濃い霧の中で 第三話
『ディン……』
『そんな……』
肉の焦げる臭いと白い煙。この二つを発する仲間だったもの。それを見ていたレイは瞳を揺らすことなくヴィネッツを捉えた。
「ん?」
それに気付いたヴィネッツは面白いものを見つけたと言わんばかりににやりと笑ってみせた。
「動揺しないのかね?」
「今ここで動揺しても勝率を下げるだけだ。」
「なんとも冷たい。だが、それは正しい判断だ。」
「ふん、言ってろ。」
未だ呆然とする後ろの四人に視線をチラリと向けるだけで、すっと刀を下段に構えた。
「君一人で私とやるつもりかね?」
「だったらなんだ?」
「無謀だな。」
「黙れ。」
パッと緩やかな、力みのない滑らかな走り出しをしたレイは体勢を低くしたままヴィネッツへと駆けていく。
十メートルはあった二人の距離。それはものの数秒で詰められ、勢いそのままに間合いを詰めたレイが刀を下段から振り抜いた。
足、腰、肩、腕、指先と抵抗なく力が伝わっていく洗練された一閃は一切のズレなくヴィネッツの首へ伸びていく。
パチン
だが、それはまたあの空気の壁に遮られ、受け流されるがレイは全く表情を崩さない。逆に予想通りだといった風を醸し出しながらレイはさらに一歩右足で踏み込み、受け流された刀を返した。
先程よりもよりしなやかに力強く全身のバネを使い、左手に掲げられた刀をそのまま片手で振り下ろした。
「ふっ、同じことを……っ!?」
余裕で首を振っていたヴィネッツはその刃がその空気に触れた瞬間、表情を一変させたヴィネッツは咄嗟に回避行動をとった。
しかし、ヴィネッツがまた地面に足を付けていたときには軍服が右肩から左脇腹まで切り裂かれ、浅くない一直線の傷が刻まれていた。
地面を蹴り上げる力、全身の体重、頂点から降り下ろされる勢い。その全てが刀の先端で一つになった斬撃、だがこれはそれだけではなかった。
「君もまた同じ『冥術』を使ったというわけか。」
「ふん。お前と一緒にするな。」
吐き捨てるように告げるレイはじっとこちらを見てくるヴィネッツの向こうを視界の端に捉えた。
後ろから迫る二つの影。
足音と気配を消している二つの影に気づかないのかヴィネッツは一切振り返らない。
それを一瞬で確認したレイは、気づかれないように刀を中段に構え、駆け出した。
「これで決めてやる。」
主語を省いた決意を告げながら一気に最高速度まで上がった彼の身体はその流れの中、一切の迷いなく突きの構えを取った。
レイの予想ではこの構えを取ればヴィネッツは一点に絞ってより強固に空気を固定すると考えていた。
その予想は当たり、ヴィネッツもレイの予想通り、足を止め、重ね合わせた指を突き出して見せた。
(かかった!!)
その構えにレイは口元が緩みそうになるのを抑えるのが大変だった。
今レイがすべきことは、多少手傷を負ってでもヴィネッツの動きを止めること。それを的確に理解していたレイには刺し違える覚悟すらあった。
この時、彼の『目的』でさえ頭の中から吹き飛んでいた。
「はあああああああ!!」
先程までは出なかった雄叫びを上げながらレイは渾身の突きを放った。空気を破裂させるそれはヴィネッツの手の前で衝突する、そうレイが認識したところで異変が起こった。
パチン
「え?」
手に伝わるはずの激しい抵抗、それが感じられると思った時にその衝撃が来なかったのだ。
目を大きく見開き驚きを表すレイの視界に暗い影がかかった。
それにつられ、斜め上に視線を上げると……そこにそれはいた。
空中で華麗に回転するヴィネッツが。
レイの方へ挑発するような視線を送りながらも指を二度弾き、直後、その背後で二つの轟音と悲鳴が轟いた。
今のレイには、それが仲間の断末魔だと気づくのに数秒を要した。
「全く。無粋なことはしないでくれ。」
「っ、くっ」
「そうだ。後ろの四人にも黙っていただこう。」
そう告げるヴィネッツが手を動かしたことに反射的にレイは構えるが、それは指を鳴らすことはなく、両腕を前に拝むようにして止まった。
その動作に何の意味があるのか、レイには正確には分からなかった。だが、漠然とだがレイは直感的に理解していた。
「メリー、逃げろ!!」
そして咄嗟に一人の名前を叫ぶが……遅かった。
「お休みの時間だ。」
パンと胸の前で手のひらが打ち合わされると同時に、これまでとは比べ物にならない巨大な術式が一瞬にして展開。そしてそれが消えると同時に四人に異変が起こった。
レイが呆然と見つめる先で、残った四人が同時に地面に倒れ込んだのだ。
ただ、レイの声に助かったのか、それとも自分の目に助かったのか。咄嗟にレイの方へ走っていたメリーは倒れる力を利用してただ一人その範囲の外へと転がり出ていた。
レイは焦って彼女の元へと駆け寄るが、行動とは裏腹にその視線は残りの三人に向けられていた。
これからどうなるのか。レイはそこから目が離すことができなかった。
地面に叩きつけられた三人は地面にめり込むということもなく、ただ地面に張り付いているという風だったが、奇妙なことに、三人が三人ともなぜか手を首元に当て苦悶の表情を浮かべていた。
「一体、何が……」
「何、私は『特殊系』の『重力』の使い手なのでね。あの一帯の重力を三倍にしただけだよ。」
「なぜそれで……」
答えを与えてくるヴィネッツから視線を外し、レイがまた三人の方へ視線を戻すと状況は悪化していた。
彼らは口から泡を吹き、白目を剥いていたのだ。
「おい……一体、」
「圧力が上がれば空気の濃度が上がる。恐らく彼らの肺が摂取できる酸素の濃度が上がってしまっただけだ。」
「クソがっ!!」
