らせるガムルにフィロは呆れの混じったため息をこぼした。
「ガムルさん、」
「・・・・・・なんだ?」
「怖かったですよ。」
「っ!?」
「あなたがいなくなるのが。」
「・・・・・・え?」
一瞬強張ったガムルの顔は予想外の展開に目は見開き、口は半開きというなんとも女性に見せられるようなものではない『変な』顔になっていた。
「ふふっ、なんですか? その顔。」
「顔は放っておいてくれ。それよりもなんだって?」
「怖かったんですよ、あなたがいなくなるのが。」
「『俺が』、ではなくて、『俺がいなくなることが』か?」
「だからさっきから何度も言っているじゃないですか。これ言っている方も恥ずかしいんですよ?」
「あ、ああ。悪い。」
そう応えるガムルは上の空だった。あの姿を見てもまだこんなことを言えるこの十五歳の少女がいることが信じられなかったのだ。
「俺が・・・・・・怖くないのか?」
「・・・・・・そりゃあ怖いですよ。」
少し頬をふくらませながらフィロはガムルを睨んだ。
「あんなに本能に身を任せ、骨をすりつぶすまで殴りつけていたら。」
直球で告げられた言葉にガムルは胸がズキリと痛んだ。
だが仕方がなかった。あの『力』を使う代償、それは『自身の心を闇に染め上げる』こと。
これにより理性を消し、本能に身を任せることであの『力』を引出しているのだ。
もちろん冥力が空になればこの暴走は止まり、心からも闇が取り除かれる。だが、それは完璧ではない。
人の心にもともと存在する闇、それに生み出された闇が合成されより深い闇となってその心を蝕んでいくのだ。
その代償と傍から見た自分の姿を考え、前髪で目を隠すようにガムルはうつむいた。
「でもそれ以上にガムルさんがいなくなることのほうが怖かった。」
「え?」
「あの、龍のような状態になったガムルさんからガムルさんの匂いが消えていくのが感じられたんです。だから私は怖かった。二度とガムルさんが戻ってこられないんじゃないかって。」
霧が濃くなったり薄くなったりしていく湿原のようにガムルの表情もまた変化していたが、ガムルは今度こそ言葉を失った。
「でもどうやらいらぬ心配だったようですね。」
「なんでだ?」
「だって、ガムルさんはここにいるじゃないですか。」
そう言いながらフィロは拳を作り、ガムルの厚い胸板を叩いた。
「私がここにいるようにあなたがいる。村にはリューガもダンゼルさんもリタニアさんもいる。みんながいるんです。」
そう告げながらフィロはにこやかに笑ってみせた。
「あなたが心配するようなことは何もありませんよ?」
その言葉にガムルは目が熱くなるのを感じた。
これまでガムルは常に避けられてきた。騎士団にいた時も、騎士団を辞めた後も、この力を使った後は誰もがガムルから目を逸らしてきた。
だが目の前の少女は違う。彼女たちは違う。
自分という存在を受け入れてくれる彼女たちに心の奥の方から熱い何かが湧き出てきたのだ。
ガムルは一度濃い霧に隠された天を仰いでから空いた手で首元にかかっている指輪を握りしめた。
「ごめん。」
「違うでしょう?」
「え?」
「ここはお礼を言う場面ですよ。」
母親かよ、と心で思いながらもガムルは雫が零れないように少し上を向きながら、笑った。
「ありがとう。」
「感動の終幕か?」
「っ!?」
突然響いた声に、ガムルはフィロを抱え上げるとその場からすぐに跳んだ。
ありえない。その驚きを顔に貼りつけたまま、着地し、ガムルは振り返った。
「そんな……」
ガムルに抱えられたフィロもまた目の前の光景に目を見開き、その顔からは血の気が失せていく。
その彼らの前でそれは動いた。
頭部を砕かれ、ぐちゃぐちゃに潰された脳みそがむき出しになっている、先程死んだはずの零号の体が動いているのだ。
