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『17の夏/27ノナツ』  作者: 橘千紗
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2016年12月15日(木)16時17分

 2016年12月15日(木)16時17分。


 冬の夕暮れ、グラウンド横のブルペンには、吐く息が白く漂っていた。

「ズバァン!」

 信二の構えたミットに、マウンド上の大気が放ったカーブが吸い込まれる。乾いた衝撃音が冷えた空気を震わせた。

 相変わらずフォームは無駄がなく、美しい――信二は捕球の衝撃を手首で受け止めながら、そんなことを思う。

 しかしそれ以上に、マウンド上の大気自身が確かな手応えを感じているのが伝わってきた。

 やっとだな、と信二は心の中でつぶやく。体づくりに費やした日々、その成果がようやく本人にも手応えとして返ってきたのだろう。

「次、スライダー!」

 短く告げると、「お!」と大気が嬉しそうに頷く。

 今冬、重点的に磨いてきたのはスライダーの制球。

 ワインドアップから、スリークォーター気味の左腕がしなり、白球が鋭い軌道を描いて飛び出す。先ほどのカーブよりも大きく横へ切れ込む球筋――狙い通りだ。

「バァン!」

 狙ったミットの芯にボールが収まった瞬間、マウンド上の大気の口元が緩む。その横で見ていた二年生のピッチャー、東仁も小さく「おおっ」と声を漏らした。

「……いいな」

 信二の背後、ブルペン入口に立つ高橋監督が、短く頷く。

「ええ、俺もそう思います」

 信二が応じると、高橋は大気に向けて声を張った。

「おい、輿水。今日グラウンド整備で業者入るから、もう上がっていいぞ。東とクールダウンやっとけ」

「お! じゃ、お先に〜」

 東と肩を並べて、そそくさと荷物を抱えていく大気。

 背中に向かって信二が「ストレッチもしっかりな!」と声をかけるが、大気は振り返らず、手をひらひらと振って「わかったわかった」と、消えて行った。

 そのぞんざいな返事に、高橋はほんのわずか眉を上げた。

「珍しいな。いつもなら、『あと一球投げたい』って言うのに」

「まあ……監督。あいつにも、いろいろ予定があるんですよ」

「予定? 整体か?」

 そのズレた推測に、信二は思わず横目を向け、「さ、さあ……」と苦笑いでごまかした。

「しかし――輿水のあのスライダー、使えるな」

 高橋はふっと鼻で笑い、話題を変える。

「ええ。あのフォームなら、もともとスライダーとは相性がいいはずでしたが、制球の課題が大きくて……。でも今後、今のカーブとスプリットと合わせて……それに、140キロ後半台のストレートがもう少し伸びれば、かなりの投手になりますよ。……だいぶ」

