濃い霧の中で 第六話
「フィロ……ごめんな。」
心と同じく黒く染まっていく自分の腕をその少女に突き出しながらガムルは呟いた。
「俺が、『俺』という存在を隠しているからこんなことになったんだよな。」
「ピィー」
そんな彼を子豚が見上げてきた。恐怖かそれとも威嚇か。そう予想を付けながらその目を見れば……違った。
その子豚の目に映っていたのは恐怖でも威嚇でも、ましては哀れみでもない。純粋な期待の目だった。
それを意外に思う間にも彼の指先から変化は起こっていく。
指先に僅かに灯る黒い、輝くことのない玉を生み出すと、それを雫のように少女にポトリと一つ落とした。
ゆらゆらと形を変えながら同じ黒い炎と触れると、一瞬白い光が弾けた後、炎は霧散をはじめ、それが落ちてから一秒足らずで少女の背中から炎は消え去っていた。
だがガムルの表情が浮かばれることはなかった。
その炎が消え去った今、少女のその白磁色だった肌が赤く焼けただれているのが露になったのだ。
「本当に、ごめんな。」
「ピー」
炎の消えた彼女に寄り添いながら子豚は短く鳴いた。
許してくれるよ。そう言っている気がした。
その子豚の頭を撫でながらガムルはもう一度彼女を見た。
額にびっしりと浮かぶ大粒の汗。それを拭ってやり、自分の上着をその露になった背中にかけてやると、ガムルは背を向け、右手を顔の前にかざした。
『殺るのか?』
「ああ。」
脳内に響く先ほど聞いた声にそう返しながらガムルはフィロをその場に残し、天に伸びる泥の壁の中に足を踏み出した。
『そうか。久しぶりのお前の本気、楽しみにしているぜぇ?』
わざとかそれとも素でなのか、どちらにしても不謹慎なその言葉にガムルは一言も答えず、代わりにかざしていた手を脳天から顎まで素早く動かした。
その手の平から黒い煙が彼の顔に向かって吐き出されていく。それはしばらく宙をふわふわと漂っていたが、それはガムルの顔に付着すると同時に変化した。
徐々に鋼のように無機質な輝きを発しながらはっきりとした形を成していくと、ついには漆黒に塗り固められた龍を模した鎧兜に変わっていた。
だがそれは単なる武具ではないことは明らかだった。
豹変したガムルの気配に脳内に響く声は久々の相棒のその姿に懐かしさを覚えたのだろう。最後にただ一言、満足げに告げた。
『征ってこい、狼牙』
すぐに重力に負け、落ちてきた泥の中から現れたものに男は怪訝な顔をした。
泥の滝をまるでそこだけ空間が切り取られたように分けて出てくる異形のもの。
一切の汚れなき、漆黒の存在。
「それがお前の……」
「ああ。本当の姿だ。」
鎧兜の奥から聞こえる声はガムルのもの。だがその身体は明らかに違っていた。
その逞しい身体は心無しか縮まり、表面は黒い鱗で被われ、手足はその漆黒の鱗に覆われ獣の爪のように鋭く尖っていた。
そして何より彼の今の体で主張しているもの、それは、
背中に広がる一対の漆黒の翼だった。
その身体から滲み出ている絶対的な力、冥力量、気配に男は自然と体を震わせながらその口を歪めた。
「面白い……」
その口ぶりに雪原のように冷め切ったガムルの意識はゆっくりと目の前の男に向けられた。
ゾクリ、まさにそんな音が聞こえそうなほど男の背筋に寒気が走る。どこまでも冷たく、自分は死んでいるのではと勘違いしそうになるほど彼の眼は、氷のように冷たく碧かった。
「彼のものより与えられし六つの天。その力をお前はまだ分かっていない。」
「何?」
くぐもったガムルの不可解な言葉に男は顔をしかめた。
彼も『黒天』を持つ者、力はよく理解していた。にも関わらずこの男は分かっていないという。