「なんで・・・・・・?」
全身から赤い液体を流しながらゆっくりと起き上がるそれは糸に吊るされた人形のようだ。
その死体は砕かれ、ところどころむき出しになっている骨格をカタカタと鳴らしながらも妙に湿った声を発していた。
「かつての仲間の死体を前にして今の仲間の生を喜ぶなんてな。薄情な奴だ。」
「それは、」
意外な追撃にフィロは顔を青ざめさせるが、それ以上の口撃を防ぐためにガムルはその間に体を割りこませた。
「なぜ、生きている?」
「動じないのか……いや、お前なら当然か。」
そう言われるガムルはまた碧く染めた眼を細めた。
「いや、死んでいるさ。」
フィロに対する言及をあっさり止めると零号の死体はケタケタと笑ってみせた。
「これは元々俺の体じゃないからな。」
「は?」
「『傀儡使い(ネクロマンサー)』といえば、分かるだろ? 」
その言葉にガムルは固まった。
「まさか・・・・・・」
そう口からこぼしながらもガムルの眼は確かに捉えていた。零号の体から伸びる注意しなければ見逃してしまうほどの微かな冥力の糸を。
それに今の今まで気づけなかったことを悔やみながら、ガムルは右腕に握りしめたままの機械剣を構えた。
だが、死体は一切動かず、ケタケタと歪んだ顎を鳴らした。
「と言っても俺の力じゃない。俺にはこの力に『適正』がなかったからな。」
「なら誰だ!? その力を使っているのは!?」
「さあな。それよりも急いだらどうだ?」
「何?」
ケタケタと耳障りな笑い声を上げながらそれはガムルたちの背後を指さした。
「お前の大切な仲間とやらが死んでしまうぞ?」
その言葉にハッとしたガムルはすぐさま後ろを振り返った。
「そんな・・・・・・」
薄くなっていく霧の先、ガムルをこの場所へ連れてきたあの樹。
それが燃えているのだ。真っ黒な漆黒の炎に。
「お前!! 何をした!?」
「何もしてないさ。そう仕向けはしたがな。」
「てめえ……」
大声を上げるガムルにまたケタケタと笑うと糸を切られたように零号の体は地面に崩れ落ちた。
「急いだほうがいいぞ。」
最後の一言を伝え終えたそれは息絶えているのは明らかだった。
それに目を奪われることもなくガムルはすぐにその樹に駆け寄った。
暗い空間の中、体を横たえていたレイは奇妙な熱気にその意識を取り戻した。
「ここは……」
『やっと気づいたか。』
「えっ?」
突然頭上からかけられた聞き覚えのない声にレイは周囲を確認するよりも早く飛び起きた……かったのだがその身体はピクリとも動かなかった。
『ふっ、あれだけ冥力を搾り出されては仕方がないだろう。』
「あなたは……っ!?」
自分の頭上に立つその存在を認識したレイは言うことを聞かない身体に鞭を打ちながらも、なんとか跪く姿勢にまで自分の身体を持ち上げた。
『フフ、無理をするでない。』
穏やかな優しい光を満たした目を向けられたレイはゆっくりと視線を上げ、目を見開いた。
「っ!? その身体は」
『ん? ああ。これか。』
ことも無げに返すフェリクスの身体は「これか」などで済まされる状況ではなかった。
その身体にはあの漆黒の鎖が巻き付き、全身から血が滴り落ちているのだ。
一本一本が大蛇ほどもあるそれは、あの石碑から伸び、フェリクスに一切の身じろぎすら許さないほどきつく強く絡まっている。
そこまで見たところでレイは現状を理解した。
「まさか、私のために『黒』を!?」
『勘違いをするでない。これは主のためではない。』
「じゃあ、なぜ……!?」
『あの男を助けるためだ。』
「あの男?」
『ああ。とてつもなく不器用だが、他人のためにどこまでも真っ直ぐになれる/そのような男だ。』
そう感慨深げに告げるフェリクスにレイは言葉を失い、ただ虚空を眺めるその姿を見つめるしかできなかった。
