2027年9月11日(土)第三楽章『メスト「ナタリーのために」』
2027年9月11日(土)第三楽章『メスト「ナタリーのために」』
パーカッションが、夜空にそっと火を灯すように、神秘的なメロディーを刻み始めた。
微かな一音が、暗闇を優しく裂き、やがて広がっていく――まるで、瞬間ごとに強く輝く星々の脈動。
遠い国から、絶え間なく届く祈りの囁きのようでもあった。
第三楽章――『メスト「ナタリーのために」』。
亡き娘が、もしも生きていたなら――。
作曲者の切なる祈りが紡ぎ出す旋律は、過ぎ去った日々の扉を、そっと、けれど確かに開いていく。
音楽は、夢のように儚い記憶を一つひとつ呼び覚まし、
私……渚、いや……千紗自身の中で失われたものたちに、もう一度、静かな息吹を吹き込んだ。
あの日。信二から告げられた、あの真実。
身が引き裂かれるほどの衝撃だった。
――まさか。
――そんな重大な事実を、あの大気君が隠していたなんて。
怒りと混乱と絶望が渦巻き、私は、ただ、ただ信二を拒絶した。
でも……。
時間が経つほどに、冷静に考えられるようになった。
おそらく――大気君自身が、私のためでもあり、信二のためにも、そういう仕方を選んだのだ、と。
その優しさが、時に残酷なほど静かで、だからこそ誰にも気づかれなかったのだと。
それに――大気君自身の存在が、記憶の中で、世界の中で、少しずつ薄れていくのなら、妹の望む作品作りに協力し、大気君が生きた証を残すこと。それは、何よりも意味のあることだと、心から思えるようになった。
そして、決意した。
それを含めて、もう一度信二に連絡をしようとした――その日の夕方。
勤務先の高校の前で、車のブレーキ音が、悲鳴を上げた。
――生徒が、車の進路に飛び出していた。
一瞬、躊躇した。
もう……間に合わない、と。
でもその刹那、最近見た、あのニュースのインタビュー映像が、脳裏に鮮やかに蘇った。
――野球選手の樋口さん。
そう、あの事件で大気君が身を挺して庇った、後輩。
彼が、テレビカメラの前で、涙を堪えて言っていた。
『私には恩人がいる。だからこそ、彼に恥じない振る舞い方をしたい』
私も、そうだった。
あの絶望の中で、何度も、何度も、大気君に救ってもらった。
だからこそ――私も、彼と同じ行動を選びたかった。
考えるより先に、体が動いた。
その瞬間、視界が白く弾け、音が遠のき、
生徒の無事を確かめる前に、意識が、暗い底へと沈んでいった。
音楽が、静かな木管のさざめきから、次第に、力強い金管の波へと変わっていく。
第三楽章は、静寂の海からゆっくりとうねりを上げ、深く、深く、今の私の胸に届いてくる――。
事故の後、気が付くと、私は知らない部屋にいた。
見慣れぬ手。震える脚。
鏡に映るのは――中学生くらいの、見知らぬ女の子。
首のあたりに、縄の跡。
――自殺、だろうか。
部屋のドアが開く。
駆け込んできた、泣きじゃくる大人たち。
その顔を見て、悟った。
――私は、別の人の体に入ってしまったのだ、と。
でも、最初の混乱は、思ったよりも静かに引いていく。
そうか……私は、大気君と同じことを経験しているのか。
そう冷静に判断したとき、自分でも驚くほど心が静まっていた。
特別な奇跡や劇的な答えを、そこに求めていたわけではない。
もう、私は大人になっていた。
中学校に行くと、どうやらこの子はいじめられていた。
けど、もう私は、子どもっぽいいじめや偏見に振り回されるレベルではなかった。
録音、写真――証拠さえあれば、周囲の理不尽には理詰めで対応できた。
だが――この“孤独”だけは、理屈では処理できなかった。
大気君が、あのとき味わっていたであろう孤独。
それは、想像以上に、冷たく、重く、長く、心を蝕んでいった。
そして高校に入学して――私は、驚いた。
同じクラスに、妹の春がいたのだ。
気が付けば、目で追っていた。
亡くなる前に、私は中学生の春に、大気君の小説の執筆をお願いしていた。
けれど春は、その執筆の中で、当時を知ることになり、どこか苦しんでいる様子だった。
でも、私は信じていた。
春には作家の才能がある。
私がかつて部活動にすべてを賭けたように、春は言葉を紡ぐことに衝動を持っている。
だからこそ、ずっと応援していた――つもりだった。
けれど、春と一緒に高校一年の時間を過ごす中で、私は気付いてしまった。
春は――あの小説をきっかけに、時が止まってしまっている。
心にしこりが生まれ、そこから動けなくなり、無駄に罪悪感を抱き続けている。
だから、悩んだ。
