エピローグ 2037年7月7日(火)11時12分
エピローグ 2037年7月7日(火)11時12分
ここ東京、大森の暑さは、本当に異常だ。
エアコンを効かせているはずなのに、室内はじめじめと湿気がまとわりつき、ただでさえ鈍くなった作業効率をさらに押し下げていく。
窓の外を見やれば、雲ひとつない青空がぎらぎらと街を焼いていた。
まったく……クソ暑いったら、ありゃしない。
「はあ……」
思わずため息が漏れる。椅子にもたれたまま頭をかくと、掌がじっとりと汗ばんでいた。
締め切りは、あと二日。猶予なんて、ほとんどない。
それでも、指先はパソコンのキーボードの上で、必死に踊り続けていた。
高校を卒業してすぐ、私は高校時代に参加した映画制作についての小説を書き上げた。文字数にして二十七万字くらい。
「アマチュア時代の辻村深月かよ?」
原稿を読んでもらった文学部の先輩は、そんな風にめんどくさそうに嫌味を言ったものだ。
だが、偶然にもその作品をネットの小説投稿サイトのコンテストに応募したところ、たまたま佳作を受賞し、出版。結果、そこから商業作家としてデビューすることになった。
――正直、文体はぐちゃぐちゃだ。
当時の必死さは伝わるが、ひどいものはひどい。
しかし、それでも気になることはいくつもある。
もともと、この作品は映画制作の記録的意味合いを持つものだったが、ところどころにフィクションが混ざっている。
例えば、『第二甲府』なんて学校は存在しない。
昔は『甲府第二』という学校もあったらしいが、そもそも女子高らしい。
他にも、2017年の夏の甲子園で山梨県代表として出場した高校も、現実では別の学校だ。
そして、そもそも私は姉がいない。一人っ子だ。
それなのに、当時の執筆メモを見ると、こう書かれていた。
『これは映画で描けなかった真実を書いている。絶対に忘れない!』
……中二病だったのだろうか。
その思い込みの強さに、つい苦笑してしまう。
「橘先生~!」
自宅のドアが、ノックもそこそこに勢いよく開いた。
入ってきたのは、きりっとした目元に悪魔のような鋭さを宿しながら、どこか憎めない愛嬌も持ち合わせた女――油断ならない、担当がやってきた。
「先生、原稿は?」
「ごめん、渚ちゃん。まだ……」
「はぁ~? ちょっとまた? 締め切り、すぐでしょ」
「ご、ごめんって……」
渚ちゃんは、大学卒業後に大手出版社に就職し、よりによって私の担当になった。
それ以来、彼女は容赦なく尻を叩き、こうして私の部屋にも勝手に上がり込むようになった。
「もう、先生~。病み上がりは理由にならないよ?」
「で、でも……これでも一応、この前交通事故にあったんだけど」
「だ~め。作家は腹から血を流しながら書くっていうでしょう? 先生にもようやく、一流になれるチャンスだね」
「あはは……きびしいなぁ」
「でも、先生――無事で何より。ほんと、心臓止まるかと思ったんだから」
渚ちゃんが、ほんの一瞬だけ目を伏せた。その表情に、厳しさの奥の心配が滲んでいた。
私は、思わず照れくさくて、頭をかいた。
――先日、私は近所で小学生が車にひかれそうになるのを目撃した。
ブレーキが故障していたらしく、車は止まらない。
ほんの一瞬、迷った。でも、気が付けば、私は咄嗟に少女を庇っていた。
そして――気が付いたとき、そこは現実ではなかった。
白く柔らかいもやに包まれ、温泉のように蒸気が漂うのに、不思議と暑くはない空間。
少し奥へ足を運ぶと、巨大な木が、静かに空を支えていた。
その根元で、肩を寄せ合う二人が眠っていた。
ひとりは男子高校生のようで、もうひとりは――二十代くらいの、私にそっくりの女性。
彼らはいったい誰だったのだろうか。
けれど、なぜか胸の奥が、ぎゅっと熱く締めつけられた。
どこかで――知っている。忘れてはいけない何かが、そこにある。
その瞬間、まるで夢がほどけるように、私は元の世界に引き戻されていた。
「……聞いてる? 先生」
「ああ、ごめんなさい。で、何? 渚ちゃん」
「もう、しっかりしてよ。再来月、先生の母校に出張授業で行くって言ったでしょう?」
「あはは、そうだったね。新しい校舎になってから行くのは初めてかな」
「その準備もだけど、それで先生……ペンネームはどうする?」
「ん?」
「先生の本名は“橘春”だけど、今回の出張授業もペンネームの“橘千紗”で行くの?」
その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
デビューのとき、なぜかこの名前を選んだ。
理由は思い出せない。けれど、あのときの自分は、ただ確信していたのだ――この名前でなければ、書きたいことを伝えられない、と。
ふと、時間が少し止まったような気がした。
教室のざわめき、あの夏の匂い、校舎を渡る風――すべてが重なり合い、過去と今が静かに指を絡めていく。
十数年の歳月が、まるで一本のフィルムのように、胸の中を音もなく流れていった。
「うん。橘千紗”先生”の授業で行こう」
その言葉を口にした瞬間、目の前の渚ちゃんが、ぱっと笑った。
その笑顔は、まるで映画のワンシーンのように光を放ち、現実のざわめきさえ少し遠く感じるほどだった。
世界は相変わらず暑く、騒がしく、息苦しいほどだったけれど――
それでも、あの名前の下で、私はたしかにここに立っている。
かつて描いた物語と、今この現実が重なった場所で、胸を張って、次の一歩を踏み出せるのだと――静かに、深く、そう思えた。