『主もあの男のようにもう少し自分に素直になればどうだ?』
「えっ?」
いきなりの方向転換にレイは戸惑いの色を浮かべた。
『主のこの里を思うその気持はよくわかる。だが、あまりにも一人よがりになりすぎた。』
「……」
何も言えなかった。
目の前にある神々しいその存在のせい、というのもあるがそれ以上に自分の非を的確につかれていたからだ。
そして何より、今、フェリクスがこうなっているのは間接的に自分のせいだと認識していた。
『本当にこの方法しかなかったのか? もっと他に方法があったはずだろうに。』
「それは……」
なかった。いや、なかったと思っていた。
ラウルの言い分は理解できる。だが、納得は出来なかった。
彼らの言う外の世界に行こうという言葉。それがレイには今いるこの里を捨てるということに聞こえていたのだ。
事実、元々住んでいた場所へ戻ろうというのが彼らの言い分からして間違った認識ではない。
確かに彼らにとってかつてレイ達の先祖が住んでいた土地に戻りたいと思うことは間違っていない。
だが、それ以上にレイは自分が生まれ育ったこの土地を心から愛していたのだ。
しかしそこに恐れていたものが来た。
そう、帝国軍である。
帝国軍の侵攻により、長らく保留されてきたこの話は反対派を押し切る形で一気に推し進められてしまったのだ。
そこで考えた。
ならば、帝国軍ですら恐れるほどの力を味方につければいいのではないのか。
そして、そんなある日、レイはあの男に会ったのだ。
『主は結局、他の者の言うとおりに動いたにすぎぬ。それで何が変わるというのだ?』
「……」
もう何も言えなかった。呼吸をすることすら、この場に存在することすら拒絶されているようなそんな緊張感がレイの中で駆け巡っていた。
確かにそのとおりなのだ。
たまたま森の中で猛獣から助けてもらったその男を信用してしまったのだ。これまで十数年共にしてきた仲間よりも、その男を信用してしまったのだ。
今更ながらにその自分が犯した過ちにレイは悔しさで目元が熱くなるのを感じた。
だがここで流してはいけない。
レイは必死に目に力をこめ、零れないようにするが、その努力はそう長くは持たなかった。肩の震えと共に彼の頬に一本、透明な筋を創りだしていた。
弁解しよう。そう思い口を開くが、ただ震える吐息だけが零れた。
「お、俺は……」
『だが、その思いの強さは本物だ。』
「えっ?」
その言葉に流れる涙も気にせずにレイはガバッと顔を上げた。
『確かに方法には問題があったかもしれない。だが、それは私利私欲のためではなく、この里のことを思ってだ、ということは理解している。』
徐々に黒の面積を増していく中、フェリクスは虚空を彷徨わせていた視線をゆっくりとレイに戻した。
『その思いを本当の仲間と共に使え。そうすれば主の願いは現実となる。』
「っ……本当、ですか?」
『嘘をついてどうする?』
顔を上げた先にある牙をむき出しにして笑う獣の姿にレイは前が見えないほど涙を溢れかえらせ、深々と頭を下げた。
「ありがとう、ございます。」
『フフ、いい顔だ。』
うれしそうに呟くフェリクス。だが、彼はふと何かに気づいたのか、チラリと背後を振り返った。
『む?』
彼の背後に数えきれない程の鎖が生えた石碑。その表面に白い筋が走ったのが見えたかと思うとそれはすぐにその大きさを増し、ついにはそこに大きな白い円を浮かび上がらせていた。
『これは……』
「フェリクス!!」
白一色の道を駆け抜けたガムルは木の根で埋め尽くされた床の上で周囲を見回すよりも早く鼻を抑えた。
「なんつう匂いだ……」
彼の予定では直接あの石碑の部屋にたどり着くはずだったのだが、その予想に反して彼が出たのは先程の石碑の部屋ではなく、以前フィリーズから移動してきたときに出た場所だった。