侮辱か。そう考えたがガムルの瞳にはそのような侮蔑の色はなかった。(実際、ガムルは男をその辺りに転がる虫程度にしか考えていなかったのだが。)
ならば、本当にまだなにかあるのでは。そう考えた男はチラリと自分の盾に目を落とした。
その一瞬、たった一瞬で視線を戻した男の目の前に黒い仮面の男が立ちはだかっていた。
すぐさま構えようとするが、持ち上げようとした右腕はその起点を抑えられピクリとも動かなかった。
「六つの中でただ二つだけ、特別な力、『神』の力を取り込んだものがある。」
「は?」
男がこれまでにない間抜けな声を出したのも無理はない。
その声の意味は『驚き』よりも『呆れ』。
『神』などという言葉をここで引っ張り出してきたガムルの真意が全く読めなかったのだ。
この世界では『神』という言葉を使う者は少ない。というよりもその存在を認知している者が少なかった。
『絶対的な存在』
それを彼らはこれまで深く考えずに過ごし、またそのような存在を説く者を精神異常者のように扱っていたのだ。
なぜ世界は存在するのか。
なぜ自分達は存在するのか。
なぜ自分達はこの世界にいるのか。
その当然の疑問を疑問と思うことをほとんどの人間が放棄していたのだ。
その中でもただひたすらその言葉を紡ぐ人間、それを『崇神派』と呼び、この国では迫害の対象となっている。
もちろんのこと男はそのようなものの存在を認めていない大多数の方の人間だった。
だからこそ疑問に思った。なぜここでガムルはそんな少数派の主張を出してきたのか。男には皆目検討がつかなかった。
「この世界を想像したもの、『神』と呼ばれる存在が自らの血を吸わせ作った破天石。」
「その一つが『崩天』だと? ただ姿形が変わった程度で何を……」
何を妄言を、と続くはずの男の発言を遮り、蔑むような視線が向けられた。
「まだ分かっていないのか……哀れだな。」
もう『この状態』に入ったガムルにこの男に対する怒りは消え去っていた。
代わりに満たされていくのは空虚感だった。
目の前の倒すことなど容易い男にしてやられたことを、ガムルは自我が消えていく中で歯がゆく感じていたのだ。
「神が有する二つの絶対的な力。
『創造』と『破壊』。
残りの四つはこの二つによる副産物でしかないんだよ。」
「……だからなんだ? そんなもの、」
「分からないか。ならいい。もうお前に話すことは何もない。」
そう静かに告げるとガムルは横たわるフィロの前まで跳んだ。
「消してやる。お前のくだらない炎と共にな。」
「リューガさん!!」
樹の方へ走っていた龍牙は飛んできた聞き間違えるはずのない声に目だけをその方向に向けた。
「ダンゼルか……」
「どこに行くんですか?」
「あの樹だ。」
進行方向を指し示す龍牙にダンゼルは怪訝そうな表情を向けた。
「あの樹ってラウルさんの屋敷の方ですよね。あそこに何か?」
そう先程ダンゼルは、リタニアをその樹の麓にある屋敷にまで運んでいたのだ。
その時にもちろんのこと屋敷の周辺の探索は済ませている。にも関わらずまたそこへ向かうという龍牙の判断に納得できなかったのだ。
そんなダンゼルに龍牙はただ冷静に答えた。
「ああ。面倒ごとが大量にあるようだ。」
「え?」
そしてもう一度向けられた視線を辿り、ダンゼルは叫びそうになった。
「……そんな、」
ダンゼルの視線の先で、丁度彼が視線を向けた瞬間、黒い煙が樹の中から吹き出したのだ。
その量は龍牙たちが瞬きを繰り返す度に増えていき、ついにはその表面にまでその炎は姿を現していた。