 高橋が口角をわずかに上げる。

「“だいぶ”、ね。相変わらず相棒には厳しいな」

「責任を感じているだけですよ」

「責任?」

 短い問いが、冷えた空気に淡く響く。

「……まああいつ、もともとシニア時代の金丸さんから熱心に甲斐学院に誘われていたじゃないですか? 実際に学校からも推薦も来ていたし」

 信二は、ブルペン脇のネットに寄りかかりながら言った。吐く息が、白く形を変えてすぐに消える。

「けど、俺と一緒に野球やりたいっていう――バカみたいな理由で、こっちに来ちゃって」

 その言葉のあと、視線は地面の黒土へと落ちた。

「いや、監督をバカにしてるわけじゃないです。でも……高校で名門で経験できることと、環境の整ってない公立とは、やっぱり話が違うんで」

 高橋は短く鼻を鳴らし、「ああ、悔しいが、事実は事実だな」と認めるように言った。

「名門は機材も、コーチ陣も、OBも、何もかも揃ってる。でも、それを言えば――三浦だって推薦、もらってただろ? あっちに行けば、もっと成長できたんじゃないのか」

「甲斐学院ですか?」

 信二は少し笑って、土をつま先で崩した。

「ええ。まあ、中学で金丸さんとも二年間バッテリー組んでましたし、あの人的には来て欲しかったらしいですが……俺はレギュラー厳しいと思ったんで」

「そうなのか?」

「ええ。シニアの全国大会で上に行けたのも、正直、大気のあの”ドロップカーブ”のおかげですよ。あれは中学生には魔球みたいなもんでした」

 信二は指先でボールの縫い目をなぞるような仕草をして、口の端を少しだけ上げた。

「でも、それだけに、あいつは呼ばれて、俺は中学のアンダーの日本代表に呼ばれなかった。……そういうことですよ」

 しばしの沈黙。ブルペンの奥で、片付けられたネットの金具が風にカタカタと鳴る。

「だから、中学で全部察しました。だったらあとは、自分のペースで、いい意味で楽しく野球やれたらな、って思って……逃げるようにこっちに来たんです。そしたら――あのバカが、ついてきちまった」

 信二は自分でも苦笑しながら、肩をすくめた。

「すごく責任を感じましたよ。『お前はこっちじゃない。選ばれた側なんだから、あっちに行けよ』って、本当に思った」

 声が少し低くなる。

「だからこそ、あいつが今後、大学や社会人、プロでキャリアを作っていくのに、この高校三年間を無駄にさせたくない。それだけです。……先々週の修学旅行中も、ずっとそんなことばかり考えてました」

 高橋は何も言わず、ただ足元の土を軽く蹴って整えた。

「……あ、さーせん。キャプテンでも、たまには弱音も言いたくなって」

 冗談めかして付け足したが、信二の笑顔はどこか固く、唇の端がわずかに震えていた。

 高橋はしばらく無言で信二を見つめていた。ブルペンの奥から、誰もいないグラウンドに冬の風が吹き抜け、乾いた土の匂いが漂ってくる。

「三浦……。お前に足りないもの……陳腐だが、やはり自分を信じる心だな」

 信二は黙ったまま、監督の言葉を待った。

「自分を信じるのは、怖い。もし裏切られたら、何もかも崩れるような気がするからな。だが――それができなければ、チームもお前を信じてはくれない」

 そこで一拍置き、グラウンドの方を見やった。陽はもう低く、ネットの影が長く伸びている。

「肝に命じておけ。自分を信じられずに浪費した時間は、二度と返ってこない。ただの無駄になる。しかもな――自分を信じられない時期ってのは、若いときにこそ多い。だからこそ、より貴重な時間ほど捨ててしまうんだ。

 けどな……。勇気を出して自分を信じた時間は……確かに傷つくこともある。失敗もする。だが、浪費した何十時間より、俺はずっと価値があると思っている」

 監督は再び信二を見た。

「そして何より――お前はもう立派なキャプテンだ。少なくとも、俺の目にはそう映ってる。時間を無駄にするな」

 その言葉に、信二の胸の奥で、冷えていた何かがじわりと温まる感覚があった。

「……はい」

 短く答えた声は、先ほどよりほんの少しだけ強く響いた。

 冬だからこそ、まだ16時過ぎだというのに、空はすでに夕暮れ色を帯びていた。オレンジと群青の境目が、二人の背後から静かに迫っていた。





「さーせん、お先に!」

 大気はバッグを肩に引っかけ、足早に部室を出ようとした。だが、入口でりんと、はじめが同時に立ちはだかる。

「……んだよ、お前ら」

 訝しむ視線を向ける大気。その手前、はじめがポケットから何かを取り出し、差し出した。

「シーブリーズぶっかけとけ。汗臭いと嫌われるぞ」

 一瞬ぽかんとしたが、妙に的を外したその助言が、なぜか胸にしみた。

「……ああ」

 短く応じると、二人は子どものように口元を緩めた。

 思い返すと、先輩がアンサンブルコンテストで代表を決めたあの日。俺は興奮して、ついつい勢いで『お疲れ様会と祝勝会をしましょう!』と、ラインを送った。

 だが現実は甘くない。先輩は大会後で時間はあるが、こちらは練習に追われ、予定はまるで合わなかった。

 そんな中で起きた奇跡。今日に限って、霜の影響で、グラウンド整備の業者が入り、練習が中止になったのだ。外周を走ることもできたが、高橋監督が珍しく「たまには休みもいいだろう」と笑って許可を出した。監督も色々と最近あったようで、お疲れの様子だった。