そこでもまた戦闘が行われたのだろう。彼の周りでは、自分が孤島にいるように思えるほどの血の海が出来上がっていた。さらにその周囲で燃え盛っている黒炎がその血の海を気化させ、さらなる異臭をまき散らしていた。
彼らの周りで転がる死体から発せられる異臭にガムルは袖で鼻を抑えながら、自分の頭の中にある地図を広げ、経路の確認を始めた。
(確か、ここをまっすぐ進めば着くはず……)
「フィロ、」
「はい。」
同じように血が発するべたりと肌に張り付くようなしつこい匂いに空いた手で鼻を抑えていたフィロは、ガムルの呼びかけにすぐに彼の元へ駆け寄った。
脇腹を押さえるその姿に若干の危うさを感じながらもガムルは続けた。
「お前はここからずっとまっすぐに進め。そうすればラウルの屋敷の上に出る。」
「ガムルさんは?」
「俺は途中で寄り道していく。行くぞ。」
「はい。」
なぜ、と尋ねられるかと考えていたガムルは少女の理解の速さに感謝した。
そんな短い確認の後、二人は駆け出した。
ぐねぐねと曲がる通路は、ところどころ黒炎に覆われ、一目で危険な状態であるのは明らかだった。
しかも、帝国軍とキメラの戦闘が行われているのだ。その通路では至る所で天井が崩れ、壁が抉られ、地面が陥没している。
だがそれでもガムルたちは速度を緩めることはなかった。
現状から見て、もうほとんど余裕がないのは明らか。
そんななんとも言えない焦りに支配されながら突き進んでいたガムルに速度を緩めるなどという考えが浮かぶはずもなかった。
そしてそのまま五分もしないうちにガムル達はあの広い空間へと通ずる分かれ道に差し掛かっていた。
「フィロ、俺はこっちに行く。お前はそのまま真っ直ぐに進んでくれ。」
この先に帝国軍が潜んでいるかもしれないが、これからガムルが進もうとする道へ連れていくのとを比べるとそれが最良の選択と言えた。
だがそれでもフィロを一人にすることに危険を感じていないわけではない。
指で進行方向を示しながらもガムルは迷っていた。
自分の目的のためにはこの道を進まなければならないが、それはフィロを見捨てるのと同義になる。
そんなガムルの動揺を感じ取ったのだろう。小さく震えるガムルの手をそっと包み込みフィロは力強く頷いた。
「大丈夫ですよ。私は今のガムルさんよりは強いですから。」
「……ふっ」
しっかりとした意志の込められた言葉にガムルは口元を少し歪めながら頷いた。
「……戻ってきてくださいね?」
「ああ。」
その言葉を後押しに、ガムルは一度止めた足をまた踏み出した。
その空間は崇神派の言う地獄のようだった。
四方八方を黒炎に囲まれる中、人とキメラが尚も殺し合いを続けているのだ。
その醜い惨状を横目にガムルは先程フェリクスに案内された通路を目指した。
途中、銃を構え攻撃してくる兵士がいたが、ガムルは機械剣すら抜かず、その拳に冥力を纏わせ、殴りつけた。
「がっ!! うわあああああああああああ!!」
一般の兵士が冥力で強化され、勢いのついたガムルの拳に耐えられるわけもない。
その身体は容易く吹き飛ばされ、一度も地面に着くことなく周りで燃え盛る黒炎の中へと飛び込んだ。
「くそっ!!」
あまりの後味の悪さに一瞬吐き気を覚えたが、それを全力で押しとどめ、ガムルは滑りこむようにしてその通路に入り込んだ。
帝国軍に荒らされる前にこの騒動になったのだろう。中はガムルが最初に通った時とそれほど変わりはなかった。
それに少し安心感を覚えながら、あまり長くない道のりを急いだ。
一度、二度、三度、緩やかな曲がり角を折れ、そして目的地に辿り着いたガムルは、
「フェ、フェリクス!!」
見てしまった。
黒い鎖に縛り付けられたその巨躯に、
白銀の刃が突き刺されるのを。
「なんで……」