それを見ながらもダンゼルは思考を続けていたのだろう。その光景を捉えたまま少し前を行く龍牙の表情を窺い、現状を理解した。
「もしかしてガムルさん達はあそこに!?」
「ああ。」
若干の焦りを見せるダンゼルを宥めようともせず龍牙はその足を速めた。
パキッ、と足元で屋根が踏み砕かれる音が響くが気にしない。本来の彼の強靭な筋肉にさらに冥力を流し込みさらなる跳躍力を生み出し、より前へと進んでいく。
その行動が答えのようだった。
龍牙は焦っていた。
ガムル達の気配があの中に消えたことそれ以上に、あの樹から発せられるただならぬ力の波動。それが龍牙の頭の中で本能が根拠のない警鐘を鳴らしていた。
「このまま乗り込むべきか、否か……」
呟きながら龍牙はもう一度樹を眺め回し、そして捉えた。
幹と幹の間で絶え間なく通り過ぎていく帝国軍の兵士たちを。
それを見たダンゼルはつい足を止めてしまった。
「なんでこんなところまで帝国軍が……それにあの数、さっきまでそんな気配すらなかったのに……」
龍牙は驚きを隠せないといった顔をするダンゼルを空中で見ていた。
つい先ほどまで、ガムル達と入れ違いになるあの時まで、あの樹の麓にある屋敷にいたのだ。
なぜ気付けなかったのか、そう思わない方がおかしい。
現にダンゼルは無意識にだろう、唇を強くかみしめていた。
「行くぞ。」
だが龍牙が紡いだのは過去の慰めではなく、現在の指示。それを取り返すための命令だった。
元よりこれは。察知できなくて当然の事態であったのもまた事実。ここで士気を落とすべきではないが、かと言って、説明をする時間も惜しい。
そこで龍牙は都合よく事を運ぶために敢えてこの言い方をしたのだった。
そこまで理解しているのか定かではないが、ダンゼルは頷くとすぐにまた走り出した。
「遅れるな。」
「はい!!」
今後の方針を確認し終えた龍牙達はそのまま自分たちの最高速度にまで速度を上げた。
「潰す!!」
ザッと地面を弾けさせながら飛び出した男は一直線にガムルへと駆けていく。
変な策を練られる前に潰す。
先程までの優位を考えれば当然の行動だった。
だが、その考えはここでは間違いだった。なぜなら、ガムルは策を用意したのではなく、その力を増強しただけなのだから。
真っ直ぐ何の工夫もない。だが先程までのガムルならば避けるので精一杯だった突きが繰り出される。
それは一切の狂いなく、ガムルの体の中心へと打ち出された。
「なっ!?」
しかしそれが彼の胸板を叩くことはなかった。
その黒く重厚な盾が胸の前にかざされた手に受け止められていたのだ。
だが男が驚いたのはそこではない。受け止めたその先、『なぜこの男は受け止めて平然としているのか』ということだった。
そう思うのは、彼が突き出した盾の先端にあの黒炎を灯していたのだ。
なのに目の前の男にはその漆黒の鎧に一切燃え移っていない。完璧にかき消されているのだ。
「なぜ?」
驚愕を顔に浮かべたまま、男は回避行動を取るが宙に浮いた身体はあっけなく引き止められた。
あまりの驚きに気づけなかったのだろう。ガムルがその盾をしっかりと握っていることに。
「言ったはずだ。お前のは所詮は副産物でしかないと。」
「くそっ!!」
男はまた引きずりおろされた地面を踏みしめると盾に先程以上の、盾そのものを覆うほどの黒炎を生み出した。
そしてその奔流はそのままなんの抵抗もなくガムルの身体を駆け巡っていく。
黒の上をさらに黒で塗りつぶすように炎は生き物のように走り回り、ついにガムルの身体を覆いきった。
それを確認した男は力の弱まった腕を蹴り上げ、大きく後ろに飛び退いた。