ヤバイ、そう感じたレイは抱えていたメリーを地面に寝かせ、転がっていた刀をつかみ取り、駆け出した。
走る彼の頭にあるのはどうにかしてこの術を止めなければならない。それだけだった。
未だ術を発動しているヴィネッツに接近すると、がむしゃらに横に薙いだ。
先程までとは違う精彩を欠いた斬撃にヴィネッツ自身危険は感じていなかっただろうが、念のためといったところだろう。余裕の表情でバク転の容量で大きく後ろへ回避した。
それと同時に三人を襲っていた圧力が消えていくのを背中で感じながら深呼吸を一つ。それで落ち着きを取り戻したのか、レイは刀を横に倒して脇に引き寄せるようにして構えた。
「メリー、下がっていろ。」
だが後ろでまだ横たわっていたメリーはその身体を起こし、逃げるのではなく、自分の脇に転がっている弓に手をかけた。
「レイ、私も……」
「だめだ!! お前は逃げろ!! 今のお前じゃ足でまといになる!!」
「でも……」
「そうかね? 私は『妖精の眼』があったほうが君にとって有利になると思うがね?」
ニヤリと不敵に笑ってみせるヴィネッツにメリーは驚愕の色を露わにした。
「っ!?」
「お前、それを一体どこで……」
「どこでと言われると困るのだがね。そうだな、あえて言うならば、」
警戒心を強める二人の前で顎に手を当て考え込んだヴィネッツは、何か閃いたのか顎に当てていた右手をゆっくり持ち上げた。
「ここかな。」
そして示したのは自分の右目。茶色だったそれが突如蒼色に染まった瞬間、今度はレイまでも驚きのあまり大声をあげていた。
「お前も、お前も『複合体』だったのか!?」
レイの叫びにも似た声にヴィネッツは目から指を離し、左右に大きく腕を開いてみせた。
「ただでさえ珍しい、『異常種』と人間の血が混じった『複合体』にさらにそのうちの『古代種』、それも絶対数が少ない『妖精』の一族がここに二人もいるとは。面白い。」
喜々として語るヴィネッツ。その姿にレイは自分がどうしようもない警戒心を抱いていることに気づいた。
「じゃあ、俺の突きをかわしたのも……」
「ん? ああ、後ろに二人、隠れているのが『見えた』のでね。」
最悪だ。レイは刀を構えたまま目の前の化け物を見つめた。
レイは最初から気になっていた。なぜヴィネッツほどの実力者があのあらかじめ威力や範囲を設定され、発動速度に重視した機械剣を使っているのか。その理由が今はっきりと分かった。
答えは彼の『眼』。
自分の冥力を散布した範囲であれば目で見るように映像を脳内に再生できる彼の眼をもってすれば、どこかに潜む敵を瞬時に見つけ、即座に撃破できる。
そう。最初から彼に攻撃範囲や威力など必要ないのだ。
ただ一点。そこを貫けるだけの威力さえあれば何もいらない。それが彼の強さの理由だった。
これが分かれば彼がなぜゴブリンの大群を殲滅できたのかも容易く想像がつく。
「この眼は素晴らしい。だが、それと同時につまらなくもする。」
その眼とあの広範囲に効力を発揮する圧力。この二つがあればゴブリンなどという低脳な生物を狩るのは容易いことだろう。
「私から戦いという楽しみを奪ってしまうのだから。」
それと同時にレイは気付いた。このヴィネッツという男は、
完璧に『精神異常だ(イかれている)』ということに。
「私はあの御方のために、戦うために生まれた。なのに、その唯一の楽しみである戦いをこの眼は一瞬で終わらせてしまう。こんなことがあっていいのか?」
「……」
自分に向けての答えの分かった問いだと理解しながらもレイはあえて沈黙を選んだ。
おそらくヴィネッツもレイがそうすることを理解していたのだろう。レイの言葉を待たずまた話し出した。
「否。そんなことはあってはならない。だから、私は強者を求めている。なのに、評議会のジジイどもは私に将軍や『四聖人』の地位を与えて私を戦いから遠ざけようとする。そんなことがあっていいのか?」
レイ達をおそう圧力、それが一瞬で数倍に膨れ上がったような感覚にレイは襲われた。その圧倒的な存在感にレイは背中に寒いものを感じた。
人を相手にしているとは思えない威圧感。
「答えは、否、だ。私はただ戦いを求めているのだ。」
息を荒らげ、話し続けるヴィネッツはおもちゃを手にした子供のようにその喜びを全身から出していた。
(あいつにとって俺はおもちゃなんだろうな。)
「ここまで気持ちが高まるのは何年ぶりだ? あの『英雄』と対峙した時以来のこの高ぶり……君は素晴らしいよ。」
満面の笑みを浮かべるヴィネッツにレイはもう何も言わなかった。
彼のなかで、『ヴィネッツ大佐(理性)』という殻の奥深くに押しこまれていた本能が解き放たれた今、もうレイに残された取るべき行動は、刀を構えるしかなかった。
「さあ、本当の戦いをはじめようか。」
パチン、という音を合図に二人は動いた。
一人は爆発という体外の力を使って、一人は脚力という己の力を使って動き出し、
そして激突した。
その瞬間、激しい閃光と共に彼らを中心に発せられた衝撃破が砂煙を一気に舞い上がた。
「きゃっ!?」
その二人の人外にも感じられる衝撃にメリーは吹き飛ばされそうになるが、そこは地面に張り付き、なんとか凌いだ。
だが、続けて何度も起こる衝撃に、その身体はじりじりと後退しているのを感じた。
このままではまずい。
そう察したメリーは腰から弓矢を二本取り出すと、弓も構えず両手に一本ずつ握り、
「ふっ!!」
力一杯、自分の顔の横に突き刺した。『世界樹』を使った弓矢は金属よりも柔軟で折れにくい。
そんな強靭な弓矢をメリーはしっかりと握ると、
「ふんぬっ!!」
決して他人には聞かせられない声を出しながら身体を前に引っ張った。
