赤いハンカチと猫の恩返し
その日、私はお菓子の箱の中にいた。
「親切な人に拾われるんだよ。子猫ちゃん」
そう言い残して、その人は消えた。
しばらくして、雨が降り出した。
雨は体温を奪い、体力も奪っていった。
私はもう鳴き声を上げることもできずにいた。
降りしきる雨の中、どのくらい経っただろうか。
お菓子の箱の上に黄色いものが覆いかぶさった。
おかげで、雨が吹き込んでこない。
大きく揺れて、お菓子の箱が移動する。
「よいしょ。よいしょ」
小さな女の子の声が上の方から聞こえる。
黄色の屋根が取り外される。
それは黄色の帽子だった。
濡れた髪の女の子が、こちらを覗いてくる。
「ここなら、濡れないよ」
女の子は橋の下に連れて行ってくれた。
「ごめんね。チーちゃん、ミルクを買うお金持ってないの」
そのチーちゃんは人差し指で、私の頭を優しくなでてくれた。
「もうすぐ暗くなるから、帰らないといけないんだ。ママが心配するから。ごめんね、チーちゃんちアパートだから動物を飼っちゃいけないんだって。この間、ママに叱られたばかりなんだ。あっ、でもママ。優しいよ」
チーちゃんは、ずっと撫でてくれている。
「帽子、風よけにしたいけど、無くすと大変なんだ。帽子を忘れて保育園に行ったら、シングルマザーだから帽子を買えないんだって年チョーさんにバカにされたの。よくわからないけど、ママがバカにされるのは嫌なんだ。チーちゃん、ママが大好きだから。あっ、そうだ」
チーちゃんは小さな赤いハンカチを取り出し、私をくるんでくれた。
「これでもう、寒くないでしょ」
冷え切った体だが、不思議と少しだけ暖かいと感じた。
それから、チーちゃんはバイバイしながら雨の中に消えた。
くるまった赤いハンカチから、チーちゃんの温もりが伝わった。
空腹だったが、何故か満たされた気持ちで、私はこの世から消えた。
〈困りましたね。もう十四年も経ってるんですよ〉
八の字眉の神様が私を諭そうとする。
〈今年中には、諦めてもらいますからね〉
嫌ですと私は頑なに否定する。
十年がたった頃、私は一度神様と大喧嘩をした。
死んだ子猫に何ができる。見てるだけだ。成仏しろと。
その時は、チーちゃんのそばから絶対に離れないと断固拒否した。
神様の八の字眉が、水平になるほど怒っている。
体が千切れそうで痛かったけれど、それでも成仏するとは決して言わなかった。
私はチーちゃんが幸せになるまで、絶対ここから離れないと神様に向かって叫んだ。
最後は神様が折れてくれた。
十四年経った今、チーちゃんは十八歳になり、高校を卒業した。
十六歳から始めたスーパーの仕事は、バイトからパートに昇格した。
でも、正社員にはなれなかった。
そんなチーちゃんには夢がある。
女優になることだ。
めげずに何度も応募書類を送り続けた結果、やっと小さな芸能事務所に入ることが出来た。
その芸能事務所には、看板俳優がいない。弱小事務所だ。
それでも、チーちゃんは幸せだった。
大好きなお母さんとの二人暮らし、女優の夢も少しづつだが現実味をおびてきた。
ただ見守ることしかできないが、私はずっとチーちゃんを見ていた。
いつものようにチーちゃんを見ていると、八の字眉の神様が言った。
〈分かりました。今回だけ、特別ですよ。そしたら、成仏するんですよ。いいですか〉
神様が私に少しだけ力を与えてくれた。
〈あなたの小さな体では、受け止められる力はこれが限界です。では、行きましょうか〉
この神様、困った顔している割にせっかちだ。
私も何をするか、既に決めていた。
そこは、チーちゃんが役をもらうため、何度も通い続けているテレビ局だった。
〈テレビ局ですか〉
はい、チーちゃんはドラマのオーディションを受けに来ました。
〈でも、お菓子のCMに出てる子で決まりですよ。このドラマのスポンサーですから〉
はい、知ってます。今回は難しいと思います。
私が注目していたのは、別のドラマのプロデューサーだった。
「プロデューサー」と呼び止められる。
ロビーに入ったとたんにこれだ。
大手芸能事務所のマネージャーが笑顔で近づいてくる。
売り込みの帰りだろうか。
隣で着飾った女優が、ニッコリと笑みを浮かべている。
急な雨で大変でしたねと大き目のタオルを差し出す。
用意がいいな。
でも、大丈夫と自分のハンカチを取り出して肩にかかった雨をふき取る。
この女優、もう女子高生役は無理だろう。
でも、後に続く女優が育っていないのか。
適当に切り上げて、その場を離れた。
「あの、落ちましたよ」
振り返ると女の子がハンカチを持っていた。
いつ、落としたんだ?