空中で一回転、その後泥を弾かせながら着地。足元まであるコートの裾はもう泥まみれで重さを増している。
だが男はそんなことを気にしている余裕すらなかった。
「まさか……?」
男はただひたすら彼の前で繰り広げられる光景に目を奪われていた。
「俺の、炎が……」
ガムルの身体を覆っている炎。それが激しく揺らめいたかと思うとそれは細かい霧状になって霧散したのだ。
「一体、なにが……」
「それも言ったはずだ。『零号』」
顔全面を覆ったせいだろう。その声はくぐもっている。だがそれが逆に男の恐怖を煽っていた。
「これが崩天の、『神』の力だ。」
神は神でも魔神だけどな、と心の中で自分を嘲笑う言葉を連ねるがそれが相手に伝わることがないのをガムルは理解していた。
飛んでくる人の胴ほどもある熱線を左手で受け止めながらガムルは口元を歪めた。
ガムルは可笑しくて仕方がなかった。
この力を使うたびに黒く染まっていく自分の心が。
この程度で染められる自分の心の弱さを。
そして、このような力を使わなければならない自分の弱さを。
その嘲りの笑みを元に戻し、目の前の零号を見れば目をこれでもかと見開いていた。
(そりゃあそうなるよな。)
その顔を見るたびにこの力を恨めしく思ってしまう自分にガムルは嫌気が刺していた。
人は本能的に誰かを服従させる力を欲している。そしてそれを使うことを、快楽を求め続ける。
ガムルの体はその力を使うことを、相手がそれに怯えていることを喜んでいるのだ。
そしてさらなる快楽を求め、ガムルの身体は動いた。
「ぬっ!?」
地面スレスレを疾走する黒い鎧に零号は咄嗟に盾を前にかざすが、
「ハァッ!!」
「グッ!?」
それは鋭い踏み込みと共に下段から振り出された斧に大きく弾かれた。
ビリビリと痺れる腕に顔をしかめながら回避行動を取ろうとする男だが、視線を前に向けると既にガムルは次の攻撃、振り下ろす構えに入っていた。
その構えを見た零号の顔は驚愕に固まっていた。
振り上げた斧をすぐさま切り替えしたにしても早すぎる。先程までのガムルとは反応速度、威力と共に段違いだった。
零号は通常の回避では間に合わないとすぐに判断したのだろう。咄嗟に足下に術式を構築し回避を試みるが……今のガムルは彼の予測を軽く凌駕していた。
彼の目がボッとガムルの斧の背後で何かが弾けるのを捉えた瞬間、
「ぐふっ」
零号の口から吐息が溢れた。
左肩から右脇腹まで走る熱。それが自分が斬られたのだと理解するころには零号は五メートルほど吹き飛ばされ、地面に落下していた。
背中から地面に落ちた零号はぐにゃりと歪む視界で自分の身体を見下ろした。
左肩から脇腹まで切り裂かれた黒いコートは一直線に切り裂かれ、その下からドプリと赤い血が湧き出している。
「ちっ……」
あからさまな舌打ちを零しながら零号は左腕で地面に手を着き、その反動で大きく後ろへ。
その間にも男は右腕に冥力を小刻みに流していく。
それはいくつもの黒い輝きを伴い、迫り来るガムルの前で十もの術式となって姿を現した。
ドゴオオオォォォォォォン
派手な爆発音が轟くが、零号は攻撃の手を緩めない。
先ほど、必ず殺せる。そう確信しながら放った炎が1ミリも焼くこともなく消し去られたのだ。手傷を全く負わないということは考えにくいが、決定だとなることも考えられなかった。
「ハアァッ!!」
雄叫びを上げながら零号はさらに術式を構築していく。
黒い輝きはその度に増して行き、ついには今までにない大爆発を巻き起こした。
あまりの大音響に周囲の音が全て消えていく。
だが零号の表情は浮かばれなかった。
通常ならば相手の死を疑うことはなかった。
