2017年9月9日(土)第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』
2017年9月9日(土)第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』
瑠璃先輩たちのホルンが、群馬県民会館の空気を震わせた。
その音は、凍てついた冬を静かに溶かし、やがて無限に広がる春の息吹へと変わっていく。
音のひとしずくが、冷たい大気を撫で、どこまでもあたたかな光を放ちながら、世界を染め上げる。
第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』。
木管と金管が旋律を手渡し合いながら、命を繋ぐように、幸せの波を生み出していく。
音楽がひときわ明るさを帯びるたび、心の奥に眠っていた希望が、そっと呼び覚まされる。
――まだ、ここに在っていいのだと。
千紗先輩のトランペットの音が胸を打つ。
それはあまりにも鮮やかで、力強かった。
まるで、先輩自身の生き様が、そのまま音になったかのように。
絶望を背負いながらも、ひとつひとつ乗り越えてきた、その重みと優しさが、響きとなって、語りかけてくる。
気づけば、尊敬と、それを超えた温かい何かが、静かに胸の中に広がっていた。
――まさに、集大成だな……。
大気は、千紗先輩の真摯な眼差しを見つめた。
その瞳には、一片の迷いもない。
音楽に、心のすべてを捧げた者だけが持つ静かなひかりが、確かに宿っていた。
その姿は、俺の胸の奥深くに、そっと、しかし確かに刻まれていく。
――俺って、本当に、すごく幸運だよな。
死んだはずの命が、こうして豊かに蘇った。
それだけでも、奇跡だった。
けれど、蘇った先に待っていたのは、決して甘くない現実だった。
居場所を探して、心の空白を埋めるまでに、どれほどの孤独と痛みを抱えただろう。
死者に、本来この世に居場所はない。
どれだけ周囲が手を伸ばしてくれても、時間は残酷に、死者の存在を薄れさせていく。その冷たさを知るたび、大気は幾度となく、押し潰されそうになった。
それでも、手放さなかった。
痛みに打たれながら、少しずつ、少しずつ、自分と向き合おうとした。
甲子園から戻って以来、俺は朝のランニングで、生前の家の前を通るようになった。
最初のうちは、ただ息を殺すように足早に通り過ぎるだけだった。
けれど、ある朝――「あら、学園祭で会った子よね?」と、母がふと気づいて声をかけてくれた。
それをきっかけに、ほんの少しずつ、言葉を交わすようになった。
「そしてある日、母がこう言ったんだ。『もし、良かったら』って」
あの日、俺は静かに、生前の家に足を踏み入れた。
靴音すら憚られるような、張りつめた空気の中で――仏壇の前に立つ。
そこにあったのは、私自身の写真だった。
――死んだのだ、と、改めて胸を貫く、冷たくも痛烈な現実。
仏壇に供えられた白球、仲間たちの寄せ書き。
どれもが、まぶしすぎて、目を背けたくなるほどだった。
特に――摘みたての、小さな花束。
その素朴な香りが、愛されていた日々を呼び覚まし、堰を切ったように記憶が押し寄せる。
気づけば、頬を伝う涙が、止まらなかった。
母は驚き、戸惑いながら――それでも、優しく、静かに笑ってくれた。
「……お帰りなさい」
ただ、それだけ。
けれど、その一言が、ありったけの光となって、深く、深く、心の奥まで沁みていった。
楽章は、中盤へと進む。
ウィンドオーケストラの音の奔流に、満ちるものは、ただ純粋な感動だった。
あの日、先輩に伝えた。
光に、この身体を返したいと。
生きる歓びを知ったからこそ、この胸のどこかに、今も静かに座している光に、それを味わってもらいたいと思った。
たとえ、それが独りよがりだとしても。
神様と交わした、約束のためにも。
そして、それ以上に、素直な俺自身の気持ちとして。
俺はもう、死者だ。
変えようもない事実。
けれど、光は違う。
温かな体温と、確かな未来と、愛してくれる人たちに囲まれて、今を生きている。
だから、この手に握っていた小さなバトンを、そっと、渡したい。
送り出したい。
そう、心から願った。
けれど、それは、千紗先輩との別れを意味する。
だから、怖かった。
ほんの少し、怖かった。
けれど、先輩は何も言わず、ただ静かに、すべてを受け止めてくれた。
馬鹿だなあ、俺。
そんなふうに苦笑しながら、それでも、そのまっすぐな強さに、改めて心を奪われる。
――また、惚れてしまった。
生への未練はない。
本当に――幸せだった。
濃密で、奇跡のような時間だった。
まるで、アディショナルタイムのように。
神様が、そっと与えてくれた、優しい贈り物。
未練は――ない。
ないはずだった。
それでも。
大好きな人が、まだ、この世界にいる――。
その事実だけが、ほんの少し、心をかすめる。
「もう少しだけ、ここにいたい」と。
そんな我儘を、つい、願いたくなる。
でも――思うのだ。
こんなにも惜しいと思える時間を持てたこと。
それこそが、何よりの幸福だったのだ、と。
今なら、心の底から、そう分かる。
だからこそ――。
日記にも書けなかった。
信二にも、ずっと内緒にしていた。
神様との約束の、一つ。
『意識が完全に消える前に、自らの身体を手放せば、選んだひとりが不幸に命を閉じても、その人に再び生をもたらす加護を与えることができる』
きっと、これも――。
俺を愛してくれた誰かが、俺に与えてくれたものなのだろう。
もちろん、そんな未来なんて、望んじゃいない。
先輩が不幸で亡くなることなんて、あって欲しくない。
できれば――信二と幸せになって欲しい。
心の底から、そう願っている。
でも――。
きっと、俺が残せる最後の贈り物。
それは、これだけなのだろう。
ふと、視線を上げる。
トランペットを吹く千紗先輩の目に――きらりと、一筋、涙が光っていた。
その瞬間。
その一瞬が、たまらなく愛おしくて。
俺は、そっと、ふふっと――笑った。
どうか――。
どうか、お元気で。
*
曲は、ついに最高潮を迎えた。
ウインドオーケストラ全体がひとつの生命体のように脈打ち、熱を帯びる。
その中心で、千紗はまっすぐに未来を見据えた。
揺らぐことのない決意が、胸の奥で静かに燃えている。
――これが最後の演奏。悔いは残さない。この先に待つ、美しい未来のために。そして、大気君のために。絶対に、忘れない。
千紗の瞳に浮かんだ涙は、もはや悲しみではなかった。
それは、決別ではなく、受け継ぎの涙。
過去を抱きしめ、未来へと歩み出す者だけが流せる、強く、優しい涙だった。
音楽が、静かに、しかし確かに終わりに向かっていく。
千紗の顔に、自然と笑みが咲く。
泣きながら、笑っている。
最後の一音が、群馬県民会館を満たすと、深い静寂が訪れる。
その瞬間、大気は、千紗に向かってそっと微笑んだ。
声にならない声が、空気を震わせる。
そして千紗も、確かにそれに応えた。
微笑みながら、まっすぐに。
迷いも未練もない、ただ確かな、"生きる"という約束をその目に宿して。