 だから授業中、思い切ってラインを送った――「今日、行けませんか?」。

 返事はすぐに来た。先輩は普段とても真面目だが、時折見せるその“若干不真面目”な面が、なぜか心を掴んで離さない。こっそり小テスト中だったが、画面を開くと、もうデートの場所も、そのあとの行き先も決まっていると書かれていた。

 とりあえず現地集合。最初の目的地は……ああ、先輩がずっと行きたがっていたあのカフェだ。グーグルマップのリンクまで貼られ、さらに、その下にひとこと。


『あと、あの日の返事をしたい』


 たったそれだけの短い文なのに、心臓が急にバクバクしだした。

 つ、ついに来た……。

 おれ、落ち着け、落ち着けよ、深呼吸。大丈夫、大丈夫、なはずだ。

 隣の雪がなんだか心配そうにこっち見てたけど、多分小テスト中にエロサイトでも見てると思われたんだろう。案の定、授業が終わったら明らかに冷たくなったけど、そんなの気にしてる場合じゃない。雪、すまん。

 放課後。軽く練習をこなし、時計を気にしながら早々にグラウンドを離れる。部室の前で、りんとはじめに手を振り、すぐに自転車へ飛び乗った。

 冬の冷たい空気を切り裂くように、全力でペダルを踏み込む。吐く息は白く千切れ、街の灯りが少しずつ近づいてくる。

 校舎を抜けて少し先、見慣れた新荒川橋が夕陽に染まっていた。

 何の変哲もない、どこにでもあるような田舎の橋。けれど、その日、その時間、その瞬間の景色は、どこか特別に感じられた。

 沈みかけた太陽が橋全体を、まるで誰かの記憶のような優しいオレンジ色で包み込み、下校中の中学生たちの影が長く伸びている。

 こんな風景が、これほどまでに心に染みるなんて。

「……今日は、なんだかいい日だな」

 つい、自然と口からこぼれた言葉だった。

 この時間に、この場所にいると、そんな気持ちが溢れてくる。

 先輩はもう現地に着いているのだろうか。

 思えば、あの告白から今日で、ちょうど一か月が経った。

 その間に、たくさんの時間を共有してきた。

 楽しいこともあったし、時には小さな喧嘩もした。

 でも、すべてがかけがえのない思い出になっている。

 特に忘れられないのは、あのプラネタリウムの夜。

 静かな暗闇の中で、星空を見上げながら、隣にいた先輩がぽつりと口にした言葉。

「やっぱ、自信ないからこそ……大会では負けたくない」

 その弱さと強さが混じり合った先輩の姿に、胸がぎゅっと締め付けられた。

 普段の俺は、感受性が豊かな方じゃない。

 だけど、恋をしている今は、世界のすべてが愛おしい。

 どんな小さなことも輝いて見える。

 触れるものすべてが、まるで初めて見るかのように新鮮で大切に感じる。

 そう考えると、先輩は俺にたくさんのものをくれている。

 あの決勝の応援歌の時から、ずっと。

 そんな想いを胸に、自転車をゆっくりと橋の上で止めた。

 ポケットからスマホを取り出し、そっとシャッターを押す。

 一枚だけ、この美しい景色を写真に収めた。

 きっと先輩も喜んでくれるだろうと、自然と微笑みがこぼれた。

 その時、前を歩いていた中学生たちがちらっとこちらを見て、少し距離をとった。

 慌ててスマホをしまい、顔を赤らめる。

 ――あとで直接見せよう。

 そう思った瞬間だった。

「先輩〜」

 背後から聞こえた声に、身体が一瞬強張った。

 同時に、心臓が跳ね上がり、肌の奥にぞわりと冷たいものが走る。

 振り返ると、学ラン姿のロン毛の中学生が立っていた。