ガムルは目の前が真っ暗になるのを感じた。
だがそれはガムルの精神によるものではない。ただ、黒炎がさらに燃え広がり、頭上から差し込んでいた光が遮られているのだ。
そんな中でもガムルは見逃すことがなかった。
横たわるフェリクスの身体から剣を引きぬくその人物の素顔を。
「邪魔が来たか。」
「っ、お前は……」
この場にふさわしくない、黒いスーツを纏い、白髪混じりの黒髪をした男。それはガムルが最も憎み、この旅を続ける最大の理由。
「久しぶりと言うべきか? 『ガムル=ランパード』」
「ノーブル=ヘイル=ロザンツ……」
彼の敵である『皇帝』がガムルの目の前にいた。
「なぜお前がここにいる……!?」
自分の脳がこれまでにないほどに沸騰していくのが感じ取れた。
額には血管が浮き上がり、その歯は下唇を血が滲むほど噛み締めている。
それもそのはず、彼がこのような運命をたどった『全ての理由』はこの男にあるのだから。
「ふん。お前に話すことなどない。」
「なんだと!?」
「それに私よりもまずは自分の身を案じたらどうだ?」
「ふざけんな!!」
瞬時に展開した機械剣に冥力を流し込み、赤い術式を発現させた。
その術式が空中に描き終えると同時に、吐き出されるのは人の背丈ほどもある炎弾。
それは周りの熱気に更にその火力を強めながら一切のズレなく皇帝に向かっていく。
「ふん。くだらん。」
だがそれが着弾する直前、空気を薙ぐように軽くその剣によって薙ぎ払われていた。
「くそっ」
『ガムル……逃げろ』
「フェリクス!!」
弱々しい声ににガムルは沸騰していた頭が一気に冷めていくのを感じた。
あの神々しさを秘めた威厳のある声がここまで弱っていることにショックを受けたのもあるがそのまだ強い光を宿したその瞳にガムルの怒りは抑えこまれていた。
「まだ息があったか。」
ガムルが冷静さを取り戻している間にも『皇帝』はただ冷酷にその剣を構えた。
『我は……そう簡単にくたばらぬ。』
「そうか。だが私も忙しい身でな。次で消えてもらおうか。」
「させるか!!」
だが、今度こそ冷静さを取り戻したガムルが自身の機械剣でその剣を弾いた。
軌道をずらされた剣は穿つはずだった喉を外れ、その黄金の毛を一束切り落とすに留まっていた。
「ちっ、雑魚が。」
横たわるフェリクスと共に少し距離を取ったガムルを睨みつけながら、ノーブルは吐き捨てるように呟いた。
ガムルへと向けられる冷たい視線。そこでガムルは気づいた。
この男は、『自分を敵としてすら見ていない』
その辺りに転がる石のように、ガムルはノーブルにとって単なる障害でしかないのだ。
底の見えない純粋な殺意をその身体から放ちながら、ノーブルは何を思ったのか剣をだらりと下げた
その構えとも見えない構えに視線を固定しながらガムルは機械剣を握る感触を確かめた。
先ほどの一撃は鋭い踏み込みから足、腰、肩、腕と順番に力を伝えられた渾身の一撃と言える攻撃だった。にも関わらず、目の前の四十半ばに見える男の剣を僅かにずらすことしかできなかった。それどころか、ガムルの手には鋼鉄でも殴ったような鈍い衝撃がそこにはあった。
(なんつう力なんだよ、あの爺さんは。)
「私も老いたな。この程度の小僧に剣筋を乱されるとは。」
「余裕ぶっこいてるんじゃねえよ。」
「余裕? そんなものではない。ただ単純な格の差を述べただけだが?」
ガムルは何か言おうと口を開くが何も言えなかった。事実、かなりの力の差がそこにはあった。
零号との戦闘のせいでガムルの冥力はそこを尽き、斬撃においても先程以上の威力は今のガムルには出しようがなかったのだ。
だが、たとえ全力であったとしても、ガムルには彼がノーブルに一撃をいれる場面がが全く想像できなかった。
(さて、どうする?)
