第2話
空気が、張り詰める。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、ホールは水を打ったように静まり返っていた。
氷血公爵。
その異名は、彼の冷酷無慈悲な性格と、敵対する者を容赦なく凍てつかせる強大な氷の魔力に由来する。戦場では鬼神と恐れられ、社交界ではその冷たい眼差しで数多の令嬢を泣かせてきたと噂の人物。
そんな彼がなぜ、この茶番に口を挟むのか。
誰もが息を殺して、公爵の次の一言を待っていた。
リアム公爵は、動揺を隠せないアルフォンス王子を一瞥した。その金の瞳には、何の感情も浮かんでいない。まるで、道端の石ころでも見るかのような、無機質な光。
「……シュヴァルツフェルド公。これは、我が国の内政問題だ。貴殿が口を出すことではな――」
「不要なのだろう?」
リアムは、王子の言葉を遮った。
温度のない声が、冷たく響く。
「その令嬢が、だ。貴殿にとっては不要な存在なのだろう? ならば、問題あるまい」
そう言って、彼はゆっくりとセレスティアの方へ歩みを進める。
一歩、また一歩と近づくたびに、上質な香水の、微かに冷たい香りが鼻をかすめた。セレスティアは、知らず緊張に身を固くする。
(なぜ、この方が……?)
彼との面識はない。いや、遠くから姿を見かけたことは何度かあるが、言葉を交わしたことなど一度もなかった。彼が自分に関心を持つ理由が、どこにも見当たらない。
リアムは、呆然と立ち尽くすセレスティアの目の前で足を止めた。
見上げるほどの長身。その影に、すっぽりと覆われてしまう。
冷たいと噂される金の瞳が、じっとセレスティアの顔を覗き込んできた。
なぜだろう。
その瞳は、噂のような冷酷さだけではなく、どこか懐かしいような、焦がれるような、不思議な熱を帯びているように感じられた。
「もし、ヴァインベルク嬢を不要だというのなら」
公爵は、再びアルフォンス王子の方を向いて、静かに、しかしホール全体に響き渡る声で言った。
「このセレスティア・フォン・ヴァインベルクは、私がいただこう」
「――なっ!?」
今度こそ、アルフォンス王子が絶句した。
それは他の誰もが同じだった。会場のあちこちから、信じられない、といった悲鳴に近いささやきが漏れる。
魔力なしの、出来損ない。
王家にすら見捨てられた令嬢を、あの氷血公爵が「いただく」と?
誰もが、自分の耳を疑った。
セレスティア自身が、一番混乱していた。
頭が真っ白になる。彼の言葉の意味が、うまく理解できない。
そんな彼女の混乱をよそに、リアムは驚くべき行動に出た。
漆黒の貴公子は、その場にすっと片膝をつくと、セレスティアの右手を取った。節くれだった、けれど美しい指先が、セレスティアの冷え切った指に触れる。
心臓が、大きく跳ねた。
「セレスティア嬢」
顔を上げたリアムが、まっすぐにセレスティアの瞳を見つめる。
その金の瞳に宿る真摯な光に、セレスティアは息を呑んだ。
「ずっと、あなたを探していました」
囁くような、甘い声。
「どうか、私と結婚していただきたい」
彼の言葉が、夢のように現実味のない響きをもって、セレスティアの耳に届いた。
嘲笑と侮蔑に満ちていたホールで、ただ一人。
氷血公爵と呼ばれ、誰もが恐れる彼だけが、自分に手を差し伸べている。
その金の瞳に映るのは、「出来損ない」ではない。
ただ一人の女性、セレスティア・フォン・ヴァインベルクとしての、自分自身の姿だった。




