表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/68

2017年9月9日(土)第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』

 2017年9月9日(土)第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』


 瑠璃先輩たちのホルンが、群馬県民会館の空気を震わせた。

 その音は、凍てついた冬を静かに溶かし、やがて無限に広がる春の息吹へと変わっていく。

 音のひとしずくが、冷たい大気を撫で、どこまでもあたたかな光を放ちながら、世界を染め上げる。

 第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』。

 木管と金管が旋律を手渡し合いながら、命を繋ぐように、幸せの波を生み出していく。

 音楽がひときわ明るさを帯びるたび、心の奥に眠っていた希望が、そっと呼び覚まされる。

 ――まだ、ここに在っていいのだと。

 千紗先輩のトランペットの音が胸を打つ。

 それはあまりにも鮮やかで、力強かった。

 まるで、先輩自身の生き様が、そのまま音になったかのように。

 絶望を背負いながらも、ひとつひとつ乗り越えてきた、その重みと優しさが、響きとなって、語りかけてくる。

 気づけば、尊敬と、それを超えた温かい何かが、静かに胸の中に広がっていた。

 ――まさに、集大成だな……。

 大気は、千紗先輩の真摯な眼差しを見つめた。

 その瞳には、一片の迷いもない。

 音楽に、心のすべてを捧げた者だけが持つ静かなひかりが、確かに宿っていた。

 その姿は、俺の胸の奥深くに、そっと、しかし確かに刻まれていく。

 ――俺って、本当に、すごく幸運だよな。

 死んだはずの命が、こうして豊かに蘇った。

 それだけでも、奇跡だった。

 けれど、蘇った先に待っていたのは、決して甘くない現実だった。

 居場所を探して、心の空白を埋めるまでに、どれほどの孤独と痛みを抱えただろう。

 死者に、本来この世に居場所はない。

 どれだけ周囲が手を伸ばしてくれても、時間は残酷に、死者の存在を薄れさせていく。その冷たさを知るたび、大気は幾度となく、押し潰されそうになった。

 それでも、手放さなかった。

 痛みに打たれながら、少しずつ、少しずつ、自分と向き合おうとした。

 甲子園から戻って以来、俺は朝のランニングで、生前の家の前を通るようになった。

 最初のうちは、ただ息を殺すように足早に通り過ぎるだけだった。

 けれど、ある朝――「あら、学園祭で会った子よね?」と、母がふと気づいて声をかけてくれた。

 それをきっかけに、ほんの少しずつ、言葉を交わすようになった。

「そしてある日、母がこう言ったんだ。『もし、良かったら』って」

 あの日、俺は静かに、生前の家に足を踏み入れた。

 靴音すら憚られるような、張りつめた空気の中で――仏壇の前に立つ。

 そこにあったのは、私自身の写真だった。

 ――死んだのだ、と、改めて胸を貫く、冷たくも痛烈な現実。

 仏壇に供えられた白球、仲間たちの寄せ書き。

 どれもが、まぶしすぎて、目を背けたくなるほどだった。

 特に――摘みたての、小さな花束。

 その素朴な香りが、愛されていた日々を呼び覚まし、堰を切ったように記憶が押し寄せる。

 気づけば、頬を伝う涙が、止まらなかった。

 母は驚き、戸惑いながら――それでも、優しく、静かに笑ってくれた。

「……お帰りなさい」

 ただ、それだけ。

 けれど、その一言が、ありったけの光となって、深く、深く、心の奥まで沁みていった。

 楽章は、中盤へと進む。

 ウィンドオーケストラの音の奔流に、満ちるものは、ただ純粋な感動だった。

 あの日、先輩に伝えた。

 光に、この身体を返したいと。

 生きる歓びを知ったからこそ、この胸のどこかに、今も静かに座している光に、それを味わってもらいたいと思った。

 たとえ、それが独りよがりだとしても。

 神様と交わした、約束のためにも。

 そして、それ以上に、素直な俺自身の気持ちとして。

 俺はもう、死者だ。

 変えようもない事実。

 けれど、光は違う。

 温かな体温と、確かな未来と、愛してくれる人たちに囲まれて、今を生きている。

 だから、この手に握っていた小さなバトンを、そっと、渡したい。

 送り出したい。

 そう、心から願った。

 けれど、それは、千紗先輩との別れを意味する。

 だから、怖かった。

 ほんの少し、怖かった。

 けれど、先輩は何も言わず、ただ静かに、すべてを受け止めてくれた。

 馬鹿だなあ、俺。

 そんなふうに苦笑しながら、それでも、そのまっすぐな強さに、改めて心を奪われる。

 ――また、惚れてしまった。

 生への未練はない。

 本当に――幸せだった。

 濃密で、奇跡のような時間だった。

 まるで、アディショナルタイムのように。

 神様が、そっと与えてくれた、優しい贈り物。

 未練は――ない。

 ないはずだった。

 それでも。

 大好きな人が、まだ、この世界にいる――。

 その事実だけが、ほんの少し、心をかすめる。

「もう少しだけ、ここにいたい」と。

 そんな我儘を、つい、願いたくなる。

 でも――思うのだ。

 こんなにも惜しいと思える時間を持てたこと。

 それこそが、何よりの幸福だったのだ、と。

 今なら、心の底から、そう分かる。

 だからこそ――。

 日記にも書けなかった。

 信二にも、ずっと内緒にしていた。

 神様との約束の、一つ。

『意識が完全に消える前に、自らの身体を手放せば、選んだひとりが不幸に命を閉じても、その人に再び生をもたらす加護を与えることができる』

 きっと、これも――。

 俺を愛してくれた誰かが、俺に与えてくれたものなのだろう。

 もちろん、そんな未来なんて、望んじゃいない。

 先輩が不幸で亡くなることなんて、あって欲しくない。

 できれば――信二と幸せになって欲しい。

 心の底から、そう願っている。

 でも――。

 きっと、俺が残せる最後の贈り物。

 それは、これだけなのだろう。

 ふと、視線を上げる。

 トランペットを吹く千紗先輩の目に――きらりと、一筋、涙が光っていた。

 その瞬間。

 その一瞬が、たまらなく愛おしくて。

 俺は、そっと、ふふっと――笑った。

 どうか――。

 どうか、お元気で。





 曲は、ついに最高潮を迎えた。

 ウインドオーケストラ全体がひとつの生命体のように脈打ち、熱を帯びる。

 その中心で、千紗はまっすぐに未来を見据えた。

 揺らぐことのない決意が、胸の奥で静かに燃えている。

 ――これが最後の演奏。悔いは残さない。この先に待つ、美しい未来のために。そして、大気君のために。絶対に、忘れない。

 千紗の瞳に浮かんだ涙は、もはや悲しみではなかった。

 それは、決別ではなく、受け継ぎの涙。

 過去を抱きしめ、未来へと歩み出す者だけが流せる、強く、優しい涙だった。

 音楽が、静かに、しかし確かに終わりに向かっていく。

 千紗の顔に、自然と笑みが咲く。

 泣きながら、笑っている。

 最後の一音が、群馬県民会館を満たすと、深い静寂が訪れる。

 その瞬間、大気は、千紗に向かってそっと微笑んだ。

 声にならない声が、空気を震わせる。

 そして千紗も、確かにそれに応えた。

 微笑みながら、まっすぐに。

 迷いも未練もない、ただ確かな、"生きる"という約束をその目に宿して。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