懸垂をするように身体を前に引っ張るとメリーはそこに両脇を引っ掛け、後退しようとする身体を無理やり固定することに固定した。
「ふぅ。」
額に浮かぶ汗を拭う余裕が生まれたリタニアは、未だ衝撃波を生み出し続ける二人に視線を向けた。
一人は刀、もう一人は素手という明らかに異常な組み合わせで激突を繰り返す二人。明らかに素手の方が不利な状況だが、そこに見た目ほどの差はない……いや、実際には見た目と逆だった。
生身の身体を武器として使っているハズのヴィネッツには笑み、刀を使うレイは歯を思いっきり食いしばるという対照的な表情を浮かべていた。
だがそれは仕方がなかった。ヴィネッツは中距離を得意とするのに対し、レイは近距離。ヴィネッツの速度を重視した中距離からの攻撃を掻い潜りながら接近しなければならないのだ。
「はあっ!!」
そんな中、何度目かの激突でお互いの武器 (?)に流された冥力もまた二人の間でぶつかり、また激しい閃光が発せられた。
後ろに同時に飛び退いた二人はすぐに切り返し、何度か指を鳴らす音の後、また激突。
一見、単純な動きの繰り返しに見えるが、それを傍から見ていたメリーは徐々に自分が目を開けている必要性がないように思えてきた。
なぜなら、彼女の視界から二人の姿が少しずつ霞み始め、代わりに数え切れない閃光が埋め尽くしだしたからだった。
彼らの衝突が繰り返される度に、彼らの武器 (?)と同じように激しく衝突する二人の冥力。それが一秒にも満たない閃光となって何かの信号のように何度も何度も瞬いていくのだ。
さらに、その合間、合間にヴィネッツの爆発や電撃などの別種の光も混ざりこんでいるのだから、さらに視界は悪くなる。
例えヴィネッツの攻撃がなくとも、メリーが見るものに変化はなかっただろう。
それは単に、閃光しか捉えられないほど二人の速度は常軌を逸していたのだ。
常人が至ることのできない世界。
光と音のみを連れ、それ以外を置いていく選ばれたもののみが辿り着ける強者の世界。
そんな世界を視認することを諦めたメリーは、彼女の唯一の強み、範囲設定を行なった自分の『妖精の眼』を発動した。
「うっ!!」
だが、それでも叶わなかった。
直後に襲った激しい、脳が真っ二つに割れるような激痛にメリーは頭を抱えうずくまった。頭を抱える両手の間で輝く鮮やかな翡翠色の瞳は徐々に色彩を失っていく。
額に脂汗を浮かべ、必死に激痛に耐えるメリーには自分に何が起こったのかすぐに分かった。
それは『容量不足』。
彼女の眼はその一帯の情報を直接、同じ時間に脳に伝達される。つまり、二人の人外な速度と雨のように絶え間なく繰り出される冥術というあまりにも膨大な情報量の多さに、一瞬にしてメリーの許容量を超えてしまったのだ。
聴覚以外の情報を遮断しても治まらない頭痛。
「ぐ、ぅぅ……」
それでも彼女はまた『眼』を開いた。
「レイ……」
ただ想い人を見守るために。
「……タニアさん、リタニアさん!!」
「んっ」
自分を呼ぶ声にリタニアはゆっくりと目を開いた。なぜ自分は寝ていたのか、覚醒を始めた頭で考えていたが、
「つっ!?」
自分の状況を再認識した瞬間、忘れていた全身を襲う痛みに声にならない悲鳴を開けた。
「リタニアさん!?」
悶えるリタニアを覗き込んでいたダンゼルは助けを求めるようにフィロを見るが、
「全身打撲、左肋骨二本にヒビ……後は、左足首の捻挫といったところですね。」
帰ってきたのは全身を診ていたフィロの冷静な声だった。
「どうにか出来ないの? フィロちゃん。」
のぞき込んでくるダンゼル。それに対し、フィロは顔を背けた。それは無理だということを示すと同時に、悔しさを露にする自分の顔を見て欲しくなかったからかもしれない。
「……ここでは無理ですね。どうにかして里まで連れていかないと。」
「そうか……リューガさん、どうします?」
その後ろで樹にもたれ、あらぬ方向を見ていた龍牙はその助けの声に目だけを向けた。
「麻酔と睡眠薬を打ってやれ。俺が運ぶ。」
「了解。」
ダンゼルは腰にさげたポーチから二本の注射器を取り出すと、未だうめき声を上げるリタニアに慣れた手つきで針を突き刺し、引き抜いた。
「後、数分で効き始めるよ。」
「それが確認できてから動くぞ。」
「了解。」
包帯を巻きつけながら頷くダンゼルから視線を外した龍牙はまた先ほどと同じ方向に目を向けた。
「やはり里の方にいたか。」
視覚ではなく、長年培ってきた強者のみが発する独特の圧力。それを敏感に感じ取った龍牙だが、その表情はすぐれなかった。
「誰だ……?」
誰だか予想できる気配は二つ。一つは先ほどまで抑えていたものを爆発させたようにその圧を増した気配。もう一つはその巨大な気配に押しつぶされそうになっているギリギリ強者と呼べる気配。
しかし、龍牙が感じた強者の気配、それは四つあった。
二つは分かり、残るは二つ。
うまく調節し、よほど注意しなければ分からないような気配。
そして龍牙が集中していても、捉え損ないそうになるほど押し殺した気配。
この四つのなかで最後の二つ、特に最後の一つはかなりの実力の持ち主だと龍牙はすぐに分かった。しかし、この場にいるにはあまりにも『強すぎる』。
「リューガさん。」
「……ああ。」
リタニアに薬が回ったのだろう。リューガは振り返り、彼女の体に手を滑り込ませようとするが、
「リューガ、手が……」
「っ!?」
リューガはフィロに指摘されるよりも早く拳を作り出した。
だが、彼の手はそれでも耐えられないのか、まだ小刻みに震えていた
(俺が……怯えている、のか?)