ガムルはノーブルに気付かれないようにそっと辺りを窺った。
かなり火の手は回っているようで、もう壁は逆に燃えていない場所の方が少なく、またその火によって酸素が失われているのだろう。呼吸はできるのにどうにも息苦しさをぬぐい去れない。
現状は最悪だった。
戦ったとしてもこの実力差ではもう負けは見えている。
かと言って、逃げようにもフェリクスを抱えた状態ではこの業火の中では難しい。
八方塞がりだった。
(どうする? どうする!?)
そんな心境を知ってか知らずか、それとも知っていて知らないふりをしているのか、ノーブルは無表情に一歩ガムルに向けて踏み出した。
ザッと木の根が踏みしめられる。
そして踏み出された右足に貯められた力が解放されたその瞬間、
プルプルプルプル
「ん?」
胸元から漏れた電子音にノーブルは落としていた姿勢を戻し、懐に手を伸ばした。
背広の内側を少しまさぐり、引きぬかれた右手には小型の通信機が握られていた。
その画面を無言で見つめていたノーブルはそれを背広の中に戻すと、握っていた剣を棒状に戻した。
「本当はお前たちを始末したいところだが……どうやらもう限界のようだ。」
「限界だと?」
どういう意味だ、敵の策かと探りを入れるガムルにノーブルは軽く肩を竦めた。
「そこに横たわっているのが『いらないこと』をしたのでな。後、幾分もしない内にここの力は失われるだろう。」
「なるほど、お家に帰れなくなるってか?」
「……調子に乗るなよ、ガキ。」
ガムルの挑発にノーブルは冷たい視線と言葉を向けた。
少しでも自分を鼓舞しようと放った言葉だったが、それが逆に心臓にナイフを突きつけられたような重く鋭い殺気となってガムルの口を凍ったように縫いつけていた。
全身から滝のように汗が出てくる。
たった一睨みでここまでの力の差を見せつけられるなど、ガムルにとって初めての経験だった。
それ故に、どうすればいいのかわからない。ガムルは一種の錯乱状態に陥っていた。
おそらくそのような者たちを数多く見てきたのだろう。ノーブルは一ミリも動けないガムルに呆れたように蔑むように、ふん、と鼻を鳴らした。
「くだらん。」
固まるガムルに背を向け、私室に入るような一切の躊躇いなく石碑に触れた。
「見逃してもらったことを有りがたく思え。」
冷ややかに言葉を吐き捨てながら皇帝はその場から姿を消した。
「フィロちゃん!!」
ガムルの指示通り出口へ向けて走っていたフィロは横からかかった声にたまらず足を止めた。
「ダンゼルさん!! それにリューガも!! なぜここに?」
「君たちが心配だったからだよ。とりあえず先にここを出よう。ガムルさんは?」
「それが……」
フィロは言葉を濁すとダンゼルから視線を外し、自分が走ってきた方を見た。
「まだ何かしているのか。」
その仕草から察した龍牙がほぼ確信したように続けた。
「……うん。友達を助けるって。」
「友達って、ガムルさんってここに来るの初めてだよね? 友達なんて……」
「ううん。そんなのじゃないんです。」
そう言いながらもう一度、暗い通路を見た。
もくもくと止めどなく煙が吐き出され、何かが燃える匂いと熱気がその顔を煽っていく。
「ダンゼル、お前はフィロを連れて先に行け。」
「またですか? 全く……わかりましたよ。」
渋々といった具合に頷くとダンゼルはフィロに近づき「大丈夫?」と声をかけながらやや駆け足で出口へと向かった。
それを気配で感じ取りながら龍牙はピクリと眉を揺らした。
「誰がいるんだ?」
この場所は元々強い気配で満ちていた。だがそれが弱まってきている今だからこそ分かる。この通路の先に強い気配が三つあることを。