このような波状攻撃を全て真正面から受けて生き残れる生命体などいない、と嘲笑っていただろう。
だが、それは間違いだった。
「……」
言葉を紡げず、零号は血走った目で球状に広がる爆発を見つめた。
そう彼は思い違いをしていた。
パキッ
何もない湿原を駆けるガラスが割れるような音。
その出処たる場所から零号は目を離せなかった。
黒く獰猛な炎がピタリと動きを止めると、白い筋が縦横無尽に駆け回り、
「そん、な……」
砂のように崩れさった。
「これがお前の力か?」
その砂嵐の中から出てくる男から零号は目を離せなかった。
あれほどの威力、あれほどの熱量を真正面から受けながらその身体には一切の焦げ目がない。
何が起こったのか、そう考えるのも馬鹿らしくなるほどガムルが行なったことは単純だった。
黒炎を消し去る。
ただそれだけだった。
ただそれだけだからこそ零号にはどうしようもなかった。
「なんなんだ、お前は……?」
自分では勝てない。そう実感してしまった零号は愕然とした。
立ち尽くす零号に対し、ガムルの歩みは止まらない。
彼の言葉にも、行動にも、もう感情は一切挟み込まれていない。
今、彼の身体を動かしているのは、怒り、憎しみなどの負の感情を燃料とした『本能』という名の人格。ただ自分を、自分の周りを脅かすものを排除しようという唯一つの目的のために動く人格。
それは一切の淀みなく息を荒らげ立ち尽くす零号の元へ歩を進めてゆき、
そしてそれは目標にたどり着いた。
驚愕に固まるその瞳に向けて拳を握りしめると躊躇いなく振り下ろした。
バゴンッ
的確にその頬を捉えられた零号の体は頭から地面にめり込んだ。
だが、それでもその勢いは殺し切れるわけもなく、零号の体はまたガムルの頭の高さまで浮き上がった。
「がはっ」
口から噴水のように鮮血が舞う。
だがそんな中でも黒い鎧は動きを止めない。
さらに握り込まれた拳が地面に付くよりも早く零号の顔面を捉えた。
真下へ加えられた力は容赦なく零号を頭から地面に突き刺した。
その鼻は真横に折れ、他の部位もどこか位置がおかしい。だが、それを見てもガムルの身体は止まらなかった。
拳を持ち上げ、振り降ろす。また拳を持ち上げ、振り降ろす。
その単純な動作の連続。だがそれは容赦なく零号の顔面を捉え、頭部を叩き潰し、その頭蓋骨を細かく砕いていた
五発目を過ぎた辺りから、もうそれは息絶えているのが分かっていた。
だが、それでもガムルの体は止まらなかった。
持ち上げ、振り降ろす。持ち上げ、振り降ろす。
もう何回それが続いただろう。
降り下ろされる度に生まれる激しい揺れが、彼が最も彼自身を見せたくない一人を起こしていた。
「ガムル、さん……?」
弱々しい、打撃音にかき消されそうな声。だがそれは猛獣と化したガムルの腕をピタリと止めていた。
いつ起き上がったのか、そんな疑問よりも早くガムルの頭は自分のこの姿を見られたことに対する焦りに傾いていた。
「ガムルさん、」
もう一度、だが先程よりも強く呼ばれた自分の名にガムルは弾かれたように立ち上がると振り返った。
「っ!?」
息を呑む声が小さく響いた。
形のいい目が大きく見開かれ、恐怖と戸惑いの色がそこに宿っていた。
当然の反応だ。そう破壊衝動に満たされた心の片隅で思うガムルは一種の自棄を起こしていた。
この姿を見られた。その事実に最後の彼の衝動を押さえ込む楔が断ち切られた。
「壊してやる。」
その言葉が聞き取れたのか分からない。だが聞こえたにしてもそれよりも早くガムルの身体はフィロ……ではなく地面に埋まる零号の方へ向かっていた。
ドゴンッ