「え? お前……、樋口か?」

 問いかける声は平静を装っていたが、内心は動揺していた。

「そうっすよ。お疲れ様です」

 軽い口調だが、目は真剣だ。

 中学三年で、シニア時代の後輩、セカンドの樋口。

 気さくに絡んでくるが実力は申し分ない。

「何してんすか? 大気先輩、練習はないんすか?」

「いや、今日は休み」

「はあ?! 先輩が休みなんて珍しいな~」

「まあ、たまにはいいんだよ」

「それで甲子園出られるんすか?」

「はは、相変わらず嫌なやつだな」

 そう笑い返した瞬間、樋口の声が少しだけ低く、真剣なトーンに変わった。

「そういえば……先輩、俺、甲斐学院に進みます」

「……そうか」

 抑えた声が、どこか遠くに響くようだった。

「大気先輩が第二甲府を選んだの、俺は認めてないです。才能あるのに、何してんだよって思う。だから俺は、来年の夏、三浦先輩と大気先輩を否定します」

 樋口の目が鋭く光る。怒りの奥にある複雑な思いが伝わってきた。

 彼は頼もしい仲間だった。

 それがこれからはライバルか……。

 そう思うと、苦笑いが自然と漏れた。

「何笑ってんすか」

「いや、お前らしいなって思ってさ」

「何がですか?」

「てか、そのロン毛、似合ってねえ」

「今だけです。つか……練習休みなら、一打席勝負やりましょう!」

「だめだ、予定がある」

「なんですか、その予定って。かわいい後輩より優先ですか?」

「……“彼女”とデートだ」

 そう言った瞬間、樋口の顔が一瞬強張った。

 その時だった。

 背中に何か冷たく鋭いものが、当たる感触。

「……っ?」

 言葉にならない声が、自然と喉の奥でつかえた。身体が急にぐらりと揺れ、膝が崩れ落ちていくのがわかった。

 遠くから、女性の絶叫が耳を引き裂くように響いた。

「きゃあああああああ!!!」

 その叫びは、自分の鼓動をかき消すかのように、喉の奥に冷たい震えを落とす。

 視界が波打ち、周囲の色がぼやけて滲みだす。世界が突然傾き始め、身体が制御不能になっていく。

「うっ……うっ……」

 痛みがひとつの波紋のように身体の隅々まで広がっていき、呼吸は浅く、荒々しくなる。

 背中の刺し傷からは血がどくどくと溢れ出し、冷たく滴り、地面をじわじわと赤く染めていくのを感じた。

「なん、だ……」

 頭の中は混乱し、思考はぐちゃぐちゃに絡まり合う。暗闇に飲み込まれそうになった次の瞬間、鋭い痛みが腹を襲い、全身が跳ねるように反応した。

 後ろで、男の荒い息遣いと怒号が響く。

 刺している……俺を、刺している……のか。

 視界の端に、ナイフを握る男の影が揺れる。

 そして、その男の狂気を孕んだ目が、震え固まった樋口に向けられた。

 男は獲物を狙う捕食者のように、ゆっくりと、しかし確実に歩み寄る。

「や、っめろ……!」

 震えと恐怖に引きつった声が、震える空気の中で、必死に響いた。

 俺の視界はぼやけていくが、樋口の叫びだけが、頭の奥深くで鮮明に鳴り響いている。

 ふと、あの人の笑顔が脳裏をかすめた。

 優しくて、何度も励ましてくれた、あの笑顔。

 でも、同時に心の奥底で冷たい覚悟が走った。

 もう二度と、会えないかもしれない――そんな絶望が、全身を冷たく包み込む。

 身体の力が抜けていく。

 世界が音を吸い込み、ゆっくりと、静かに暗転していった。


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