震え続ける拳、それを足元の樹に叩きつけた。
嘗ての英雄の拳は本人は軽く叩きつけたつもりでも、実際は本気で打ちつけたように樹に大きな穴を生み出していた。
とはいえ、それは龍牙の思ったとおりの効果を発揮してくれた。
震えの止まった拳を解き、リタニアを抱え上げた龍牙はもう一度あの気配の方を向いた。
(いったい、何ものなんだ……)
珍しく湧いた、正体を突き止めたいという欲求を押し止め、龍牙は思いっきり里へと飛び出した。
「クソッ!!」
ザッと地面を削る音を奏でながら、レイは勢いを消し去った。
もう何度目だろうか。
先程から全く同じ交錯を繰り返していた。レイが駆け出し、それ目掛けてヴィネッツが指を弾く。その攻撃をギリギリで交わして切りかかるとヴィネッツの腕に阻まれ、最後には弾かれる。
終わりが見えなかった。
ただ、レイもヴィネッツの攻撃の条件を見つけ出していた。
それは、指を鳴らしてから発動までヴィネッツは一歩もその場から動けないこと。そして彼が弾く指によってその効果が変わってくることだ。
人差し指が気体の固定、中指が爆発、薬指が不可視の圧力、小指が雷。
そこまで分かっているのに。決めきれないことがレイには歯がゆかった。
だが仕方がないといえば仕方がなかった。ヴィネッツの操る気体の固定が余りにも協力過ぎたのだ。
レイの剣では表面に引っかき傷を付けるのが精一杯だった。
とはいえ手が全くないわけでもなかった。
小さいながらもレイの剣は空気の塊に傷を付けている。つまり、これ以上の威力を出せればその攻撃はヴィネッツに届くのだ。
真横で巻き起こる爆発を体を捻ることで交わしたレイは前に構えていた刀を横に構え直した。
だが、この策の問題は正しくそこにあった
いかにしてその威力を絞り出すか。
その方法さえ見つかればこの状況を打開出来るのだ。
レイは交わすことに意識を集中しながら微かに残った意識をその打開策の発見に費やしていく。
とりあえず、今何も思いつかないレイがすることは、できる限りヴィネッツの攻撃の手を緩めさせること。
後、二メートル。そこでレイは一気に飛びかかった。
「君には、創意工夫というものが欠落しているようだね。」
だが、まだ足りない。彼の体重を切っ先に載せたはずの攻撃が見事に受け止められていたのだ。
「黙れ!!」
また押し合いになったところでレイは爆発の術式を構築しようとするが、それよりも早くヴィネッツにその身体を押し返された。
「ちっ」
身体が宙をさまよっている間にもヴィネッツの攻撃は止まらない。
レイの周りでいくつもの爆発が巻き起こった。
連鎖的に巻き起こった爆発が巻き上げた煙。その中から頭を守るように飛び出したレイはそのまま転がるようにして受身を取り、建物の影に身を潜めた。
ヴィネッツという相手には何の意味がないとも思えるが、これもレイの策の一つだった。
ヴィネッツが持つ『妖精の目』、これは周囲に冥力を散布し、情報を脳に直接伝える探知能力だ。
しかし、この万能そうな目にも欠点はある。
それは普通の人間には処理ができないほどのその圧倒的な情報量。そしてもう一つはその使用の度に消費される多量の冥力だった。
冥力は体内を駆け巡る不可視の力であると同時に生物の生命活動を支える重要なエネルギーなのだ。つまり、冥力が極端に少なくなると、目眩や吐き気、ひどければ死に至る。つまり冥術は諸刃の剣なのだ。
だが今のヴィネッツはと言うと、快楽を求めすぎるがためか、自身の冥力の残量まで意識が回っていないようにレイには見えた。
(長期戦、しかないのか。)
自分の最も望ましくない戦況を振り切るようにレイが一歩踏み出したときだった。
「悪いが長期戦をするつもりは私にはないのだがね。」
「なっ!? ガッ!?」
すぐ横からの声にレイは現状を理解するよりも早く右頬に熱が走った。
「ガッ、グッ、グァッ!!」
ボールのように地面を跳ねるレイの口からは空気が押し出され、最後は空中に赤い軌跡を描きながら背後にあった家屋に大穴を穿った。
バガンと爆発にも似た大音量。それにつられ、支えを失った木製の屋根が未だ動きのない中へと崩れ落ちた。
「作戦を練るのは結構だが、戦いに集中してもらいたいのだがね?」
全壊した家屋に向けて呆れたように呟いた。
だが返事はない。
先程の轟音が嘘のように、辺りは静寂に包まれていた。
レイが突っ込んだ先、派手に埃や木片が舞う家屋の中では崩れ落ちた大小様々な木材が小さな山を作り出していた。
その周りにレイの姿がない。どうやらその山の中に埋もれているようだが、ヴィネッツが見る限り木材がひとつとして動いていなかった。
死んだか、それとも気絶しているだけか……、だがもうヴィネッツにとってそれはもうどうでもいいことだった。
ゆっくりとした足取りでその家屋から離れていくヴィネッツからは、先程までの戦いに対する猟奇的とも言える気持ちが消え去っていたのだ。
代わりにその背中には悲壮感に似た色の感情が滲み出ていた。
数歩進んだところでヴィネッツは立ち止まると眼を閉じ、
「この程度だったのか、君は。」
背後に左手を突き出した。
「うるせえ!!」
そしてそこに土埃に汚れた刀が打ち付けられた。
いつ起き上がったのか、いつ接近したのか、どこから現れたのか。様々な疑問が残るが、ヴィネッツにとってそれは思考を要するほどの事項ではなかった。
どちらにせよ、動けないという状況に陥るほどの損傷を受けている時点で、もうレイにヴィネッツを倒せる可能性がゼロとなったのは誰の目にも明らかだったからだ。
ぐう、と歯を食いしばり、刀を握るレイに対し、ヴィネッツの表情に歪みはなかった。
「唸っても強くはなれないよ。」
ヴィネッツは諭すようにつぶやくと、突き出した左腕を一度曲げるとそのバネを最大限利用し、レイを弾き飛ばした。
その力に大きく宙をさ迷ったレイは汚れた刀に映る自分の顔を見つめた。
死ではなく、敗北という恐怖にゆがむ自分の顔に言いようのない怒りがこみ上げてきた。
「なぜだ、なぜ勝てないんだ……」
「それはそこに気合などでは埋められない絶対的な差があるのだよ。」
また同じことを、そう思った頃にはレイの体は地面にめり込んでいた。
「ガアッ!?」
「気合や命をかけた程度で勝てるなら鼠も狼を殺せるよ。だが実際にはそれはありえない。なぜだかわかるかね?」
この世界に存在する書物の中には、危機に陥った主人公が気合や秘められた力などで悪に逆転し、滅することがある。
しかし、それが現実にありえることはない。