先ほど以上に力のこもった拳は潰れた頭部ではなく、少し浮いた状態で止まっていた腹部を捉えた。
今度は潰された頭部が顔を出し、くの字になりながら腹部が地面に埋もれていく。
もう零号から声はもれない。完璧に死を迎えた彼からはただ肉をすり潰される音だけが漏れた。
グシャリ、グシャリ、肉だけでなく骨が砕かれ、すり潰されていく。
「ガムルさん!!」
その生々しい音に耐えられずフィロは叫んだ。
「お前さえいなければ……」
だが止まらない。 仮面に開けられた穴から覗く碧く澄み渡った瞳は目の前のものを捉えて離さなかった。
自分の正体をバラす、自分の居場所を奪うキッカケを作ったこの男が、ガムルはどうしても許せなかった。
「俺は……」
まだ殴る。拳を覆う黒い鱗にはべっとりと赤い血が纏わりつき、細い赤い糸が垂れていく。
「俺は……!!」
「もう止めて!!」
フィロの制止の叫び。
しかしそれよりも早く、ガムルの体は右の拳を振り降ろした。
その拳にこれまで以上の力が込められていることを感じ取ったフィロは咄嗟に目を瞑った。
「っ!? ……あれ?」
だが、何も彼女の鼓膜を揺らすことはなかった。
視線を戻せば、その拳は打ち付けられる寸前でピタリとその動きを止めていた。
『そうだな。もう……終わりだ。』
フィロの視線の先ではその言葉の言うように、ふるふると震え、抵抗を続ける漆黒の右腕を浅黒い左腕がしっかりと掴みその動きを止めていた。
それでもまだ抵抗は止まらない。
もがき続けるガムルの身体は一度大きくビクンと跳ね上がったかと思うと、その仮面の口の部分が大きく開き、吼えた。
「ウオオオオオオオオォオオオオオオォオオ」
フィロは自分の肌がチリチリと焼けるのを感じた。
それは人が発したとは思えない猛獣の叫び。そして放たれる圧倒的な殺気の塊。
もうそれは『人』という枠を超えていた。
『煌月……止めてくれ。』
『ちっ、しゃあねえな。』
だが声には全く焦りがない。
茫然自失としていたフィロはどこからともなく聞こえた声に辺りを見回した。
その声は二つ。聞き覚えのあるものとそうでないもの。だが聞き覚えのない方の言葉にも親しさが感じられる。それとほぼ同時にガムルの身体に異変が起こった。
黒い鎧のようにまとわりついていた鱗。それが一枚、また一枚、ついには滝のように剥がれ落ち出したのだ。
それと共に薄まっていく殺気に続き、その下から現れる浅黒く焼けた巨躯を見たフィロは久しぶりの安心感を覚え、自然と走り出していた。
小さな笑顔と共に。
「はあ、はあ、」
荒く息をしながら意志の光を取り戻したガムルの瞳は、目の前の無残な死体を捉えた。
めちゃくちゃに潰された頭の中から飛び出した脳髄が血液や泥などと混ざりこの世のものとは思えない異臭と色を晒していた。
「くっ、」
それにこみ上げてくる吐き気をなんとか飲み込み、ふらふらと立ち上がるとガムルは自分の顔を覆う仮面に手をかけた。
もう彼の身体を覆っていた鱗は全て剥がれ、残るはその顔に被せられた龍を象ったそれのみしか残っていなかった。
「俺はお前のようにはなれない。」
仮面から現れた瞳に宿っていたのは憤りや憎しみなどではなく、目の前で肉塊と化した男に対する哀れみの色だった。
「お前のようにこの力を使うことも。」
ダラリと下げられた彼の腕から仮面が滑り落ちていく。
「お前のように目的のために躊躇いなく自身を闇に染め上げてしまうことも。」
宙を舞う仮面は空気抵抗を受け、クルクルと回転しながら地へと進んでいく。
そして仮面は地面に辿り着き、
「お前のようにただ自分だけを信じることもな。」
砕けた。