濡れてぐしゃぐしゃになった男のハンカチなんか気持ち悪いだろうに、その子は丁寧に両手で支えていた。
童顔の可愛い子だった。でも、この業界、かわいい子しかいない。
そうか、君も仕事が欲しいのか。
営業スマイルを作り、ハンカチを受け取る。
女の子は会釈をすると、そのままロビーから出て行こうとする。
あれっ? 名前と顔を売り込むんじゃなかったのか。
チャンスだったはずなのに。
女の子は一人で雨の中、傘も持たずに外に出て行こうとする。
迎えに来るマネージャーはいないのか。
「チーちゃん。駅まで送ってくよ」
あの女優が、格下に親切にするなんて珍しいな。
断ろうとするチーちゃんの頭をポンポンしている。えらく気に入られているな。
チーちゃんか。どんな子だ? 機会があったら、生徒役でオーディションに呼んでみようか。
濡れたハンカチを見つめる。
朝、妻に女除けだと笑いながら渡された、ブランドのロゴの入ったハンカチだ。
派手な赤い色をしている。女性ものにも見える。
女除けにはならなかったぞ。
帰ったら、妻に伝えよう。
〈これでいいのですか? 十四年も私と戦ってきたのに、こんなんで〉
小雨の中、チーちゃんが地下鉄の中に入るのを見届けてから、私は答える。
これで、いいんです。
〈宝くじや、現金を拾わせることもできたのに。そのくらいの力は与えたはずですよ。それなのに、あのハンカチで〉
はい。チーちゃんは、努力を続けることが出来る人です。
きっかけさえあれば、必ず成功します。私は信じています。
〈そうですか。では、行きましょうか。もういいですよね〉
はい、と答える。神様は、やはりせっかちだ。
私はとても満足だった。
神様に連れられて、私は天に昇っていく。
天に昇るにつれ、地上の時代がどんどん進んでいく。
現在、ほとんど空席の舞台で、チーちゃんは迫真の演技をしていた。
帰ろうとする彼女の手を振りほどき、その観客はチーちゃんを目で追いかけていた。
彼女は怒って帰ってしまったが、彼氏は最後まで舞台にくぎ付けだった。
大丈夫。頑張って続けていけば、お客さんもきっと増えるよ。
チーちゃんは二十三歳になった。
初めてのテレビ出演。
童顔のチーちゃんは女子高生の制服がとてもよく似合う。
あのプロデューサーが、オーディションで見つけてくれた。
実年齢では年下のキラキラしたアイドルに混ざっても、チーちゃんは埋もれていない。
大丈夫、チーちゃんには舞台で培ってきた演技力がある。
次第に認められ、ドラマに呼ばれる回数も増えてきた。
チーちゃん、頑張れ。
チーちゃん二十八歳。
初めてのCM。これは、世間がチーちゃんを認めたということだ。
駅に缶ジュースを持ったチーちゃんのポスターが張られている。
立ち止まって眺めている人もいる。
チーちゃん、おめでとう。
そして、三十六歳。
ついに主役を手に入れた。
独身のチーちゃんが主婦役をしている。
チーちゃんは何でも演じられる。それが器用貧乏というイメージになっていた。
これまで演じてきた脇役の演技が次第に輝きを増し、ついに格上の主役を越える光を放つまでになった。
なるべくしてなった。これがチーちゃんへの評価だ。
女優としては、かなりの遅咲きだが、これは実力で勝ち取った勲章だ。
女子高生役からチーちゃんをずっと使い続けた、あのプロデューサーが抜擢してくれた。
いい人に巡り合えて、よかったね。
〈こうやって、天に昇っていくのも、乙なものでしょう〉
八の字眉の神様が振り返って微笑む。
困ってる顔にも見えるが、それは違うと私は知っている。
なぜなら十四年間、一緒にチーちゃんを見続けてきたからだ。
はい。十四年間お世話になりましたと私は答えた。
私は何もしていない。
全て、チーちゃんのひた向きな努力の結果だ。
〈その赤いハンカチはやはり、持っていくのですね〉
これは、絶対放しません。チーちゃんが私にくれたものです。
私は今も赤いハンカチにくるまっている。
十四年間ずっとだ。
チーちゃんを見続けることが出来て、私は本当に幸せだった。