「この世の全ての事象は、あらゆる要素によって構成される。」
そのあと、ヴィネッツの言ったことは至極当然のことだった。
全ての事象は初めから決められた通り存在し、決められた通り他を破壊し、駆逐する。
強者に弱者が機転を利かして勝ったということがあったとしても、それはただ単にその弱者だと思われていた者が総合的に強者と思われていた者よりも強かった。つまり、その弱者こそが強者であったに過ぎないのだ。
つまり、知力、冥力、戦闘技術、経験、その全てにおいてレイを上回るヴィネッツが負けるなどありえなかったのだ。
「うるせえ、よ。」
傍らに佇み、見下ろしてくるヴィネッツ。レイは一気に体を引き起こすと猿のように四肢をその足に絡みつけた。
「ふん。王子ともあろうモノが、見苦しいな。」
最後の抵抗とも言えるレイの行動に対し、ヴィネッツは冷酷だった。
一回
「グッ」
二回
「ガッ」
三回、四回、五回、
弦のように絡みついてくるその腕を、その足を、その頭をためらいなく踏みつけていく。
「ぐっ、がっ」
「さあ、早く離したまえよ。」
踏み付ける回数はすぐに十を超え、レイの額や腕から血が幾筋も垂れるが、その足を締め付ける力は緩まない。
さらに足を持ち上げ、降ろす。その動作が二十に達しようかというときにヴィネッツはその動きを止めた。
「ちっ」
舌打ちをこぼし、十七回目を記録したその足を下ろしたヴィネッツは、ついに代わりにモノをつまむ形で固められたその右手を突き出した。
これ以上は時間の無駄、そう感じたがゆえの行動。
だが、ヴィネッツはその指を擦り合わす寸前でピタリとその動きを止めた。理由はただ一つ、その先で俯くレイの口元に違和感を覚えたからだ。
緩く弧を描く、その口元に。
「遅かった、な。」
「なにを……うっ!?」
レイの言葉。それを待っていたかのように、ヴィネッツは、腹部から激しい熱が吹き出すのを感じた。
「ぬう……」
先程までの余裕な表情は消え、その顔からは一気に汗が吹き出していた。
数本の汗の線が頬を伝っていく。その数はみるみる増えてゆき、顎元に大きな雫を作り出していた。
そして重力に負け、落ちていく雫。だがそれは地面に染みをつくることはなく、途中にあった気の棒に当たり飛び散った。
弓矢という名の木の棒に。
それは一箇所では終わらなかった。
ビッビッ
立て続けに飛んでくる弓矢。それはヴィネッツの両足、両肩と立て続けに貫いた。
「このクズが……」
手足の腱を切られ、立ち続けられなくなったヴィネッツは地面に膝を付くが、なぜかその体を捻り、矢が飛んでくる方へ体を向けてからパチンと一度だけ指を鳴らした。
「私を……はめたのか。」
その体勢のまま飛んでくる弓矢を弾きながら顔を上げたヴィネッツが見たのは、
片膝を着き、弓を構えたメリーだった。
「待っていたのよ、この瞬間を。」
「さっきまでのお前なら気付いていただろうがな。」
かかる声にヴィネッツが首を回すと、レイが目元の血を拭いながら、地面に転がっていた刀を上段に構えていた。
「なるほど、私の条件に気づいていたのか……」
「ああ。さっきの攻撃で確信した。」
「そうか。」
ただ一言つぶやくとヴィネッツは両腕をだらりと垂らし、天を見上げた。
「ここが私の終着点、か。」
「自分の楽しみばかり優先し、すぐに俺たちを殺さなかった。それがお前の敗因だ。」
カチャと刀の向きを真っ直ぐにしたレイはザッと一歩踏み出した。
「あの御方の目指す世界を見れないのが唯一の未練、かな。」
「じゃあな。」
そしてそれは満足気な笑みを浮かべる伝説の将軍へと振り下ろされた。
『ここだ。』
差し込んでくる光に金と黒の身体を輝かせながらフェリクスは振り返った。
目の前にある大きな光に満ちた穴。それを背にしたキメラはよりその神々しさを増している。
『ここを出ればサメット族の長の家の上に出る。』
「そうか。」
そんな伝説上の幻獣にそれは歩み寄った、
漆黒の斧をさげた巨漢の男が。
『どうやら戦火は里の方にまで伸びているようだ。』
「ああ。だけど、数は少ないな。」
『そのようだな。』
「だけどここから出て、あいつらにバレないのか?」
巨漢の男、ガムルの言葉にキメラは得意げにチラリと鋭い歯を見せた。
『我の気配がこの樹の周りに浸透している。問題はない。』
「そうか。なら俺は行くぞ。」
一度機械剣を棒状に戻し、腰に差し直すとガムルはフェリクスの前で一度立ち止まった。
「本当に教えてくれるんだな?」
『ああ。我は約束は必ず守る。なによりそれを破れば我らの存在が消されてしまう。』
「消される、だと?」
ガムルのオウム返しにフェリクスはしまったというように口を少し開き、目線をそらした。
「おい、一体……」
『すまない。勘弁してもらいたい。』
追求しようと一歩踏み出すがそこまでだった。
これ以上は踏み込んではいけない。
もう世界の深淵といえる深い闇まで知っている。それでもまだそれよりも深く、黒い何かをガムルは感じていた。
「……分かった。」
そこからの決断は早かった。
ガムルはそんなフェリクスを見ていられず、すぐにその穴から飛び出した。
『すまないな。』
風きりの音に混じり、そんな声が聞こえた気がした。
新しい血にまみれた地面の中、うずくまるようにして倒れる小さい背中にメリーは歩み寄った。
「レイ。」
子供に話しかけるように優しい口調。それにその背中はピクリと動いた。
ゆっくりと自分の力で上げられたレイの顔は青白かった。
自分よりも強い相手。それを倒すために力を『冥力』をほぼ全て使い切ったのだろう。うずくまっていたのも、ただ立ち上がるだけの力すら残っていないのだ。
「はい。」
それを察したメリーは砂で汚れたその手をレイに差し出した。
「……すまない。」
「えっ?」
ボソリと囁くように言われた初めての言葉にメリーは戸惑いの色を浮かべたが、レイはそれを気にもかけずよろよろと歩きだした。
ハッとしてメリーも追いかけ、肩を貸そうとレイの腕を掴むが、
「大丈夫だ。」
逆に腕を掴まれ、やんわりと外された。悲しそうな表情を浮かべながら。
「でも、」
だがそれは逆にメリーの行動を積極的にしていた。
そんな表情を浮かべている彼に手を差し伸べないなど、メリーにとってはありえない選択だったのだ。
「俺には、行かなきゃいけないところがあるんだ。」
「だから私も……」
「ダメだ。お前はくるな。」
「……なんで?」
ただ拒絶を続ける言葉に足を止めるメリー。だがそれを知りながらもその言葉をぶつけたレイの足は止まらなかった。