そのうちの一つはガムルだろうがまだ二つ残っている。そしてそのうちの一つ。どこまでも主張の強い、だが冷たく鋭い気配は間違えようがなかった。
(皇帝か。)
彼の中で答えが出たときにはもう走り出していた。
激しく燃え盛る黒い炎を飛び越え、上から崩れてくる瓦礫を躱しながら龍牙は最高速度にまで加速した。
目の前にいた気配は消えた。だが、ガムルはまだ動くことができなかった。
それは、疲れや未だ身体が恐怖に硬直していることもあるが、それ以上に、自身の『敵』を前に何もできなかったことへの憤りが大きかった。
「くそぉっ……」
拘束から解き放たれたガムルの口から零れた悔しさ。それを口火にどこにも向けようのない激情がガムルの身体を震わせた。
涙はでない、だが代わりに彼の全身が泣いていた。
墓前での誓いを果たせなかった自身の不甲斐なさに。
『ガムル、』
だがそんな自虐は背後から聞こえた弱々しい声に吹き飛ばされた。
凍りついた大地に温かい風が吹くように、ガムルの心はその一言で平常心へと戻されていた。
「……なんでお前の声は聞いていて安心するんだろうな?」
『さあな。もしや我は主の祖先なのかもしれぬな。』
「おいおい。俺はれっきとした『龍』の一族だぞ?」
『わかっている。言ってみただけだ。』
そこで沈黙に陥りそうになっていたが、状況をお互い理解していたのだろう。すぐに二の句が継がれた。
『我はもうここで死ぬ。だからそのまえに主との誓いを果たせねばならぬ。』
「……ああ。頼む。」
胸がズキリと痛んだが、時間がないのはガムルも理解している。おそらく当て身でも受けたのであろう気絶したレイを抱えて逃げるの考えるともうほとんど時間は残っていなかった。
『かの兵器。その存在を知りたいのならば……』
「知りたいなら?」
『……主の故郷へ行け。』
意外な場所にガムルはあからさまに眉をひそめた。
「故郷? だけど、あそこにはもう何も……」
『行けば分かる。主もよく知る場所。そのさらに奥に真実は隠されている。だが、』
「だが?」
『それを開くにはある石が必要になる。』
「石?」
『『太陽石』と呼ばれる石だ。』
「『太陽石』……」
『ありかは我にもわからぬ。ただ、『この国』にはないようだ。』
「じゃあ残りの二つに?」
『ああ。』
「これが、お前が俺に答えられる全てか?」
『そうだ。』
口から少なくない血液を吐き出しながらフェリクスは頷いた。
もうその命は長くない。そうこの二人は悟っていた。
「分かった。」
『フフ……楽しかったぞ。』
「俺もだ。」
何が、などと野暮なことは聞かない。
ガムルもまたこのキメラと過ごした時間を心地よく感じていたのだ。だからこそ何も言わない。
彼らの思い出を笑顔で終わらせるために。
「なあ。お前のその毛、もらってもいいか?」
『フッ、別に構わないが?』
「そっか。」
フェリクスのもとに歩み寄り、ノーブルが切り落とした毛の束を手に取った。
それは金とは違う透明感のある綺麗な金色の毛だった。
それを大切そうにポケットに入れると、ガムルは石碑から離れ、地面に転がるレイを肩に担ぎ上げた。
もう時間はあまり残されていない。それでも出口へ向かうガムルの足取りはゆっくりだった。なぜか、走りたくなかったのだ。
そして通路へと辿り着いたところで後ろから感じる視線にガムルは軽く手を上げて見せた。
「じゃあな、フェリクス。『また会おうぜ』。」
だがその背中を見ていたフェリクスは指摘もせず愉快気に笑った。
肩ほどまで上げた手もその肩も細かく震えているのを必死に隠そうと、こっちへ全く顔を向けないガムルがおかしく思えたのだ。
『ああ。『また』どこかで会うとしよう。』
これまでにないほど大きな声で笑いながら、フェリクスは目尻に涙を貯めた瞳をゆっくりと閉じた。