2027年9月11日(土)第一楽章『レント-アレグロ・リトミーコ』
2027年9月11日(土)第一楽章『レント-アレグロ・リトミーコ』
県民文化ホールの、大ホール。
映画撮影に参加すること自体、初めてだった。
ただのエキストラ――それだけのはずなのに、胸の奥で小さく震える何かがある。落ち着かない、ざわつきのような緊張感。
まして、この曲を、あれから10年の時を経て、こうしてまた耳にすることになるとは。信二自身、まったく想像すらしていなかった。会場こそ違えど、あの日と同じ旋律が、今、空気を震わせる。
県内の吹奏楽選抜の指揮を務める土橋の指揮棒が、鋭く空を裂くように振り下ろされた。
瞬間、ティンパニーの深く重い響きがホールの床を、壁を、天井を震わせる。第一楽章――『レント-アレグロ・リトミーコ』。
その音楽が描いているのは、愛する者を亡くした悲劇。そう、千紗に教わった言葉が、脳裏に蘇る。
金管と木管が渦を巻き、絶望そのものを音にして押し寄せてくる。
まるで悪夢の迷宮に迷い込み、出口を見失ったかのような錯覚。
低音が地の底から這い上がるように響き、会場全体を圧迫する。
その振動は、理屈を超えて胸の奥を直撃し、忘れかけていた恐怖と喪失を、いや応なく呼び覚ます。
抗う間もなく、俺は過去へと引き戻されていた。
――あいつがいなくなってからも、野球部の仲間とは時々集まっていた。
それでも、あの頃の大気の存在が、個人差はあるものの、少しずつ仲間たちの中から、まるで煙のように消えていくのを感じていた。
笑い話の中に、もう大気の名前は出なくなる。
時間という名の波が、何もかもをさらっていくように。
それに、正直、俺は戸惑っていた。やりきれない思いがずっと、胸の奥にくすぶっていた。
――大気は確かに生きていた。確かに、ここにいたんだ……。
その『事実』だけでも、どうにかして残したかった。
そんな思いが、ふつふつと湧き上がっていた、ちょうどその頃。久しぶりに、千紗から連絡がきた。
もともと千紗とは、大気がいなくなったあとも、交流は続いていた。
別にそれは恋愛なんてものじゃない。お互いの腹の内を、余計な説明抜きで理解している――そんな、親友というより戦友に近い関係だった。
千紗が顧問の土橋に憧れて教員になったことは知っていた。
「まあ、社会人をうまくやっているだろ」
そんな軽い気持ちで、久しぶりに届いたラインを開いた――そして、目を疑った。
まったく想像もしていなかった内容だったからだ。
そのため、後日。
久しぶりに、ふたりだけでごはんに行くことになった。
場所は、甲府駅近くにあるイタリアンだったと思う。
静かな店内。ほのかに漂うガーリックとオリーブの香り。テーブルに置かれた水のグラスが、窓から差し込む街頭の光をきらりと反射している。
「実はね、信二」
前菜をつつきながら、千紗が唐突に口を開いた。
「中学生の私の妹が、私と大気君との当時の話を小説にしたいって言っててさ。……どうしようか」
その声は、どこかためらいを帯びていた。
過去を掘り返していいのか――千紗自身、とても悩んでいるのが伝わってきた。
千紗はもう、カウンセリングに通う必要もなくなるほど、もう完全に立ち直っていた。
それでも、本来、親友ならば、まずはその心の負担を気遣うべきだったのだろう。
だが――俺の中で別の火花が散っていた。
そうか……その手があったか。
確かに、大気が『いた』という事実は、人それぞれの記憶の中で、少しずつ色褪せていっている。
けれど、たしか大気自身の日記が、今、ご両親のもとに保管されていて、まだ無くなっていないはずだ。
なら、それを何かしらの形で創作物として昇華させることができれば――
たとえ疑似的でも、『大気が確かに存在した』という証拠を、未来へ残すことができるんじゃないか。
「絶対に! やるべきだよ!」
気づけば、柄にもなく声を張り上げていた。
興奮で言葉が弾け、店内の空気を少し揺らす。
千紗が、目を丸くして固まった。
だが、その瞳の奥が、ふっと変わった。驚きのあとに、わずかな違和感を見つけたような――そんな光が宿った。
千紗は、じっと俺を見つめて、静かに探るように言った。
「ねえ。……もしかしてさ、大気君とのことで、何か私に隠していない?」
――不覚だった。
そこから、徹底的に問い詰められた。
あの日の食事の場は、なんとか取り繕ってやり過ごした。
だが、それから何度も何度も、電話で、ラインで、そして直接会って――千紗は、同じ問いを投げかけてきた。
「ねえ、教えて」
「私、知らなきゃいけないことでしょう?」
俺は、逃げた。
けれど、もう逃げられなかった。
そして――とうとう、電話で言ってしまった。
『そ……だったんだ……』
受話器の向こう。
その瞬間に漏れた千紗の、絶望の色をまとった声。
今でも、耳の奥にこびりついて離れない。
『千紗!』
慌てて呼びかけた。
けれど、次の瞬間――電話は切れた。
ラインはブロックされ、既読がつくことは二度となかった。
そして、数日後。
信じたくない知らせが届いた。
千紗が、勤務先の学校の前で、生徒を庇い――交通事故で亡くなった、と。
低音楽器の波動が、腹の底をえぐるように響き渡る。
空気が震え、骨が鳴り、血の流れさえ揺さぶられる。
音の圧力が、胸を裂き、内に秘めていた痛みを無理やり抉り出していく。
――大気の死。
――そして、千紗の死。
ふたり。
俺の世界を形づくっていた、大切な、大切な人間たち。
その命が、音もなく奪われていった事実が、あのときの衝撃とともに胸に蘇る。
俺は、その瞬間、自分がいかに臆病で、無力だったかを思い知らされた。
また、何もできなかった。
また、何も守れなかった。
大気は言っていた――
『トリガーを引いた信二自身の罰、と思って受け止めてほしい。そこは……親友として、背負ってもらいたい。本当にごめんな』
その言葉が、どれほどの重みを持っていたのか、まだ、あのときの俺には測りきれなかったのかもしれない。
今ならわかる。あまりにも、あまりにも大きすぎた。
そして――とどめを刺したのは、千紗の葬式だった。
黒服の海の中に、小さな影がひとつ。
千紗の妹――春ちゃん。
震える声で、書きかけの原稿を出しながら、彼女は深々と頭を下げ、言った。
「……沢山協力してもらったのに、未完成で申し訳ありません。もう……書き進められません」
謝罪の言葉。
その震えの中にあるのは、はっきりとした絶望。
彼女にとっても、千紗の存在は、計り知れないほど大きかったはずだ。
――もう、俺は耐えられなかった。
その瞬間、胸の奥で何かが千切れる音がした。
全身から血の気が引き、代わりに焼けるような熱が流れ込んでいく。
ティンパニーが、力強く打ち鳴らされる。
一打一打が、まるで命の鼓動をなぞるかのように、正確に、重く、痛烈に。
それはまるで、終わりの到来を告げる――死の鐘。
絶望が形を持ったなら、きっとこの音になるだろう。
俺が経験した『終わり』と、あまりにも酷似した音。
音がすべてを支配し、世界が音楽に飲み込まれる。
やがてその轟きは、静寂の淵へと吸い込まれるように、ゆっくりと消えていく。
第一楽章が、そっと幕を下ろした。