「……お前はほかの奴らの手当を頼む。」
どんどん自分から去っていく自分より小さな背中。
彼の中で占める自分という存在の小ささにメリーの頬には雫が一つ、滴っていた。
「早く、いかないと。」
そんなメリーの気持ちなどいざ知らず、レイはただ無心に自分の目指すモノに向けて足を動かした。
『私が君を救ってあげよう。』
『俺を、救う?』
それはあの暗闇で満たされた廃墟の中、見張りをしていた部下の一人を引きずりながら現れた男の言葉だった。
『ああ。サメット族こそが崇高な存在だと証明する。』
『なぜそれを……』
『私に協力してくれればその願いを叶えてやってもいい。』
『ふん、誰がそんなもの……』
『『世界樹』』
『なに?』
『あれがここに存在する意味。それがお前の夢を叶える答えだ。』
赤い眼をした彼の言うことはまだ理解出来ない。だが、自分がこれから行くべき場所は分かっていた。
「『世界樹』、あそこに一体何があるんだ……」
圧倒的な存在感を見せる巨大という言葉では表しきれない樹。それを見上げ、レイは自然と走り出していた。
(これで、これで果たせるのか? 俺の夢が。)
疑問を捨てきれない自分を無理やり振り切ろうとさらに強く腕を振る。体中の至る所が限界を訴える痛みを発しているが関係ない。
もう彼の頭にあるのは目前に迫った自身の目標だけだった。
鳥の囀りに覆われた大木の麓、何の前ぶりもなく派手な砂煙が巻き起こった。
バサバサバサと囀りを止めた鳥達が飛び去ってゆき、先ほどまでの旋律が嘘のように静まり返っていく。
「いつつ、」
そんな静けさに満ちた大木の前でゆっくりと影が動いた。
巻き上がった砂煙は一瞬にして払ったガムルは振り払った右手を既に腹部に当てていた左手に重ねた。
「結構響くな……」
苦悶の表情を浮かべながらもガムルはこの場に留まるわけにはいかないと歩きだした。
「どこに行くか……ん?」
見つけたくないものを見つけた。そう言いたげな表情をガムルは浮かべた。
そこは長の家がある丘を下り、あの商店街に入ったところだった。
先日まであった活気は風の音が聞き取れるほど沈み帰り、人は誰一人としていなかった。
一瞬帝国にやられたのかと危機感を覚えたがすぐに落ち着きを取り戻した。恐らく避難しているのであろうかなりの数の気配を遠くに感じたからだ。いや、その人々が放つ冥力を『見た』というべきか。
どちらにせよ、人々の無事を確認できたガムルは安堵の息を零し、痛みの引いた腹部から手を離した。
膝を曲げると、タンという軽い音に続きその巨体は傍らの建物の上まで跳んでいた。
視界を確保したガムルはゆっくりと視線を巡らしふとガムルは目を細めた。
周囲を見回していたその目が止まったのは、里の北部の外れだった。
それは微かな気配を木々の間に感じたからだ。
だが微かと言ってもそれは弱いからではなく、『強すぎる』が故の微弱な気配に思われた。だが、ガムルにはそれ以上にそれを身に覚えのある気配に感じられていた。
勘違いならば構わない。
だが、もしその通りだったら……そう思うとガムルの身体には妙な気だるさがたまり始めていた。
会いたくない。
一切の偽りなく思うガムルに運命はあくまで残酷だった。
「うっ!?」
一瞬、目を焼くような閃光が発せられたかと思うといつの間にか目の前に迫っていた。
黒い炎が。
それを視界に捉えた瞬間、ガムルは何かを考えるよりも早く、建物の上から飛び降りた。
ダッと屋根の一部を踏み割り、平行移動するように跳んだのだが、そんなガムルをその炎がタダで逃がす訳がなかった。
一階の天井ほどの高さまで達し、ガムルが空中で体勢を整えようとした時だった。
「うぉあっ!?」
背中に強い力を感じたかと思うと、ガムルの身体は吸い込まれるように向かいの果物屋の中に頭から突っ込んでいた。
それが一気に材木に引火したことによる爆発だとガムルが気づいた頃、その坊主頭は特大の西瓜を貫いていた。
滝に打たれるような甘い汁のシャワーを通り抜けると目の前には荷台などがひっくり返った店内が見えた。
若干の罪悪感に苛まれながらも腕を着き、自分が横たわる店頭にあった台の上に手をついた。
首輪のように纏わりつく西瓜のせいで見えない自分の背中に細かな破片が当たり、そのさらに後ろでも砂嵐のような細かい破片がまき散らされる音が響いている。それらの情報を感じながら、ガムルは口の中に入った黒い種を吐き捨てた。
「ちくしょう。頭に来た……」
ぽつりとつぶやくと、通りに背を向けたままガムルはゆっくりと立ち上がった。
「んん、」
傍から見ればバランスの悪い雪だるまのような後ろ姿を晒した彼は、赤い汁にまみれた顔をしかめながら、首に残った西瓜の残骸に手をかけた。
「んらぁ!!」
目をつむり、入った時と同じように引き抜いたガムルは、両手の間にあるそれをポイッと店の中に投げ捨てた。
顔に纏わりつく赤い液体を手で払いのけるとゴキゴキと首を鳴らした。
全身が様々な色に染まるのを見つめ、足元の砕けた果物を足で横に寄せた。
「くそっ。あの野郎。」
愚痴を零しながら振り返り、上から下へ燃え移っていく家屋を憎々しげに見つめるその瞳はなぜか呆れているようにも見えた。
実際、呆れているのだろう。これほどまで派手な事をしている。あれほどまで巧妙に隠れていたにも関わらずいきなりその姿を現した。
闇夜の中に急に太陽が現れたようなそれほどの存在感が出現していた。
「絶対、服代請求してやるからな。」
ベタつく身体に舌打ちを零すとガムルは膝を曲げ、先程の建物を飛び越え、地面に大きな窪みを作りながら着地した。
そこは商店街の横にある広い空き地だった。
端に工具が置かれているのでどうやら何らかの建物を建造する予定なのだろう。
しかし、そんな些細なことはガムルにとってどうでもよかった。
ゆっくりと目を閉じたまま立ち上がるとゆっくりと口を開いた。
「なんだ? お前の正体を教えに来てくれたのか?」
「……答える義理はない。」
「はっ」
答えないのは分かっていたよ、と言外に込めながらガムルはゆっくりと目を開いた。
「で、なんでお前がまたここに居るんだよ?」
そう問いかける瞳は目の前に立つ男、赤い目を覗かせるあの黒ずくめの男をしっかりと見据えていた。
「……」
「ちっ」
黙り込む男にまた舌打ちを零すと自分から数メートル先で微動だにしない黒い影を睨みつけた。
「とりあえずお前のせいで迷惑を受けた奴がいるんだ。今度こそふんづかまえてそいつの前まで引きずって行くからな。」
「そうか。」