悩んで、悩んで、悩み抜いた。
そして、ふと、胸の奥に記憶が灯った。
――顧問の土橋。
あの人が、バーンズの音楽で私を奮い立たせてくれたように、今度は私が、春の背中を押したい。本来、そうやって人を励ますために、生前の私は教師という道を選んだはずだ。
けれど――あまりにも、時間が足りなかった。
『……もしもし』
電話をかけたとき、すでに覚悟はできていた。
大気君の存在が消えていく件も、春自身の高校生活の残り時間も、何よりも――私自身が、いつまでこの“私”の意識を保っていられるか。それとの闘いだった。
けれど、もう一度死んでしまった身だ。怖いものなど、もうなかった。
『はい?』
電話の向こう側の男性は、知らない番号からの着信に戸惑っていた。
やけに警戒していて、それでもどこか疲れが滲んでいた。
私は――単刀直入だった。
『信二。私、千紗なんだけど』
『……は?』
『いいから、もう時間ないから、手伝って』
その瞬間、電話口の向こうで空気が止まったのがわかった。
後に、私は信二から、死ぬほど怒られた。
――自分の正体を明かすなんて、それは、大気と同じで、自滅行為だ! と。
実際にその行為は、生き返りの約束を破ることとなる。私――橘千紗が“生きていた”という事実を、この世界から、確定的に消し去るものだった。
それでも、私はそうした。
時間が、なかったから。
仮にもし、途中で意識が朦朧としたとしても――もし、この作品を映画作りのように、大事に扱えば、その魅力に惹かれた周囲の人々が、きっと春を支えてくれるはず。
そう信じて、私は信二に頼み込み、彼の人脈を通じて、様々な大人たちを紹介してもらい――そして、高校二年の、7月の生徒会選挙。私は、最後の大勝負に出た。
ウインドオーケストラが、巨大な海流のようにうねりを上げ、第三楽章のクライマックスが、ゆったりと押し寄せてくる。
金管と木管が織り成す壮麗な波が、会場を――そして私自身を――温かく、力強く包み込む。
目を閉じれば――音の粒が、光の粒に変わっていく。
星のように瞬きながら、私の過去を、未来を、そのすべてを優しく照らし出してくれるようだった。
その響きの渦の中で、私は、震える胸を抱えながら――映画作りの日々を、ひとつひとつ思い出していく。
昨年、私はただ、必死だった。
撮影も、営業も、クラウドファンディングも――何もかもが初めてだった。
だからこそ、必死に勉強し、必死に頭を下げ、必死に使えるものは何でも使った。
思い通りにならないことばかりで、心ない批判を投げてくる大人も少なくなかった。
――それでも、本当に、面白かった。
妹とは10歳も離れていて、子どものころはほとんど遊べなかった。
会話もどこかよそよそしくて、ちょっとだけ、距離もあった。
だからこそ――肩を並べ、同じ夢に向かって全力で走れたことが、どれほど嬉しかったか。
「ねえ、渚。ここのセリフ、もうちょっと自然にしてみない?」
「いいじゃん、それ。春らしいよ。もっとやってみて」
そんな何気ないやりとりが、今も胸の奥で、宝石のようにきらめいている。
撮影の段取りを詰めて、昼休みに構図を確認して、放課後には脚本を何度も書き直した。
笑って、悩んで、泣いて、また笑って――。
本当に、本当に、かけがえのない日々だった。
そしてそれも――10年前のあの日々。
私が、橘千紗として、確かに幸せに生きていた日々があったからこそ、いま、こうしてこの映画作りの瞬間があるのであろう。
すべては、私の人生に――彼がいてくれたから。
大気君が残してくれた数え切れない思い出が、胸の奥を静かに、けれど確かに熱くしていく。
――本当に、大気君は、私に与えすぎだよ。
まあ、でも。
今の平均寿命を考えれば、私の人生は――きっと短い方なのだろう。
それでも、胸を張って言える。
本当に、充実した人生だった、と。
音楽が、やがて穏やかに、静かに消えていく。
さっきまで広がっていた音の海は、ゆるやかに波を鎮め、深く、静かな湖面のように――世界を包んでいく。
その余韻は、深く、優しく、あたたかく、私の胸に降り積もっていく。
まるで――『もう、大丈夫』と囁くように。
まるで――『ここまで、よく生きたね』と抱きしめてくれるように。
私はそっと、目を閉じる。胸の奥に、小さく、微笑みが灯る。
――ありがとう……。
その言葉は、声にはならなかった。
けれど確かに、天国の彼に向って、そう伝えていた。
そして、私は意図して――静かな音楽の余韻と共に、自分の意識を、そっと、手放した。




