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第1話

ざわ……。


肌を刺すような、無数の視線。

まるで値踏みでもするかのような好奇の目と、隠しきれない嘲笑が、さざ波のようにホールに広がっていく。


(ああ、またか)


セレスティア・フォン・ヴァインベルクは、胸のうちで静かにため息をついた。

きらびやかな装飾が施された王城の大広間。天井では目も眩むほどの宝飾が、無数の光の粒を振りまいている。床に敷かれた真紅の絨毯は、貴婦人たちの華やかなドレスの裾を優雅に受け止めていた。


視覚も聴覚も、あらゆる感覚が「ここは夢の世界だ」と甘く囁きかけてくる。

けれど、セレスティアにとって、この場所は夢などではなく、ただ息苦しいだけの鳥籠に過ぎなかった。


「セレスティア・フォン・ヴァインベルク! よくも俺の前にその顔を出せたな!」


甲高く響き渡った声に、会場のざわめきがぴたりと止む。

声の主は、この国の第一王子であり、セレスティアの婚約者でもあるアルフォンス。燃えるような金色の髪を振り乱し、美しい顔を怒りで歪ませている。


その隣には、庇護欲をそそるように寄り添う小柄な少女。聖女エリス。異世界から召喚され、国中の寵愛を一身に受けている存在だ。潤んだ瞳でこちらを見つめる彼女の姿は、まるで悪役に虐げられた悲劇のヒロインそのものだった。


(茶番ね)


セレスティアの唇から、凍てつくような冷笑が漏れそうになるのを、必死でこらえる。


「アルフォンス殿下。今宵は建国記念の夜会ですわ。あまり大きな声をお出しになると、皆様が驚いてしまいます」


あくまで冷静に、淑女の仮面を貼り付けて返す。

その態度が、さらに王子の癇に障ったらしい。


「黙れ、出来損ないが! 貴様のような魔力なしの女が、俺の隣に立つことすら汚らわしい!」


出来損ない。魔力なし。

聞き慣れた罵倒の言葉が、ガラスの破片のように降り注ぐ。

ヴァインベルク伯爵家に生まれながら、セレスティアは魔力を持たなかった。この世界では、魔力の有無が人間の価値を決めると言っても過言ではない。特に、貴族にとっては。


家族からはいないものとして扱われ、使用人からは蔑まれ、そして婚約者である王子からは、こうして公衆の面前で何度も屈辱を与えられてきた。


胸が痛まないと言えば嘘になる。

けれど、それ以上に、セレスティアの心を満たしていたのは、別の感情だった。


「聖女エリスを虐げたそうだな! 嫉妬に狂った貴様が、彼女の部屋でお茶をひっくり返し、大切な聖具を壊したと聞いている! 言い訳があるなら言ってみろ!」


王子がエリスの肩を抱き寄せ、守るようにしてセレスティアを睨みつける。

エリスはびくりと肩を震わせ、「わ、私が悪いのです、殿下。セレスティア様を怒らせてしまうようなことを、きっと私が……」とか細い声で呟いた。


ああ、なんて見事な演技だろう。

実際は、彼女が自分で茶をこぼし、わざと聖具を床に落としただけなのに。

その現場を、セレスティアは偶然見てしまっていた。エリスの目に宿る、昏い嫉妬の色と共に。


けれど、それを誰が信じるだろう。

聖女の言葉と、出来損ない令嬢の言葉。天秤にかけるまでもない。


(もう、いいわ)


セレスティアは、すぅ、と息を吸った。

もう、うんざりだった。

このくだらない茶番も、偽りの婚約者も、息の詰まるような毎日も。


すべて、今日で終わりにしよう。


「――よって、今この場を以て、貴様との婚約を破棄する!」


アルフォンス王子が高らかに宣言する。

決定的な言葉。セレスティアの人生を、絶望のどん底へ突き落とすはずの、断罪の言葉。


会場が、待ってましたとばかりにどよめく。

これで伯爵令嬢も終わりだ、と囁く声。

当然の報いだ、と蔑む視線。


その、すべてを浴びながら。


セレスティアは――微笑んだ。


心からの、花が綻ぶような笑みだった。

肩の荷が下りたような、長年の呪縛から解き放たれたような、晴れやかな微笑み。


「……なっ」


王子が息をのむ。

泣き叫び、許しを乞うと思っていたのだろう。あるいは、怒りに我を忘れて喚き散らすとでも?

予想外の反応に、王子も、隣の聖女も、そして周囲の観衆も、ただ呆然とセレスティアを見ていた。


「謹んで、お受けいたしますわ、アルフォンス殿下」


澄んだ声が、静まり返ったホールに響く。

セレスティアは、これ以上ないほど優雅にカーテシーをしてみせた。


「長きにわたり、お世話になりました。今後の殿下と、聖女エリス様のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」


(さようなら、私の鳥籠)


もうあなたたちの茶番に付き合う必要はない。

これでやっと、自由になれる。

ずっと夢見ていた、ささやかで穏やかな暮らしが、ようやく手に入るのだ。


喜びで、胸が震える。

顔を上げ、背筋を伸ばし、セレスティアは毅然としてその場を去ろうとした。


その、時だった。


「――待たれよ」


低く、静かだが、有無を言わさぬ威圧感を秘めた声が、空気を凍らせた。

誰もが声のした方へ振り向く。

そこに立っていたのは、漆黒の礼装に身を包んだ一人の男。


黒曜石のような髪。

彫刻のように整った顔立ち。

そして、すべてを見透かすような、冷たい輝きを放つ金の瞳。


隣国シュヴァルツフェルド公国の若き当主、「氷血公爵」リアム・フォン・シュヴァルツフェルド。

その人だった。

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