これをもし文字だけで見れば観念したように思えるだろう。だがその声色、フードの影に隠れた赤い瞳から全くその気がないことは明らかだった。
「だが、断らせてもらう。」
「っ!?」
ガムルは突然目の前に現れたその赤い目。
それに対し、咄嗟に体を横に傾けると、残された短い彼の黒髪を引きちぎりながら大きな金属が通り過ぎた。
ガムルはゆっくりと倒れながら目を大きく見開いた。
時間を早められたような一瞬の出来事。
ガムルは右に倒れていく身体を右腕一本で支えるとそのバネを使い、一気にその男から距離を取った。
空中を泳ぎながらガムルは追撃を恐れ、機械剣を展開するが意外にもそれがくることはなかった。
ザザッと地面を削りながらその男の方を見やると、それはダラリと腕をさげた状態であらぬ方向を見ていた。
だがこちらを見ていないとは言え、その雰囲気からは不意打ちを狙える隙など皆無に思えた。それは元々の体全体から滲み出す気配もあるがそれ以上に彼の右腕に握られているモノが原因だった。
背丈ほどもある歪んだ六角形をした盾。それがその男の右腕を覆っており、ガムルの命を削り取ろうとしていた正体でもあった。
「そうだ。お前にはもう一つ用があったんだ。」
表面には装飾として銀色の十字架が描かれ、その中心に赤い珠がはめ込まれている。それが嘗てガムルが手に入れるはずだったものだと理解するのにそれほど時間は掛からなかった。
「その破天石を返してもらうぞ。」
言い終えると同時にガムルの身体が動いた。
地面を踏み砕き、一気に最大速度に達すると男から二メートルほど離れたところで跳躍。空中で速度を緩めることなく、ギチギチと腰を中心に限界まで捻りを加えた。
「ふっ!!」
そして男の目前、腰に溜められた力は徐々に上に登っていき、最後にはピンと伸ばされた斧を握る右手に集中し、弾けた。
その赤い目に向けて振りおろされた斧はバウンと空気を切り裂きながらほぼ完璧にその頭部を捉える、
「ちぃっ!!」
はずだった。
だが、その斧はなぜか軌道をずらされていた、『ガムルの意思』で。
地面に大きくめりこんだ斧を引き抜かずに棒状に戻すと、ガムルは回避のためにすぐにその場から駆け出した。
頭上から迫る微かな殺気に前へ転がり込むと、その背後で派手な爆裂音が地面を揺らした。
激しい揺れに地面に張り付けられているように感じられる身体をさらに転がし、ガムルは地面に押し着けた腕で地面を思いっきり押上げ、立ち上がった。
なんとか凌いだ。そのことに安堵の息を零したくなるが、そんな暇はなかった。
「面倒だ。」
全身を覆う黒いコート、それを睨みながらガムルは吐き捨てた。
常人の目からしてみれば単なるコート。だがガムルの眼には全く別のものとして映っていた。
そう、コートの形をした黒い炎として。
「『黒天』、嘗て罪深き人間を全て焼き尽くしたといわれる、神が落とした暗黒の炎。」
その言葉に先程まで全く反応を示さなかったはずの男がピタリと一歩踏み出した状態で固まった。どれだけ知っているか話してみろと言わんばかりに。
「その炎は人のみではなく、人が生み出したモノを全て焼き尽くした。何百年と歴史のある街を、建造物を、人が作った道具も、人が育てた家畜も、だ。」
それは幼い頃に聞いた伝説、その一説。崇神派の神話の第一章を飾るこの話をガムルは堂々とした姿勢で話し続ける。
しかし、それより先は目の前に迫ってくる巨大な盾に遮られた。
先端に黒い炎を灯らせたそれを機械剣で受け止めるわけにはいかず、ガムルは屈むことで交わすと黒いコートで覆われた胴に向けてあろうことかその腕を突き出した。
伝説の通りならば黒い炎に包まれたガムルの手は塵になるまで焼き尽くされるはずだ。
だが、そんなことは起こらなかった。
「っ!?」
黒い鎧とも言える炎で守られていた男の身体は大きく後ろに吹き飛ばされ、吹き飛ばしたガムルの身体には全く炎が燃え移っていなかった。
倒れることなく、地面の上を滑るように止まると男はその黒い肩を微かに上下させていた。
「意外と上手くいったな。」
そう自画自賛しながらガムルは一切の油断なく、斧を持つ右手を腰に当て、左手を前に突き出した。
(さて、どうでる?)
動きを止めた相手と同じく身じろぎ一つせずただ静止。
そんな銅像のような二人の元へサーと風が走り寄った。
そしてそれに運ばれた落ち葉が地面に着くと同時に、動いた。
重厚な盾を構え、一直線に迫ってくる敵に対し、ガムルは全く動かず、左手を突き出したままだった。
ほんの十メートルしか空いていなかった二人の距離は、一、と数えるよりも早くお互いの鼻が触れるほどの距離まで迫っていた。
「ふっ」
軽く息を吐く音。それと共に突き出される一撃必殺の鈍器による突き。
それを目の前で繰り出されたガムルはあろうことかその先端に向けて左手を突き出した。
あの黒炎を纏っている巨大な盾に向けて、だ。
その時、男は勝利を確信しただろう。
ガムルの左手から一瞬にして黒炎が身体中に燃え移り、地面でもがき苦しむガムルを。
だが、現実は違った。
一寸の狂いもなく繰り出された渾身の突き。それがなぜかガムルのすぐ横を通り過ぎていたのだ。
「なっ!?」
珍しく驚きに声が溢れる男。その無防備な右脇腹にガムルは受け流した左手の拳をめり込ませた。
「ぐふっ!?」
メキメキと骨がきしむ音を拳越しに聞きながらガムルはそのまま地面へ叩きつけた。
バゴンと一度地面に窪みを作った男の身体は何度も地面を跳ね、ついには商店の裏口を突き破り、その中へと消えた。
「少し、戻ってきたか?」
拳を開いたり閉じたりしながらガムルは首をかしげた。
数週間前よりも明らかに威力が上がっているのだ。ガムルは男が消えた商店に視線を向けたまま、思い当たるこの事象の原因について思考を巡らせた。
だが、そのような時間は長くは与えられなかった。
自分の眼に映る異変に気付いたガムルは咄嗟に横に飛ぶと、
ゴウッ
黒い熱の奔流が噴き出した。
足元から。
「あぶねえな。っ!?」
地面を転がり、立ち上がりながら呟くガムルは迫る殺気に咄嗟に上げようとした頭をさげた。
そこをあの盾が通り過ぎていくのを感じながらガムルは横に体を転がした。
巨大な盾を突き出しきった状態で固まる男の腹へと拳を繰り出そうとするが、拳を握り締めたところでまた側面から迫る殺気と風切り音を感じ取り、そちらへ体勢を低くして転がった。
その真上を横薙ぎに振るわれた盾が通り過ぎるのを音で理解しながらガムルはさらに距離を取るために冥力で強化した足で強く地面を蹴った。
大きな推進力を得たガムルの身体はすぐに男から十メートル以上の距離を稼ぐが、その男を前にしては無きに等しい長さだった。
「うっ!?」
また目の前に迫る赤い目にガムルは不安定な体勢のまま逃げていく。
だが、やはり状況は変わらない。
逃げては追い。逃げては追い。
もうこんな状況は何度目だろうか、などとむだなことを考えるほどガムルは身体的にも精神的にも追い込まれていた。
右へ左へ交わしていくが徐々に避けてから追撃までの時間が削られていくのが分かっていた。
そしてその間隔徐々に減り続け、ついに零に達した。
それは右頬を舐めるように通り抜けた盾をガムルが交わした直後だった。
右足に集まった体重、それを推進力にするために膝を曲げた瞬間、自分のではない力にその大きな体は地面を何度も跳ね、滑っていた。
「―っ!?」
遅れて右脇腹を襲う激しい熱と痛み。それに飛びそうになる意識をなんとか繋ぎ留め、ガムルは身体を起こすため地面に両手を着いた。
ゆっくりと身体を持ち上げて行き、やっと四つん這いの状態になった。
そのときだった。
ガムルの視界の端に黒い靴が入ってきたのは。
マズイ。そう分かっていながらガムルはまだ動けなかった。
どうやら地面を転がっている最中に頭を打ったのだろう。その視界はグラグラと揺れ今のガムルには平衡感覚でさえ全くなかった。
急に突きつけられた死の宣告をガムルは受け止められずにいた。
これで終わりなんだろうな。
ただ漠然とそれだけしか認識できていなかった。
「……なぜ焼けていない?」
「は?」
覚悟を決め、目を閉じていたガムルはその意外な問いに間の抜けた声が口から溢れた。
「なぜ焼けていないんだ?」
「……ふん。お前の炎の性質を利用しただけだ。」
彼の操る黒炎は人間、あるいはそれが生み出すものを燃やす炎。だが逆をいえば普通の炎なら燃やせるものを燃やせなくなるのだ。
ニヤリと笑うガムルと無表情であろう赤い目の男。
その二人の間を少し湿気を含んだ風が駆け抜けた。
先程までならば決して気に止めることもなかった小さいこと、風に舞う落ち葉になぜか男の視線は釘付けにされていた。
それはその落ち葉そのものに問題があった訳ではない。
だが、なぜかその風に巻き込まれていたはずの落ち葉がその束縛から逃れ、ガムルの身体の周りを回り出したのだ。
「そういうことか。」
「ちっ……バレたか。」
そうガムルは自分の体の周りに風を纏っていたのだ。
だが、ただ纏うのではない。その下にさらに薄い、冥力の膜を生み出していたのだ。
その二重構造によって燃え移るはずの炎を遮っていたのだ。
「だが……もう関係はない。」
冷や汗が滴り落ちるガムルに男は何を考えているのか分からない赤い目を向けた。
そこに宿る純粋な殺意にガムルはもうピクリとも体が動かなかった。
彼の目の前で今までと比べ物にならないほどの火力を灯す盾からガムルは視線を外せなかった。
「目障りだ。死ね。」
「っ!?」
そして息を飲むガムルの前で天高くそれを掲げると、その頭部に向けて降りおろされた。
「うっ!?」
もうどうしようもない。死を覚悟したガムルは目をつむった。
だが、衝撃は来ない。
なぜだ、そう思い顔を上げたその目の前で黒い炎は動きを止めていた。
「ちっ、邪魔が入ったか。」
ゆっくりとガムルの前からそれを降ろすと、男は跪くガムルの横腹を蹴り飛ばした。
「がぁっ!?」
吹き飛び、けたたましい音と共に家屋に突っ込んでいくガムル。だが男はそれを見ることもなく、自分が出てきた森の方を睨んだ。
「ちっ……」
しばらくそこに視線を固定したあと、男はバガンと地面を踏み砕き、立ち並ぶ家屋の向こうへと消えた。
その少し前、里へと向かう森の中、三つの影が動きを止め、固まっていた。
「何? この間隔。」
ツーと冷や汗を滴らせながら立ち尽くすフィロの横で、リタニアを抱え上げたままの龍牙は先ほど見つめていた自分たちが向かっている方向の上空を睨んだ。
(この気配。誰なんだ?)
全ての生命を否定するような殺気に満ちた圧倒的な存在感。このような殺気を日常的に感じていた龍牙ですら動きを止めてしまうほどそれは重かった。
これほどのものを放てる者など龍牙は三人しか知らなかった。
だが、その相手をしている者も中々に強い。
これほどの圧倒的な力を前にして互角とまでいかなくともそれに近い戦いを繰り広げているのだ。それも相手と比べ物にならないほど『弱い』のに
「誰だ?」
これほどまでに希薄な気配であの強大な気配と渡り合うなど龍牙には信じられなかった。
つまり、相手の攻撃を分析し、自分の可能な範囲でその対抗策を練り、実行する。このどれを行うにしても難しい三つの動作、これを一切の狂いなく行う。
この力量差を考えればその完成度の高さが『完璧』という言葉を使いたくなるような段階にいることが容易に予想が付いた。だからこそ、龍牙は信じられなかったのだ、その者が放つこの『脆弱』な気配が。
「リューガさん……」
「行くぞ。」
自分の目で確かめなければ。
この違和感を払拭し、招待を突き止める。そのような義務感に駆られた龍牙はリタニアを小さく抱え直し、また強く地面を蹴った。
また森の中を走りだした三人は、少し先から射し込む光に自然と足が早まっていた。
龍牙たちが近づくにつれ、その戦闘による地面が砕ける音がより激しさを増していた。
それは距離的な意味ではない。ただ戦闘そのものが激化していたのだ。
彼らの背後で行われている大規模な殺し合いの音はもう聞こえない。
だが三人の内、誰一人として振り返る者はいなかった。
あと少し、あと少しで知ることが出来る。
三人が三人ともこの戦闘を行なっている二人の姿を捉えたかったのだ。
その中でも龍牙の足は特に早まっていた。
一歩踏み出すたびに膨れていた義務感という名の好奇心、それが心の中で暴れまわっているのだ。
徐々に増していく光の量。
それがドクン、ドクンと彼の胸を大きく跳ねさせる。
まるで贈り物を開ける前のような、そんなときめきにも似た感情。それをこの殺し合いの場で感じる自分自身に龍牙は驚くと同時に理解していた。
自分はこの二人に会いたがっているのだと。
自分と同じ、常人を遥かに凌駕する存在に会いたいのだと。
自分の心の中が好奇心に埋めつくされるように、その視界もまた暗い森に射し込む光に埋めつくされていた。
「出たよ。」
そしてそれが視界全てを覆った時だった。
闇に慣れた目を細めているその先で、これまでにない、けたたましい破砕音が鳴り響いた。